第百二十四夜 国を置く場所
第百二十四夜 国を置く場所
空が替わった翌朝も、王都の鐘は鳴った。
いつもと同じ時刻だった。
鐘楼を任されている老人は、窓の外に広がる見知らぬ空を一度だけ見上げ、それから普段どおり綱を引いた。
低く、厚い音が街へ広がる。
パン窯へ火を入れようとしていた者が顔を上げた。
家族の人数を数え直していた者が手を止めた。
昨夜は一睡もできなかった者も、鐘の音を聞いて戸を開けた。
鐘が鳴ったなら、朝だった。
王都が別の場所へ移っても、朝にするべきことまで消えたわけではない。
◇
王城の会議室では、長机の上に二枚の地図が並べられていた。
一枚は、昨日までの王都と周辺領地を記した地図。
もう一枚は、第三ダンジョンに置かれた王都と、その外側へ整えられつつある水路、耕作地、仮設道路を記した地図だった。
形は似ている。
けれど、繋がっている先が違う。
「最初に決めます」
父王は、集まった者達を見回した。
大臣、近衛隊長、施療院長、商人組合の代表、職人組合の代表。昨夜まで避難誘導に走っていた者達も、着替える暇がなかったのか、煤や土を残したまま席についている。
「ここは我らの国だ。だが、この土地は我らのものではない」
室内の視線が、机の端に立つクラウディアへ向いた。
クラウディアは何も言わない。
父王は続けた。
「救われたことと、国を預けたことを混同するな。法を変える必要があるなら我らが決める。配給を行うなら我らの名で行う。治安を守るのも、民へ説明するのも我らの役目だ」
「必要な支援は提供します」
クラウディアが言った。
「食料、水、医療、仮設住居、資材、測量、輸送。要請窓口も用意します。ただし、こちらから王都の行政命令は出しません」
財務を預かる老人が、二枚目の地図へ目を落とした。
「費用は」
「救命と初期安定に必要な支援には、対価を求めません」
「その先は」
「その先は交渉です」
クラウディアは淡々と答えた。
「無償支援を永続させれば、いずれ自ら決める力を奪います。逆に、今日から全てを請求すれば国が立ち上がりません。いつ、何を、どの条件で交易へ切り替えるかを、双方で決めます」
老人は少し考え、頷いた。
「分かりやすい」
「複雑にする理由がありませんので」
エリオノーラは、父王の隣で議事記録を取っていた。
救われた国。
移された国。
その呼び方は、どちらも間違っていない。
けれど、それだけで自分達を呼び続ければ、いつか本当に救われただけの国になってしまう。
「本日の優先順位を確認します」
エリオノーラは記録板を置いた。
「第一に飲料水と下水。第二に医療と衛生。第三に配給。第四に城門内外の治安と、行方不明者の再確認。行政窓口は王城前広場へ集約します」
近衛隊長が手を上げた。
「城壁外の警備範囲は、どこまでといたしますか」
新しい地図には、まだ国境がない。
白い標柱で示された移送予定地の輪郭は残っているが、その外には道も森も畑も続いている。
「今日、剣を持って守れるところまでを国境とは呼びません」
父王が答えた。
「まず、民が必要とする範囲を測れ。畑、水路、資材置き場、墓地。境を決めるのは、それからだ」
近衛隊長は一礼した。
会議は続いた。
決めなければならないことは多い。
昨日まで存在しなかった問題が、机の上へ次々に置かれていく。
それでも、誰も空が替わった理由を議題にはしなかった。
今はもう、理由より先に水を流す必要があった。
◇
王都西側の共同水場には、長い列ができていた。
アークライト側が設置した仮設給水器から、住民達が桶や壺へ水を汲んでいる。
水は足りている。
問題は、運ぶ人手だった。
井戸の多くは支持地盤ごと移されている。けれど、地下水脈との繋がりは切れていた。昨日まで水を湛えていた井戸の底には、浅く残った水と湿った石しかない。
城内へ巡らされていた水路も、外から流れ込む水源を失っていた。
仮設水路を繋げば、再び流せる。
言葉にすれば簡単だった。
実際には、古い石造水路とアークライト側の仮設水路では、高さも幅も流量も違う。
