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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百十夜 夜色の兆し

第百十夜 夜色の兆し


 グランカーン帝国の南方には、山脈の麓へ抱かれるように、小さな国があった。


 海までは近い。


 晴れた日には、城の高塔から水平線も見える。


 けれど、国土はわずかに海へ届かず、港を持たない。


 山と周辺国に挟まれた領土は、端から端まで馬車で半日もかからなかった。


 その小ささゆえに戦を避け、街道を通る人と品から得るもので国を保ってきた。


 春になっても、山から降りてくる朝の風は冷たい。


 風は、雪と、遠い海の匂いを残していた。


 エリオノーラは外套の襟を押さえながら、荷馬車の列を見て回った。


「乾燥肉は三台目。薬草と包帯は、最後尾ではなく中央へ移してください」


「ですが、姫様。中央には避難民を」


「だからです。道中で必要になるものを、取り出しにくい場所へ置いてどうするのです」


 兵士は一瞬だけ黙り、それから頭を下げた。


「承知しました」


 城下町の北門前には、近隣の村々から集まった者たちがいた。


 老人。


 幼い子供を抱いた母親。


 背負えるだけの家財を背負い、それでも何度も山の方角を振り返る者。


 まだ戦は始まっていない。


 国境を越えた軍勢もない。


 けれど、西へ向かう街道では、正規の商隊が減っていた。


 代わりに、紋章を隠した武装集団が増えている。


 帝国南部の街道で、兵と物資の移動が増えたという報せも届いていた。


 国境に近い町では、帝国の名を出さない武装集団まで現れ始めている。


 噂だからと、何もしない理由にはならない。


「姫様」


 年老いた侍従が、困った顔で近づいてきた。


「出発の確認は我々が行います。どうか城へお戻りください」


「戻れば、荷馬車が一台増えますか」


「増えません」


「では、包帯が濡れなくなりますか」


「……なりません」


「なら、ここにいます」


 侍従は何か言いかけ、諦めたように息を吐いた。


「せめて、護衛から離れないでください」


「ええ。約束します」


 エリオノーラは微笑んだ。


 その時、門の外から馬の蹄が聞こえた。


 速い。


 こちらへ急いでいる音ではない。


 追われている音だった。


 門兵が叫ぶ。


 街道の曲がり角から、一騎の伝令が現れた。


 馬の首には汗が浮き、騎手の左腕から血が垂れている。


「西の旧街道に、武装した一団! 村人を乗せた荷車を追っています!」


 北門前の空気が変わった。


 泣き出す子供がいた。


 荷を捨て、門内へ走ろうとする者もいた。


「門を閉じないで」


 エリオノーラは言った。


 門兵が振り返る。


「ですが」


「外に、まだ戻ってくる人がいます」


「姫様を危険に晒せません」


「私を守るために、民を門の外へ置くのですか」


 門兵は答えられなかった。


 エリオノーラは護衛の腰へ目を向けた。


「剣を一本、貸してください」


「なりません」


 即答だった。


「では、あちらを」


 荷台の脇に、予備の短剣が括られている。


「もっとなりません」


「選ばせて差し上げています」


「どちらも駄目です」


 そのやり取りの間にも、蹄の音は近づいていた。


 街道の先に、荷車が見えた。


 御者は必死に馬を走らせている。


 荷台には子供が三人と、足を負傷した男がいた。


 その後ろから、顔を布で隠した騎馬が五騎、迫っている。


 護衛兵たちが門前へ展開した。


 だが、避難民と荷馬車が多すぎる。


 弓を使えば、誰かに当たる。


 一騎が荷車へ追いつき、剣を振り上げた。


 エリオノーラは走っていた。


 誰かに命じられたわけではない。


 考えるより先に、足が動いた。


 荷台へ立てかけられていた細身の剣を抜く。


 農具より少し良い程度の、護身用の剣だった。


 握った瞬間、違和感があった。


 軽すぎる。


 短すぎる。


 それなのに、手の中へ収まる場所だけは知っていた。


 エリオノーラは荷車と騎馬の間へ踏み込んだ。


「姫様!」


 背後で声が上がる。


 騎馬の男が剣を振り下ろした。


 刃が見えた。


