第百十八夜 新しい地図
第百十八夜 新しい地図
扉を抜けた先に、地平線があった。
エリオノーラは、足を止めた。
草原が広がっている。
遠くには森があり、そのさらに向こうに低い山並みが見えた。
空は青い。
薄い雲が流れ、風が草を揺らしている。
どこかで鳥の声まで聞こえた。
「ここが、第三ダンジョンですの?」
「そう」
アインが答えた。
「空ではない。風も、雲も、作ってる」
エリオノーラは見上げた。
作られた空だと聞いても、境目は見つからなかった。
「船の中、なのですよね」
「一応」
「一応」
聞き返したエリオノーラの横で、アリシア・ファーランドが扇子を開いた。
「その辺りは、深く考えない方がよろしいですわ」
「アリシア様は、もう慣れていらっしゃるのですか」
「慣れる必要があることには慣れました」
答えになっているようで、なっていなかった。
◇
移送予定地には、すでに白い標柱が並んでいた。
王都の城壁を示す線。
城の位置。
主要街路。
移送後に接続される仮設水路。
草原の上へ、まだ存在しない都市の輪郭が描かれている。
黒衣の作業員達と、小型の作業機械が忙しく動いていた。
土を採取する者。
地盤を測る者。
水路予定地を掘り始める者。
王都を移す許可が下りてから、まだ一時間も経っていない。
「もう、これほど」
「許可が下りる前に、準備だけはしていましたから」
クラウディアの声が、三人の視界へ同時に表示された。
『実行しなければ、測量記録として残す予定でした』
「本当に、準備だけですの?」
エリオノーラが問う。
『はい』
「水路を掘っていますが」
『準備です』
「畑も耕されています」
『準備です』
アリシア・ファーランドが、楽しそうに扇子で口元を隠した。
「クラウディアに、その問いはあまり意味がありませんわ」
◇
白い標柱の中央で、エリオノーラは足元の草へ触れた。
柔らかい。
湿り気がある。
移送後、王都の石畳の下に隠れる草だった。
「この土地は、誰のものになりますか」
アインが、少し考えた。
「住む人のもの」
「アークライトの領土ではなく?」
「アークライトの中にある。だが、暮らしまで俺が決める気はない」
「法は、どうなりますの」
今度はアリシア・ファーランドが問う。
「最低限、アークライトの規則には従ってもらう。人を勝手に殺さない。危険なものを持ち込まない。ダンジョンを壊さない」
「最低限が、随分と最低限ですわね」
「国の中のことは、国で決めればいい」
エリオノーラは、草原に並ぶ標柱を見た。
「では、国を預けられるのではなく」
「場所を貸す」
「いつか、外へ戻ることも」
「好きにすればいい」
アインの答えに、条件は付かなかった。
忠誠も。
臣従も。
返済の約束も。
エリオノーラは、しばらく言葉を探した。
「あなたは、国を一つ移すことを、部屋を貸すように仰るのですね」
「部屋より広い」
「そういう意味ではありません」
◇
王都へ送る説明映像は、その場で撮ることになった。
エリオノーラの背後には、白い標柱と草原が広がっている。
映像の端では、仮設水路へ最初の水が流れ始めた。
彼女は一度、息を整えた。
「王都の皆様へ」
王女の声が、作られた空の下へ響く。
「わたくしは無事です。これからお見せする場所も、実在します」
移送予定地。
水路。
耕作地。
医療受入区画。
王都が失うものと、用意できるもの。
安全だけを約束し、暮らしが変わらないとは言わなかった。
「この地へ来ることを、皆様へ命じることはいたしません」
エリオノーラは、正面を見た。
「ですが、選ぶために必要なことは、全てお伝えします」
短い説明を終えると、彼女は深く頭を下げた。
王女としてではなく。
先に逃げる場所を見た、一人の国民として。
◇
映像の送信が終わった頃、周辺安全確認へ向かった三人が戻ってきた。
八雲が先頭だった。
少し疲れた顔をしている。
「問題は?」
アインが問う。
「移送予定地の周囲に危険はない。森側も、今のところ問題なし」
「今のところ?」
「精霊に、何を運び込むのか聞かれた」
「説明した?」
「都市一つと、四万八千人くらい」
「何て?」
「賑やかになるね、って」
聖女アリシアが、八雲の後ろで微笑んだ。
「皆様、歓迎してくださるそうです」
紅緒も頷く。
「ただし、森を勝手に切らないこと。水を汚さないこと。騒ぎ過ぎないこと」
「最後だけ難しいかもしれない」
アインが言った。
「四万八千人だものね」
紅緒は同意した。
八雲は、二人の会話を聞きながら、少しだけ周囲を見回した。
「舞は?」
紅緒と聖女アリシアが、同時に八雲を見た。
「いや、作業の進み具合を聞いただけだ」
「誰も何も言っていません」
聖女アリシアは穏やかだった。
「そうね」
紅緒も穏やかだった。
八雲は、先ほどより疲れた顔になった。
◇
『緊急報告です』
クラウディアの表示が、全員の視界中央へ開いた。
王都と侵攻軍の位置が地図上へ示される。
敵軍の先行部隊が、予定されていた北東街道から外れていた。
複数の村を迂回し、補給を切り捨て、王都へ直進している。
『到達予測を修正します』
これまでの表示。
二日以内。
その文字が消えた。
『十八時間以内です』
草原を渡る風は、変わらず穏やかだった。
まだ何もない白い標柱の内側へ、一つの国を迎えるまで。
残された時間だけが、急に短くなった。




