第百二十一夜 止まる理由
第百二十一夜 止まる理由
「時間の味方って、何だよ」
少年は、線の前に立ったまま聞いた。
八咫烏は動かない。
『そのままの意味だ』
「分からないから聞いてる」
『今のお前達には、考える時間が要る』
少年の顔が強張った。
「俺達が、何も考えてないって言いたいのか」
『考えているなら、線は越えない』
短い答えだった。
少年は言い返そうとして、口を閉じた。
線の向こうでは、動けなくなった魔導騎装から搭乗者が罵声を上げている。
進め。
そいつを倒せ。
命令に背くな。
けれど、残る七騎は動かなかった。
一騎が何をされたのか、近くで見ていた。
八咫烏が、何をしなかったのかも。
「あんた」
少年が、声を落とした。
「舞達を知ってるのか」
アインは答えず、クラウディアへ短く問う。
「繋げられるか」
『本人の同意を確認済みです』
八咫烏の外部音声へ、小さな雑音が混じった。
『相馬君』
少年が、顔を上げた。
『舞です』
「……舞?」
『私達は五人とも生きています。斬られた子も、治療を受けて助かりました』
相馬と呼ばれた少年は、何も言わなかった。
ただ、握っていた拳をゆっくりと開いた。
『今すぐ信じてとは言いません。でも、お願い。そこから先へ進む前に、自分の目で見たものを思い出して』
「舞、お前達は」
『逃げたんじゃない』
舞の声は震えなかった。
『これ以上、あの人達の言う通りにしてはいけないと思ったから、止まったの』
通信が切れる。
相馬は八咫烏を見上げていた。
「あいつらは、生きてるんだな」
『生きている』
「あんたが助けたのか」
『俺だけじゃない』
相馬は少しだけ俯いた。
その背後で、騎兵達が互いの顔を見る。
舞の声は、外部音声を通して平原へ届いていた。
逃亡した勇者達は、敵に殺された。
そう聞かされていた者もいた。
裏切り者として処刑された。
そう信じていた者もいた。
どちらも、違った。
◇
『相馬悠斗!』
車列の後方から、拡声術式で増幅された声が響いた。
『勇者たる者が、敵の虚言に惑わされるな! 直ちに退け!』
相馬は振り返らなかった。
『先行部隊、前進せよ! 命令拒否は敵前逃亡と見なす!』
騎兵の列が揺れた。
命令に従おうと手綱を握り直す者。
前の馬が動かないため、進めずにいる者。
線と八咫烏と相馬を、何度も見比べる者。
七騎の魔導騎装のうち、一騎が右腕を上げた。
腕部へ備えられた投射器が、相馬の背へ向く。
『退け、勇者殿』
搭乗者の声に、迷いはなかった。
『さもなくば、命令違反者として排除する』
相馬は、ようやく振り返った。
「俺を撃つのか」
『退け』
「同じ側だろ」
『命令に従う限りはな』
投射器へ、魔力が集まる。
相馬の右手が、腰の剣へ触れた。
抜けば、敵になる。
退けば、何も見なかったことにできる。
そのどちらも選べないまま、指だけが柄を握った。
乾いた音がした。
魔導騎装の投射器が、腕から落ちる。
八咫烏は、相馬と魔導騎装の間に立っていた。
二本目の剣だけが、いつの間にか抜かれていた。
『話している』
黒い機体の戦術主眼が、投射器を失った騎装へ向く。
『待て』
搭乗者は、次の武器へ手を伸ばさなかった。
◇
「……俺は」
相馬が、剣から手を離した。
「王都の奴らが、邪教に操られてるって聞いた」
『そうか』
「俺達が助けなきゃ、全員殺されるって」
『そうか』
「でも、降伏した村まで焼く必要があったのかって聞いたら、戦争では仕方ないって言われた」
線の向こうで、誰かが息を呑んだ。
「逃げる人を追った奴らもいた。笑ってた。俺は止めなかった」
相馬は、自分の足元を見た。
「だから、今さら止まったって、何も変わらないかもしれない」
『変わる』
アインは、すぐに答えた。
『少なくとも、これから踏むものは変えられる』
相馬は顔を上げた。
八咫烏の向こうには、王都がある。
まだ遠い。
城壁も、人の姿も見えない。
けれど、そこに誰かが暮らしていることだけは、もう想像できた。
相馬は線へ背を向けた。
先行部隊へ向き直る。
「俺は進まない」
声は大きくなかった。
それでも、平原は静かだった。
「少なくとも、何が本当か分かるまでは、この線を越えない」
『相馬悠斗!』
後方の声が怒鳴る。
『貴様一人が止まったところで、軍は進む!』
相馬は答えなかった。
車列中央から、もう一人の学生が降りた。
少女だった。
辺りを窺いながら歩き、相馬の隣へ立つ。
「私も、今は進まない」
さらに後ろで、騎兵の一人が槍を下ろした。
別の者も続く。
誰も武器を捨ててはいない。
降伏もしていない。
ただ、進むために上げていた武器を下ろした。
命令が、もう一度響く。
今度は、誰も動かなかった。
◇
『敵先行部隊、完全停止』
クラウディアの声が届く。
『指揮系統内で命令確認が錯綜しています。現時点の王都到達予測は、都市移送準備完了後、十七分』
「足りたか」
『はい。ですが、後方主力が別働隊を出す可能性があります』
「分かった」
八咫烏は、二本目の剣を鞘へ戻した。
一本目は、まだ抜いたまま。
線も消えていない。
相馬達が止まると決めたことと。
アインがそこを守ることは、別の話だった。
空の高いところを、風が流れていく。
その風は線を越えた。
誰にも止められず、王都の方角へ抜けていった。