 馬の肩が動く。


 男の肘が開く。


 次に剣が通る場所が、なぜか分かった。


 半歩、外へ。


 振り下ろされた刃を避け、馬上の手首を剣の腹で打つ。


 男の剣が落ちた。


 そのまま馬の横を抜ける。


 二騎目が迫る。


 エリオノーラは剣を下げた。


 切っ先は地面へ近い。


 教わったことのない構えだった。


 けれど、身体は迷わなかった。


 踏み込む。


 剣を抜き上げるように振る。


 騎手の胸当てを留める革紐が裂け、男だけが馬から落ちた。


 血は出ていない。


 刃が身体へ届く寸前に、手首がわずかに返っていた。


 自分でそうしたはずなのに、どうしてできたのか分からなかった。


 三騎目が怯み、馬首を返す。


 残る二騎が左右へ分かれた。


 一方はエリオノーラへ。


 もう一方は、荷車へ。


 子供の泣き声が聞こえた。


 その瞬間だった。


 胸の奥で、何かが強く鳴った。


 守れ。


 誰の声でもない。


 けれど、ずっと以前から知っていたような言葉だった。


 エリオノーラの金色の髪を、夜の色が染めていく。


 根元から毛先へ。


 朝の光を呑み込むような、深い黒。


 手の中の剣にも、同じ色が薄くまとわりついた。


 世界が、静かになった。


 蹄の音も。


 叫び声も。


 子供の泣き声も。


 すべてが遠のき、斬るべきものだけが見えた。


 エリオノーラは一歩で、荷車へ向かった騎馬の前へ出た。


 黒をまとった剣が、横へ走る。


 騎手の剣だけが、根元から落ちた。


 返す刃で、手綱を切る。


 自由になった馬は大きく向きを変え、男を振り落とした。


 最後の一騎は、すでに逃げ始めていた。


 追わない。


 追う必要はない。


 そう判断した時には、剣先は下がっていた。


 遅れて駆けつけた護衛兵たちが、倒れた男たちを取り押さえる。


 エリオノーラは、その場に立ったまま自分の手を見た。


 震えていない。


 息も乱れていない。


「姫様」


 侍従の声に振り返る。


 皆が、こちらを見ていた。


 助かった村人たち。


 護衛兵。


 門兵。


 そして、救護のため城下へ入っていた旅装の聖職者たち。


 エリオノーラの髪から、黒がゆっくりと退いていく。


 元の金色へ戻った後も、一房だけがしばらく夜色を残していた。


 旅装の聖職者の一人が、胸元で祈りの印を結んだ。


 その顔には、安堵も感謝もなかった。


     ◇


「確認しました」


 宿の一室で、男は膝をついていた。


 救護団の外套は、椅子へ丁寧に掛けられている。


 卓上には、小さな聖具が置かれていた。


 淡い光が、その中心で濁っている。


「髪色の変化。黒色の魔力反応。刃へまとわせた力は、通常の魔力誘導ではありません」


 窓辺に立つ女が問う。


「聖女か」


「異なります」


「では、何だ」


 男は一度、目を伏せた。


「救済すべきものです」


 女は窓の外を見た。


 北門前では、避難民を乗せた荷馬車が動き始めている。


 その横を、金色の髪の少女が歩いていた。


「保護は」


「今夜。城内では騒ぎが大きくなります」


「移送先は」


「東の旧礼拝所が使えます。記録上は、二十年以上前に閉鎖されています」


「馬車は正規のものを使うな」


「承知しています」


 男は立ち上がり、濁った聖具を布で包んだ。


「邪なるものを、人の姿のまま残すわけにはいきません」


     ◇


 同じ頃。


 城下の外れで、壊れた秤を直していた職人が顔を上げた。


 救護団が使う宿の裏口へ、屋根付きの馬車が入っていく。


 車体に紋章はない。


 積み込まれた木箱には、薬品を示す印があった。


 だが、箱を持ち上げた拍子に蓋がずれた。


 中にあったのは、薬瓶ではない。


 革を張った枷と、鎖だった。


 職人は何も見なかったように、秤へ視線を戻した。


 少しして、修理記録へ短い一文を書き加える。


『未登録馬車。一台。救護団宿舎裏口。積荷表示と内容に不一致』


 それは、秤の修理とは関係のない記録だった。


 けれど、その一文は夜になる前に、帝国南方の交易路まで広げられた見えない網を震わせた。


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