第百十一夜 救護の馬車
第百十一夜 救護の馬車
夜半を過ぎた頃、エリオノーラは目を覚ました。
物音がしたわけではない。
誰かに呼ばれたわけでもない。
ただ、眠りの底で、何かが違うと感じた。
寝台の脇に置かれた水差し。
窓辺に掛かる薄い幕。
扉の前で眠るはずの侍女。
すべて、いつもと同じ場所にある。
けれど、部屋の空気が甘かった。
花とも、薬草とも違う。
息を深く吸ってはいけない。
そう思った時には、エリオノーラは寝台から降りていた。
床へ足をつける。
少しだけ、膝が揺れた。
身体が重い。
扉の近くに横たわる侍女へ近づき、肩へ触れる。
「起きて」
返事はない。
呼吸はある。
眠らされている。
エリオノーラは口元を布で覆い、壁際へ置かれていた燭台を手に取った。
武器になるものは、それしかなかった。
扉の外で、靴底が石床を擦った。
一人ではない。
エリオノーラは扉の横へ立つ。
鍵が、外から静かに回された。
扉が開く。
白い救護衣をまとった男が、部屋へ足を踏み入れた。
昼間、北門前にいた聖職者だった。
男が寝台へ目を向ける。
エリオノーラは燭台を振り下ろした。
男は寸前で腕を上げる。
金属が骨へ当たる音がした。
「起きていたか」
その声に、救護を装う響きはなかった。
エリオノーラは燭台を引き、男の喉へ突き出す。
身体は重い。
それでも、足は動いた。
男が下がる。
廊下にいた別の者が、細い筒をこちらへ向けた。
エリオノーラは身を沈める。
筒から放たれた針が、壁へ刺さった。
次が来る。
そう分かった。
けれど、背後には侍女がいる。
避ければ、針が届く。
エリオノーラは燭台で針を払った。
その隙に、最初の男が踏み込んだ。
布で覆われた腕が、首へ回る。
エリオノーラは肘を後ろへ打ち込んだ。
男が息を詰まらせる。
さらに踵で足を踏み、拘束を外す。
できる。
身体は、まだ戦い方を知っていた。
廊下から、女の声がした。
「動くな」
エリオノーラは足を止めた。
女は、眠った侍女の首元へ短剣を添えていた。
「その娘は、関係ありません」
「ならば、抵抗するな」
「わたくしが従えば、手を出さないと誓えますか」
「誓う」
迷いのない返答だった。
信じられる言葉ではない。
それでも、今ここで拒めば、侍女の命は失われる。
エリオノーラは燭台を床へ置いた。
「姫様」
眠っていたはずの侍女が、微かに声を出した。
目は開いていない。
それでも、何が起きているのか分かったのだろう。
「大丈夫です」
エリオノーラは言った。
「少し、出てまいります」
手首に枷が掛けられる。
革の内側に、冷たい金属が仕込まれていた。
魔力を流そうとすると、腕の奥へ鈍い痛みが走る。
「これは、救護の道具ではありませんね」
「邪なる力から、あなた自身を守るためのものです」
「便利な言葉ですこと」
エリオノーラは、男を見た。
「誰を傷つけても、ご自分は救っているつもりでいられる」
男は答えなかった。
◇
救護団の馬車は、城の東門を通過した。
御者台には、救護衣を着た二人。
荷台には、急患を示す白い布が掛けられている。
夜番の門兵は、文書を確かめた。
昼間の戦闘で力を使った姫を、郊外の療養施設へ移す。
文書には、城内医官の署名があった。
印章も本物に見えた。
門兵は馬車を通した。
ただし、記録へ一行を残した。
『急患移送。救護団馬車一台。東門通過』
その記録は、少し前に届いた別の記録と重なった。
未登録馬車。
救護団宿舎裏口。
積荷表示と内容に不一致。
二つの記録が結びついた瞬間、見えない網は警告へ変わった。
◇
学院の寮室で、クラウディアの視界に警告が開いた。
深夜だった。
それでも、彼女は眠っていなかった。
未登録馬車が、救護団の名義で城の東門を通過。
急患は、同国の王女エリオノーラ。
移送文書に使われた医官印は正規。
だが、署名したとされる医官は、現在も城内医務室にいる。
クラウディアは寝台脇の上着を取り、同時に共有回線を開いた。
「殿下」
『見ている』
返答はすぐにあった。
アインも起きていたらしい。
共有表示には、馬車の推定経路が浮かんでいる。
東門を出た後、街道を外れた。
向かう先に、現役の療養施設はない。
「閉鎖された礼拝所が一つあります」
クラウディアが表示を拡大した。
「二十年以上前に閉鎖。現在の所有者は地元教会ですが、保守記録はありません」
「中は」
「地下区画の可能性があります。旧図面が欠落しています」
アインは少しだけ黙った。
「本人の意思は」
「確認できません」
「護衛は」
「城内で複数名が昏倒。死者は確認されていません」
別の回線が開いた。
アリシアだった。
髪を整える時間も惜しかったのか、寝衣の上へ外套だけを羽織っている。
「他国の王女を、他国の領内でお救いすることになりますわね」
「そうなる」
「外交上は、大変面倒ですわ」
「悪い」
「謝罪は、戻ってからお受けします」
アリシアは微笑んだ。
「生きてお戻りになる方を、先に」
「任せた」
「ええ。お任せくださいませ」
クラウディアは、すでに別の表示を開いていた。
「リジェナ、リジェスカ。起きていますね」
『はい』
二人の声が重なる。
「現地潜入装備。非殺傷優先。ただし対象の生命が危険な場合、制限を解除します」
『承知しました』
「転移座標は、街道沿いの監視協力者が置いた観測標を使用します。礼拝所内部へ直接は送りません」
アインが問う。
「距離は」
「約二キロメートル。森を通れば、視認されず接近できます」
「行く」
アインの姿が共有表示から消えた。
クラウディアは一度だけ目を閉じた。
「準備が終わるまで、三十秒は待ってください」
返答はなかった。
代わりに、転移区画から通知が届く。
『殿下、転移陣前で待機中』
クラウディアは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「今回は、待てたのですね」
◇
馬車の中で、エリオノーラは揺れを数えていた。
右へ曲がった。
しばらく直進。
石畳から、土の道へ。
緩い上り坂。
枷の痛みで、魔力は使えない。
窓もない。
けれど、どこへ運ばれているのかは覚えられる。
戻るためではない。
誰かが追ってきた時、少しでも伝えられるように。
馬車が止まった。
外で、重い扉の開く音がした。
「着いたぞ」
男が言う。
エリオノーラは顔を上げた。
「ここで、わたくしを救うのですか」
「そうだ」
「では」
エリオノーラは、静かに笑った。
「どちらが救われるのか、確かめましょう」
◇
同じ夜。
追手の目を西へ引きつけ、竜山脈を東へ抜けた三人は、帝国南方へ続く山道を歩いていた。
先頭の紅緒が、足を止める。
「馬車」
八雲も立ち止まる。
谷の下を、灯りを消した馬車が進んでいた。
街道を使わず、閉鎖された旧礼拝所へ向かっている。
雲間から差した月明かりが、荷台の小窓に金色の髪を一瞬だけ浮かべた。
「見なかったことには、できませんね」
アリシアが言った。
紅緒は腰の武器へ手を置いた。
「最初から、そのつもりないでしょ」
「ええ」
八雲は、馬車の消えた森を見た。
理由は分からない。
ただ、胸の奥がひどく騒いでいた。
「行こう」
三人は、旧礼拝所へ向けて歩き出した。




