第百十三夜 名前の多い夜
第百十三夜 名前の多い夜
「……どなた、ですか」
エリオノーラの問いに、八雲は答えられなかった。
呼びかけた名は、彼女の名ではない。
顔も違う。
声も違う。
それでも、黒い刀を構えた姿だけは、記憶の中にいる妹と同じだった。
「八雲」
紅緒が、低く呼ぶ。
責める声ではない。
ただ、今は彼女を困らせるなと告げる声だった。
八雲は一度、目を閉じた。
「東雲八雲だ」
それだけを言った。
「さっきの名は、悪い。人違いかもしれない」
エリオノーラは、胸元へ黒い刀を抱いたまま八雲を見る。
人違い。
そう言われると、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。
「わたくしは、エリオノーラと申します」
『エリー』
黒い刀が、嬉しそうに言った。
エリオノーラの肩が跳ねる。
「……今、こちらから声が」
『うん。久しぶり、エリー』
「存じ上げません」
『知ってる』
「では、なぜ」
『思い出すまで待つ』
黒い刀は、あっさり言った。
『でも、お腹すいた』
「刀が?」
『いっぱい斬ると、お腹すく』
「今日は斬ってないだろ」
白髪の少年が言った。
『久しぶりにエリーへ会ったから、すいた』
「後で」
『約束』
「分かった」
少年と刀の会話を、エリオノーラは黙って聞いていた。
何から問えばよいのか、まったく分からない。
◇
「負傷者十二名。全員、生存しています」
リジェスカが報告した。
「拘束完了。儀式担当者を含め、意識のある者は三名です」
リジェナは、倒れた暗部の一人へ止血処置を施していた。
「こちらの負傷者はいません。エリオノーラ様は、手首と足首に枷による損傷があります」
エリオノーラは、自分の名に敬称が付いたことへ目を向けた。
黒い装備の二人は、先ほどまで人を音もなく倒していた。
今は倒した相手へ治療を行っている。
「あなた方は、何者なのですか」
「私はリジェナです」
「リジェスカです」
「名を伺ったのではなく」
「現時点で、正確に答えられる範囲です」
リジェスカは落ち着いて答えた。
「ご不安は理解します。ですが、まずは傷を確認させてください」
「……分かりました」
エリオノーラは黒い刀を手放そうとした。
けれど、指が離れない。
握り続けたいと、自分の身体が言っている。
「そのままで問題ありません」
リジェナが柔らかく言った。
「黒姫は、あなたを傷つけません」
「黒姫」
エリオノーラは、初めて刀の名を口にした。
ひどく馴染む響きだった。
◇
聖女アリシアは、祈りの間の入口に立つ少年を見ていた。
白髪。
幼く見える姿。
黒と白、二振りの刀。
教国で教えられた魔王の姿とは、まるで違う。
けれど、暗部の者たちを殺さず、攫われた少女を迷わず解放した。
その少年が、こちらへ目を向けた。
「アインだ」
短い名乗りだった。
聖女アリシアは、わずかに目を見開いた。
紅緒も、八雲も反応する。
「アイン」
聖女アリシアは、その名を確かめるように繰り返した。
「教国では、魔王の名として教えられています」
「そうらしい」
「否定なさらないのですね」
「説明が長くなる」
聖女アリシアは少年を見つめ、それから床へ拘束された暗部の者たちへ視線を移した。
「では、今は後にいたしましょう」
「助かる」
「わたくしは、アリシアと申します」
今度はアインが、ほんの少しだけ黙った。
「知ってる」
「わたくしを?」
「同じ名の人を」
聖女アリシアが問い返す前に、アインの戦術ネックバンドからクラウディアの声が届いた。
『殿下。現地側の本人確認と、確保者の所属確認を行います。共有表示を――』
声が、不自然なところで止まった。
祈りの間の中央へ、淡い光の輪が開く。
『アリシア様』
クラウディアの声が、少しだけ低くなった。
『私は、共有表示を開くと申し上げました』
「ええ。ですから、その接続座標を少しお借りしましたの」
光の輪から、白い礼装姿の少女が歩み出た。
「直接伺った方が、早いと思いまして」
少女を見て、聖女アリシアは言葉を失った。
自分とよく似た顔。
白髪にも見えるプラチナブロンド。
けれど、目元に宿るものは、自分よりずっと鋭い。
「初めまして」
少女が、上品に微笑んだ。
「アリシア・ファーランドと申します」
祈りの間に、沈黙が落ちた。
紅緒が聖女アリシアを見る。
次に、目の前のアリシアを見る。
八雲も同じように二人を見比べた。
「似てるな」
「八雲。それだけ?」
紅緒が呆れた声を出す。
「他に何を言えばいい」
「率直な方ですのね」
アリシア・ファーランドは、扇子で口元を隠した。
「教国の方々が、わたくしと妹をあなた様と取り違えてくださった理由が、よく分かりましたわ」
「妹も?」
聖女アリシアが問う。
「顔立ちは似ております。髪色は違いますけれど」
「待って」
紅緒が片手を上げた。
「アリシアが二人。さらに妹も似てる。そこの姫様は、八雲の妹かもしれない」
「かもしれない、ではない」
八雲が言った。
エリオノーラの表情が、僅かに強張る。
紅緒はすぐに八雲の脇腹へ肘を入れた。
「今は黙って」
「痛い」
「当然」
聖女アリシアは、少しだけ笑った。
張り詰めていた祈りの間の空気が、ようやく緩む。
◇
『現地王城へ、王女救出の連絡を送ります』
クラウディアの声が、全員へ届く。
『ただし、城内医官印が悪用されています。内通者の可能性を排除できません。迎え入れる人員は、エリオノーラ様ご自身に確認していただきます』
「お願いします」
エリオノーラは答えた。
『暗部確保者十二名は、現地法に基づく引き渡しまで、こちらで拘束を維持します』
「こちら、とは」
『説明には、少し時間が必要です』
「皆様、そう仰るのですね」
エリオノーラは、アインを見た。
アインも、クラウディアも、黒い装備の二人も、必要なことしか言わない。
けれど、誰も彼女へ何かを信じろとは言わなかった。
「では、一つだけ」
エリオノーラは黒姫を両手で持ち、アインへ差し出した。
「こちらは、あなた様のものでは?」
「預かってただけだ」
「どなたから」
「本人から」
エリオノーラは黒姫を見る。
『おかえり、エリー』
黒姫は、今度は静かに言った。
知らないはずの声だった。
それでも、その一言は胸の奥へ真っ直ぐ届いた。
エリオノーラは、黒姫を差し出していた手を戻した。
「ただいま、と申し上げるべきなのでしょうか」
『まだ、どっちでもいい』
「そうですか」
エリオノーラは、黒姫を胸元へ抱いた。
「では、思い出すまで、お借りします」
『うん』
八雲は、その姿を黙って見ていた。
今度は、名前を呼ばなかった。
ほんの一拍遅れてでも。
彼はようやく、目の前にいる少女を見ようとしていた。
その時、礼拝堂の外で小石が転がった。
紅緒が振り返る。
リジェナとリジェスカも、同時に入口へ身体を向けた。
「誰!」
鋭い声が飛ぶより先に、アインが片手を上げる。
「敵じゃない。数人いる。一人、怪我をしてる」
しばらくして、闇の向こうから若い女の声が届いた。
「敵意はありません。友人が怪我をしています。少しだけ、休ませてください」
八雲の顔から、表情が消えた。
その声を。
彼だけは、知っていた。




