幕間十五 帝国軍の空回り
幕間十五 帝国軍の空回り
グランカーン帝国南方侵攻軍が、敵王都跡地を確保した。
帝都へ送られた第一報には、そう記されていた。
敵王都は消滅。
抵抗勢力なし。
王都跡地を確保。
作戦目的を達成。
簡潔で、勇ましく、報告書としてよく整っている。
ただし、戦利品欄は空白だった。
捕虜欄も空白。
占領地人口、徴税見込み、接収可能食料、使用可能施設。
どの欄にも、後日確認予定と記されていた。
その後日は、いつまでも来なかった。
◇
侵攻軍は、旧王都跡の窪地に七日間滞在した。
初日は、勝利の確認に費やされた。
二日目には、周辺へ偵察隊が出された。避難した住民や、持ち出された財貨を探すためだった。
三日目、食料の配給量が減らされた。
王都からの接収を前提としていたため、侵攻軍が運んでいた食料は十分ではなかった。周辺の村々も、進軍時に徴発されるか、住民が逃げた後だった。
四日目には、攻城器具の一部を解体して薪にした。
五日目、兵站隊から撤退の具申が出された。
六日目、指揮官は具申を却下した。
七日目の朝、撤退命令が出た。
公式記録では、南方侵攻軍は戦略目的を達成したため、部隊再編のために後方へ転進したことになっている。
兵站隊の記録には、別の理由が残っていた。
食料不足。
飲料水不足。
占領対象なし。
現地調達不能。
そして最後に、担当官の筆跡で短く書き足されている。
これ以上、穴を守る理由なし。
◇
帝都では、戦勝式典の準備が進められた。
敵王都を陥落させた将へ勲章を与え、鹵獲品を並べ、捕虜を民衆へ示す。
本来は、そういう式典になるはずだった。
ところが、並べる物がない。
鹵獲品として届いたのは、旧王都跡の底から拾われた石が三つ。
捕虜はいない。
敵王家の旗もない。
王城の鍵もない。
式典局の役人は、軍務局へ照会を送った。
軍務局は、現地軍へ照会を送った。
現地軍は、すでに撤退していた。
回答には、時間を要した。
その間にも、帝都では敵王都陥落の報が広がった。
民衆は勝利を喜んだ。
新聞は帝国軍の勇壮な進撃を描いた。
敵国の王城が地響きとともに崩れ落ち、帝国旗が城壁へ掲げられる挿絵まで載った。
実際には、掲げる城壁がなかった。
帰還した兵士達は、その新聞を見て黙った。
やがて酒場の隅で、誰かが言った。
「俺達が落としたのは、穴だ」
別の誰かが、酒杯を置いた。
「穴すら落としていない。最初から開いていた」
笑いが起きた。
明るい笑いではなかった。
その夜から、南方侵攻軍には別の呼び名が付いた。
穴の征服者。
◇
旧王都跡には、水が溜まり続けた。
剥き出しになった地下水脈から水が湧き、雨が降り、周囲の細い流れが少しずつ窪地へ向きを変えた。
一年目には、底へ降りる道が沈んだ。
三年目には、窪地の底を歩いて渡れなくなった。
十年が過ぎる頃には、対岸が朝靄の向こうへ霞むほどの湖になっていた。
帝国の地図局は、その湖へ戦勝を記念する名を付けようとした。
候補はいくつも出た。
南方征服湖。
帝威湖。
凱旋湖。
どれも定着しなかった。
周辺に戻った者達は、ただ王都跡の湖と呼んだ。
商人達は、空都湖と呼んだ。
旅人達は、穴の征服者達が見つけた湖だと笑った。
名を決める会議だけが、毎年開かれた。
会議録には多くの候補が残り、地図の空欄は長く埋まらなかった。
◇
事件から四十七年後。
帝国財務局の若い官吏が、古い占領地台帳の整理中に不審な項目を見つけた。
南方旧王都占領地。
人口、未確認。
徴税額、未確定。
現地代官、未任命。
備考、継続調査中。
四十七年間、一度も税を納めず、一人の代官も置かれず、それでも帝国領として台帳に残り続けている土地だった。
