第百二十二夜 空の替わる刻
第百二十二夜 空の替わる刻
正午まで、あと二十分。
王都の鐘楼では、鐘を鳴らす者が綱を握ったまま空を見ていた。
朝から何度も鳴らした。
布告のため。
南門から去る者を見送るため。
そして次に鳴らすのは、この街が今いる場所を離れる時だと聞かされている。
けれど、何が起きるのかは誰にも分からなかった。
城壁の内側では、人々がそれぞれの場所で待っていた。
家の戸口に立つ者。
荷車の脇へ座る者。
広場へ集まった者。
種の入った袋を両腕で抱える老女。
炉の火を落とし、冷えた煉瓦へ手を置く鍛冶師。
泣いている子供へ、すぐ終わると言い聞かせる母親。
何が終わるのか、母親自身にも分かってはいなかった。
王城の露台には、父王が立っていた。
その隣で、近衛兵が携帯端末を両手で支えている。
小さな画面の向こうには、エリオノーラがいた。
『移送境界、最終固定』
クラウディアの声が、王都各所へ置かれた端末から流れる。
『地下構造照合完了。範囲内生命反応、四万七千六百十二。事前確認数と一致』
父王は、眼下の街を見る。
「南門から出た者は」
『護衛隊とともに移送境界外へ到達済みです。街道上の二百七十一名も安全距離を確保しています』
「そうか」
短く答えた。
城壁の外。
南へ続く街道では、去ることを選んだ人々が足を止めていた。
振り返れば、まだ王都はそこにある。
見慣れた城壁。
見慣れた塔。
見慣れた屋根。
自分達が離れた国が、これから目の前で消える。
誰も先へ進めなかった。
◇
『後方主力より騎兵別働隊が分離しました』
平原に立つ八咫烏へ、クラウディアの声が届く。
『推定二百。南東から王都へ迂回。現速度では、移送完了予定の三分後に外縁へ到達します』
「間に合わないな」
『はい』
別働隊が、王都へ。
間に合わない。
その言葉が意味するものは、数時間前までとは違っていた。
相馬は線の手前から、八咫烏を見上げた。
「行かなくていいのか」
『間に合わない』
「でも」
『あいつらが、だ』
相馬は王都の方角を見る。
まだ街は見えない。
けれど、そこにいる者達が何をしようとしているのかは聞いた。
「本当に、街ごと消えるのか」
『消えるんじゃない』
八咫烏の戦術主眼が、遠い王都へ向く。
『場所を替える』
◇
正午まで、あと十六分。
第三ダンジョンでは、白い標柱が囲んでいた土地の上へ、淡い光の線が伸びていた。
何もない草原へ、王都の輪郭が重なる。
城壁。
王城。
街路。
家々。
まだ薄い光でしかないそれらの間を、調整体と技術部員達が走っている。
仮設水路の接続確認。
下水処理系統の待機。
医療班の配置。
火災、倒壊、転倒への備え。
その中央で、エリオノーラは共有表示を見上げていた。
父王の立つ露台が映っている。
その向こうには、自分が生まれ育った街が広がっていた。
「お父様」
『どうした』
「怖くは、ありませんか」
父王は少し考えた。
『怖い』
飾らない返答だった。
『だが、怖くないふりをするよりは、王として役に立つ』
「皆も、怖がっています」
『ならば伝えろ。お前も怖いと』
エリオノーラは息を吸った。
王都全域へ繋がる回線を開く。
「皆様」
街の各所で、人々が端末へ顔を向けた。
「わたくしも、怖いです」
広場の子供が、泣くのを止めた。
「何も起きないかもしれません。少し揺れるかもしれません。目を閉じている間に終わるかもしれません」
クラウディアが、わずかに視線を向けた。
技術上は、何も起きない。
けれど訂正はしなかった。
「ですから、怖い方は、隣にいる方の手を取ってください。隣に誰もいなければ、近くの方へ声をかけてください」
種袋を抱えていた老女が、隣に立つ若い兵士へ片手を差し出した。
兵士は一瞬だけ驚き、その手を取る。
「空が替わっても、皆様の国はなくなりません」
エリオノーラは、画面の向こうの父を見る。
「わたくしも、替わった空の下でお待ちしています」
◇
『移送実行まで、十秒』
鐘楼の男が、綱を引いた。
鐘が鳴る。
一度。
音が王都の屋根を渡っていく。
『九』
二度。
城壁の外へ音が抜ける。
『八』
三度。
南の街道で、人々が自分達の国を見る。
『七』
父王は露台の手摺へ手を置いた。
『六』
鍛冶師は、炉の前に立った。
『五』
老女は、種袋と兵士の手を握った。
『四』
母親は、子供を抱き寄せた。
『三』
エリオノーラは、画面の中の街から目を逸らさなかった。
『二』
クラウディアが右手を上げる。
『一』
振り下ろした。
『移送』
揺れはなかった。
音もなかった。
光に包まれることもなかった。
ただ。
王都の上にあった朝の空が、瞬きの間に消えた。
代わりに、雲一つない青空が広がっていた。
城壁の向こうに、見たことのない森がある。
遠くには山並みが見える。
鳥の群れが、驚いたように街の上を旋回していた。
鐘楼の男は、綱を握ったまま空を見上げた。
鐘の余韻だけが、新しい空へ響いている。
『都市移送、完了』
クラウディアの声が届く。
『生命反応、四万七千六百十二。欠落なし』
一拍遅れて、街中から声が上がった。
歓声とは少し違った。
泣き声。
笑い声。
誰かの名を呼ぶ声。
無事を確かめ合う声。
それらが一つになり、城壁の内側から新しい空へ昇っていく。
エリオノーラは転移門を抜け、王城の露台へ出た。
父王が振り返る。
王女としての礼を取る前に、父の腕が伸びた。
「お帰り、エリー」
「ただいま戻りました」
今度は、画面越しではなかった。
◇
別働隊が王都外縁へ到達した時、そこに王都はなかった。
街道は、途中で切れていた。
畑も。
城壁も。
塔も。
厚い支持地盤ごと切り取られた広大な跡地だけが、地上に残っている。
騎兵達は馬を止めた。
先頭の者が、何度も地図と空になった土地を見比べる。
間違いなく、ここだった。
昨日まで。
今朝まで。
つい先ほどまで、国があった場所だった。
風だけが、何もなくなった跡地を渡っていく。
その頃、別の空の下では、王都の鐘がもう一度鳴っていた。