接続部では、石工達が朝から怒鳴り合っていた。
「このまま流せば、最初の曲がりで溢れるぞ!」
「なら、口を絞れ!」
「絞れば圧が上がる! 古い継ぎ目が耐えん!」
「迂回路を掘る時間がどこにある!」
その輪の外で、アインは水路を覗き込んでいた。
黒い礼装ではない。
簡素な作業着に着替え、袖を肘まで上げている。
隣には、同じように作業着姿のリシアがいた。
「アイン様」
「何だ」
「会議へ出席しなくてもよろしいのですか」
「俺が出ると、俺に聞く」
アインは、水路の石へ指を当てた。
「あの国が決めることだ」
「では、こちらは」
「水が流れない」
確かに、誰かが直さなければならない。
けれどリシアには、アインがここへ来た理由がそれだけではないようにも思えた。
王城の会議室に座れば、助けた者として意見を求められる。
水路の前に立てば、必要なのは意見ではなく手だった。
最近、少し分かってきた。
アインは、誰かの上へ立つより先に、その人が立てる場所を作ろうとする。
やり方が時々、国一つを別の場所へ移すほど大きいだけで。
「そこの子供!」
石工の一人が声を上げた。
リシアは一瞬、自分が呼ばれたのかと思った。
石工の視線はアインへ向いている。
「危ないから下がっていろ。今から水を試しに流す」
「分かった」
アインは素直に一歩下がった。
リシアも続く。
「名乗らなくてよろしいのですか」
「必要ない」
「後で知った時、あの方は大変驚かれると思います」
「今、驚かれるよりいい」
仮設水路の上流で、調整体が流量弁をわずかに開いた。
水が来る。
透明な流れは接続部へ入り、古い石造水路へ落ちた。
最初は静かだった。
次の瞬間、曲がり角から水が跳ね上がった。
「閉めろ!」
石工が叫ぶ。
流れが止まり、溢れた水だけが路面を濡らした。
「だから絞れと言っただろう!」
「絞った先が耐えんと言っている!」
再び声がぶつかる。
アインは、濡れた石の上へしゃがんだ。
「どう直す」
石工達が黙った。
「何だ、坊主。石工にでもなるつもりか」
「ならない。だが、手は出せる」
年長の石工が鼻を鳴らし、水路の曲がりを指した。
「流れが速すぎる。ここへ入る前に一度広げて、勢いを殺したい。だが、広げる場所が足りん」
「場所があればいいのか」
「石を外して壁を削れば作れる。半日はかかるがな」
アインは立ち上がり、古い水路の外壁へ手を置いた。
「この線までなら削っていいか」
石工は示された範囲を確かめた。
「支えは残る。だが、どうやって」
アインは、リシアを見た。
「リシア。やってみろ」
「私が、ですか」
「切らなくていい。削るだけだ」
アインの指先から、淡い光が伸びた。
石の表面に細い線を描き、削る範囲を囲んで消える。
「この内側へ、薄く魔力を沿わせろ。押すな。表面を撫でるだけでいい」
リシアは水路の外壁へ手を置いた。
感知の訓練で見つけた、自分の内側にある淡い気配を探す。
外へ押し出そうとすると、すぐに内側へ折り返そうとする力。
以前なら、そこで閉じていた。
今日は、押さない。
アインが残した線へ、指先から細く沿わせる。
石の表面が、ざり、と小さな音を立てた。
白い粉が落ちる。
「止めろ」
石工の声に、リシアはすぐ手を離した。
「深すぎましたか」
「逆だ。怖がって浅すぎる。この程度じゃ日が暮れる」
叱られた。
けれど、できていないとは言われなかった。
リシアはもう一度、石へ手を置く。
「このくらいでしょうか」
「もう少しだ。線から外すなよ」
「はい」
今度は、先ほどより少しだけ強く魔力を沿わせた。
石の表面が細かく崩れ、囲まれた範囲がゆっくりと薄くなっていく。
粉塵は出た。
時間もかかった。
けれど、リシアの魔力は石工が残すと決めた線を越えなかった。
年長の石工が切り口を指で撫でる。
「よし。初めてにしちゃ上出来だ」
その言葉を聞いた途端、リシアの肩から力が抜けた。
「次は」
「底を半歩分下げる。そこへ平石を敷く。角は立てるな、流れが暴れる」
「分かりました」
「待て。そこは削りすぎるな!」
リシアの手が止まる。