官吏は上司へ報告した。
上司は、現地確認を命じた。
若い官吏は長い旅の末、湖畔へ辿り着いた。
そこには、小さな渡し場があった。
舟を繋いでいた老人へ、官吏は帝国の占領地がどこにあるのか尋ねた。
老人は湖を指差した。
「あの下だよ」
「湖の向こうですか」
「下だ」
官吏は湖面を見た。
風に押された小さな波が、岸辺の杭を濡らしている。
「住民は」
「魚ならいる」
「代官は」
「見たことがないな」
「徴税は」
老人は少し考えた。
「魚から取るのか」
若い官吏は、携えてきた台帳を閉じた。
帝都へ戻った彼は、南方旧王都占領地の項目へ廃止を提案した。
提案は却下された。
理由は、帝国が正式に占領地を失った記録が存在しないためだった。
◇
さらに時代が過ぎると、事件は軍事史の教本へ載るようになった。
大軍を動かし、敵国の王都へ到達しながら、占領すべき国も、支配すべき民も、持ち帰る物も得られなかった遠征。
目的を問わず手段だけを進めた結果、全ての力が空へ逃げた事例。
教官達は、それを南方王都消失事件と呼んだ。
歴史家達は、無対象占領と記した。
兵站を学ぶ者達は、略奪を補給計画へ組み込んだ失敗例として扱った。
けれど、兵士と民衆は、もっと短い言葉で呼んだ。
帝国軍の空回り。
やがてその言葉は、戦争から離れて使われ始めた。
大勢で押しかけたのに、相手が誰もいなかった時。
多くの金を使ったのに、欲しかった物を得られなかった時。
立派な報告書だけが残り、何を成し遂げたのか誰にも説明できない時。
人々は、肩を竦めてこう言った。
「まるで帝国軍の空回りだ」
◇
湖畔には、今も石碑がある。
帝国が建てた戦勝記念碑だった。
碑面には、南方侵攻軍が敵王都を陥落させ、帝国の威光を示したと刻まれている。
その隣には、後世に置かれた小さな案内板があった。
こちらには、帝国軍到着時点で王都も住民も存在しなかったこと、侵攻軍が七日後に撤退したこと、旧王都跡が長い年月をかけて湖になったことが記されている。
訪れた旅人達は、大きな戦勝記念碑を見上げる。
次に、小さな案内板を読む。
そして最後に、何も語らず広がる湖を見る。
水面には、帝国旗も、城壁も、勝者の姿も映っていなかった。
◇
その頃、第三ダンジョンでは朝市の鐘が鳴っていた。
移された王都の城壁は、今も残っている。
けれど、閉ざされてはいない。
四方の門から荷車が出入りし、城壁の外には新しい家々と工房が建ち、そのさらに向こうまで畑が広がっていた。
かつて仮設だった水路には石が組まれ、洗濯物を抱えた者と、水車の調子を確かめる職人が同じ道を行き交う。
市場では、地上から持ち込まれた古い料理と、第三ダンジョンで覚えた料理が隣り合って売られていた。
その一角で、少女が豆の入った袋を抱えている。
袋の口を結ぶ紐には、小さな木札が付いていた。
最初の畑から、七代目。
少女は木札の文字を指でなぞり、店先に座る祖母へ尋ねた。
「最初は、一粒だったの?」
「そう聞いているよ」
「一粒で、こんなに増えたの?」
「一粒だけではないさ」
祖母は笑い、朝市を見渡した。
「植える人が、たくさんいたんだよ」
少女は袋を抱え直した。
今日は、城壁の外にできた新しい畑へ種を届ける役目を任されている。
門を抜けると、第三ダンジョンの朝空が広がっていた。
畑の間では人々が土を起こし、子供達が水路沿いを走り、遠くでは新しい家の梁が組まれている。
少女は畑へ着くと、袋から豆を一粒取り出した。
指で小さな穴を作る。
種を入れる。
土を戻す。
別の空の下で、今年も最初の一粒が植えられた。




