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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百十九夜 選ぶ朝

第百十九夜 選ぶ朝


 夜明け前の王都に、鐘が鳴った。


 敵襲を知らせる鐘ではない。


 火災でもない。


 王城からの布告を知らせる、長く、重い鐘だった。


 人々が家から顔を出す。


 広場へ向かう者。


 城壁を見上げる者。


 荷を抱えたまま、動けずにいる者。


 王都には、周辺の村々から逃れてきた者も多い。


 誰もが、次に聞かされる言葉を恐れていた。


 降伏。


 籠城。


 あるいは、もう逃げる場所はないという宣告。


 王城前の大広場へ、父王が姿を現した。


 鎧ではなく、王衣をまとっている。


 その背後には、夜のうちに設置された一枚の白い板があった。


 ただの板にしか見えない。


 けれど、王が片手を上げると、その表面へ光が灯った。


 草原が映る。


 青い空。


 流れ始めた水路。


 白い標柱で描かれた、王都の輪郭。


 そして、エリオノーラ。


「王都の皆様へ」


 王女の声が、広場だけではなく、王都各所へ置かれた小さな表示板からも流れた。


 人々のざわめきが止まる。


「わたくしは無事です。これからお見せする場所も、実在します」


     ◇


 説明は、短くなかった。


 王都へ敵軍が迫っていること。


 現在の兵力では、城壁を守り切れないこと。


 王都を、城壁と地盤ごと別の場所へ移す手段があること。


 移送先には水と農地が用意されること。


 一方で、今まで使っていた街道も、城外の畑も、水源も失うこと。


 暮らしは変わる。


 安全だけは用意できる。


 だが、何も失わずに済むとは言わない。


 エリオノーラは、そう伝えた。


 映像が終わると、父王が一歩前へ出た。


「これは命令ではない」


 広場へ声が響く。


「王都とともに移る者は、正午まで城壁内に留まれ。移送を望まぬ者は、南門より退去せよ。南方街道には護衛を付ける」


 人々が互いを見る。


「残ることを選ぶ者を、臆病とは呼ばぬ。去ることを選ぶ者を、裏切り者とも呼ばぬ」


 父王は、広場の端まで見渡した。


「選べ。これは、お前達の国だ」


     ◇


 最初に動いたのは、一人の老女だった。


 広場の端から杖をつき、王城へ近づいていく。


「陛下」


「何だ」


「向こうに、畑はあると」


「用意されている」


「なら、種を持っていってもよろしいでしょうか」


 老女が抱えていた袋を持ち上げる。


「村を出る時に、これだけは持ってきました」


 父王は頷いた。


「持っていけ」


「では、残ります」


 老女は、それだけ言って広場の中央へ戻った。


 次に、鍛冶師が手を上げた。


「炉は?」


「移送範囲内にあるものは、そのまま移る」


「炭が足りん」


「向こうで相談しろ」


「なら残る」


 子供を抱いた母親。


 負傷した兵士。


 店を失った商人。


 次々に声が上がる。


 一方で、南門へ向かう者もいた。


 城外に家族を残してきた者。


 山中に逃げ道を知る者。


 見知らぬ場所で暮らすより、自分の足で逃げることを選ぶ者。


 誰も、止めなかった。


     ◇


『南門通過者、現在二百七十一名』


 第三ダンジョンの移送予定地で、クラウディアの報告が共有された。


『城壁内残留者、確認済み四万七千六百十二名。未確認区域、十一箇所』


 白い標柱の内側では、作業機械が地盤を整えている。


 エリオノーラは、王都の映像を見つめていた。


「思ったより、南門へ向かう方が少ないのですね」


「王女が先に安全を確認した。それは大きいですわ」


 アリシア・ファーランドが言った。


「それに、選べると言われれば、人は残ることも選びやすくなります」


「選べないと言われれば?」


「逃げたくなります」


 エリオノーラは、少し考えてから頷いた。


『未確認区域の一つから、外部通信反応を検出しました』


 クラウディアの声が変わった。


 淡々としている。


 それだけに、全員が表示を見る。


 王城西塔。


 使われていないはずの観測室。


 そこから、北東へ細い通信線が伸びていた。


「侵攻軍へ?」


『送信先は移動中です。方角と速度は、敵先行部隊と一致します』


 エリオノーラの表情が固くなる。


「止められますか」


『すでに遮断しました』


「送った者は」


『王城側へ位置を通知済みです。身柄の扱いは父王陛下へ委ねます』


 アインが、地図を見た。


「内容は?」


『王女生存。都市内に未知の術式。正午に大規模行動の可能性あり』


「移送は知られてない」


『はい。ですが、敵軍はさらに急ぐ可能性があります』


     ◇


 王城西塔の扉が破られた時、観測室にいた男は通信具を窓から投げ捨てようとしていた。


 近衛兵が腕を押さえ、床へ伏せる。


 男は王城付きの書記官だった。


 偽造された急患移送文書にも、彼の筆跡が残っていた。


 父王は、床へ押さえつけられた男を見下ろした。


「なぜだ」


 書記官は答えなかった。


 ただ、胸元から下げた小さな聖印を握っていた。


 父王はそれ以上問わなかった。


「生かして拘束せよ。知っていることを全て記録する」


 近衛兵が男を連れていく。


 窓の外では、南門へ向かう人々の列が見えた。


 そして城壁の内側では、残ると決めた人々が、自分の家へ戻り始めていた。


     ◇


『敵先行部隊、進行速度を上げました』


 クラウディアの表示に、新しい予測時間が示される。


 十八時間。


 十六時間。


 十二時間。


『現在予測、王都外縁到達まで十一時間四十分』


 正午まで、あと五時間。


 都市移送準備完了まで、最短で十四時間。


 その間に、敵は王都へ届く。


 アインは地図を見たまま言った。


「時間を作る」


 アリシア・ファーランドが、扇子を閉じる。


「どれほど?」


「必要なだけ」


 短い答えだった。


 第三ダンジョンの穏やかな空の下で、王都を迎えるための作業は止まらない。


 その外側では。


 やがて空になる戦場へ、これから立つ者が決まった。


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