残った厚みが見えるよう、石粉を手で払う。
「もう指二本分、残せ」
「はい」
作業が進み始めた。
魔力で石を削るリシア。
切り口を確かめる石工。
平石を運ぶ調整体。
泥を掻き出す住民。
アインも渡された籠へ砕石を入れ、運んだ。
誰が命令したわけでもない。
それでも、少しずつ接続部の形ができていく。
◇
二度目の試験では、水は溢れなかった。
広げられた部分で勢いを落とし、古い石造水路へ流れ込む。
水路沿いで待っていた者達から声が上がった。
子供達が流れを追って走り出す。
石工は水面を睨み、最初の曲がりを確かめ、次の継ぎ目へ歩いた。
「まだ喜ぶな。先で漏れるぞ」
そう言いながら、口元は少し緩んでいた。
リシアは、石粉の付いた手を払う。
「直せるか」
「誰に聞いている」
石工は胸を張った。
「ここから先は、俺達の水路だ」
「そうか」
アインはそれだけ答え、道を空けた。
石工達が道具を担ぎ、水を追っていく。
その背を見送ってから、先ほどアインを子供と呼んだ男が振り返った。
「坊主」
「何だ」
「助かった。名は」
「アイン」
「家名は」
「長いから、いい」
男は笑った。
「そうか。じゃあ、アイン。次に手を貸す時は、あの嬢ちゃんも連れてこい。筋がいい」
「分かった」
「それと、教えるなら最初に加減まで教えろ。嬢ちゃんが慎重でなければ、壁に穴が開いていたぞ」
「悪い」
リシアは口元を押さえた。
男はまだ知らない。
自分が、国一つを移した者へ作業手順を教えたことを。
けれど、アインは少しも不満そうではなかった。
むしろ、どこか楽しそうに見えた。
◇
昼を過ぎる頃には、王城前広場に幾つもの窓口が並んでいた。
行方不明者確認。
配給。
医療。
住居損傷。
城壁外へ出る者の登録。
アークライト側への支援要請は、その奥に一つだけ置かれた窓口へ集められる。
必要な物を求める窓口であって、命令を受ける場所ではない。
エリオノーラは広場を歩き、一つずつ状況を確かめた。
配給所では、王都の倉庫から出された穀物と、アークライトから提供された保存食が分けて記録されている。
施療所では、王都の医師とアークライト医療班が同じ患者を見ながら、使う薬と記録の残し方を確認していた。
近衛兵は城門に立っている。
その外側には、黒い装備の調整体が距離を置いて待機していた。
守っている。
けれど、門を取ってはいない。
父王が広場へ降りてきた。
「水路は」
「西側から流れ始めました。南側は夕刻までに接続予定です」
「配給は」
「本日分は足ります。明日以降の量を再計算しています」
「城壁外は」
「測量を始めました。畑を作る者、資材を集める者、外へ出ることを怖がる者。それぞれです」
父王は広場を見渡した。
昨日と同じ顔がある。
昨日とは違う空がある。
「国は、どこにあると思う」
突然の問いに、エリオノーラは少し考えた。
王城。
城壁。
地図に引かれた境。
どれも国の一部だった。
けれど、今朝の会議で地図を二枚並べた時、そのどちらにも完全な国は描かれていなかった。
「決める者と、暮らす者がいる場所でしょうか」
「そうかもしれんな」
父王は頷いた。
「ならば、ここへ置き直すしかない」
広場の端で、小さな騒ぎが起きた。
水路を直していた石工が、近衛兵へ何かを尋ねている。
近衛兵が答えると、石工の顔から血の気が引いた。
遠くに立つアインを見つけ、慌てて姿勢を正そうとする。
アインはそれに気づくと、片手を上げた。
止めるような、気にするなというような、簡単な仕草だった。
石工はしばらく固まっていた。
やがて諦めたように頭を掻き、仲間達と一緒に次の水路へ向かった。
エリオノーラは、その姿を見て少し笑った。
「どうした」
「いいえ」
国を別の場所へ移すことはできる。
けれど、そこへ国を置くのは、暮らす者達にしかできない。
鐘楼から、昼を告げる鐘が鳴った。
朝と同じ音だった。
その音の下で、水が流れ、人が並び、窓口が開き、石工達が次の壊れた場所へ歩いていく。
別の空の下で、国はもう一度動き始めていた。




