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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百九夜 西へ向く目

第百九夜 西へ向く目


 小礼拝所からの返答が届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 学院長府確認窓口へ送られた文は、短い。


 六十八日前、若い旅人三名が雨宿りをした。


 そのうち一名が、高熱を出していた少女へ施療を行った。


 三名は、自らの意思で礼拝所を出た。


 末尾には、老司祭による一文が添えられている。


『あの方は、自らの足で歩いておられました』


 リシアは、その文を二度読んだ。


 連れ去られたのではない。


 護衛に惑わされたのでもない。


 逃げた。


 自分で選び、自分の足で。


「これで、少なくとも教国側の説明だけを信じる理由はなくなりましたわね」


 ステファニアが言った。


 学院長府の小会議室には、リシア、アリシア、ステファニア、エレナ、エリオットがいる。


 アインとクラウディアは、卓上に浮かぶ共有表示の向こうから参加していた。


 返答文は円卓中央の少し上に表示され、全員から同じ位置にあるように見える。


 文字の向きだけが、それぞれの視界へ正しく揃えられていた。


「教国側は、聖女が背教騎士二名に連れ去られたと説明しています」


 エレナが記録を確認する。


「本人の意思を確認した資料は、現在まで提示されていません」


「提示できないのか、提示するつもりがないのか」


 アインが言った。


「今は分かりません」


 クラウディアが答える。


「ですが、本人が自発的に移動している可能性は高まりました」


 エリオットは、老司祭の返答へ目を向けたままだった。


「この返答を書いた司祭は、教会に背いたつもりはないでしょう」


「そうなのですか」


 リシアが問う。


「はい。連れ去られた者を探すための照会に対して、自ら歩いていたと答えた。それだけです」


 エリオットは、静かに息を吐いた。


「ですが、それだけで十分なのでしょう」


     ◇


 クラウディアが、竜山脈西側の地図を開いた。


 六十八日前の小礼拝所。


 その後に集められた目撃情報。


 北西の森林地帯へ向かう旅人三名。


 西へ抜ける街道で、食料を買った若い男女。


 山間の村で、傷を負った猟師を治療した、白髪にも見えるプラチナブロンドの少女。


 一件ずつ見れば、弱い情報だった。


 顔を見た者は少ない。


 名前を聞いた者はいない。


 それでも、地図の上へ置けば、流れが見える。


 西へ。


 北西へ。


 竜山脈から遠ざかる方向へ。


「ずいぶん、綺麗ですわね」


 アリシアが言った。


 閉じた扇子の先が、地図上の光点を一つずつ辿る。


「何がですか」


 リシアは地図を見直した。


「足取りですわ」


「追手から逃げているなら、足取りは隠すものではありませんか」


「隠し切れないなら、何を見せるかを選びます」


 アリシアの扇子が、北西森林地帯で止まった。


「この方は、治療をなさるたびに見つかっている。食料を買う時も、人目を避け切ってはいない。けれど、同行者二名の顔を正確に見た者はいません」


 ステファニアが、目撃報告を並べ替えた。


「目立つ一人だけを見せて、残る二人を隠している」


「それだけではありません」


 エレナが、報告時刻を表示する。


「目撃情報が確認された後、次の情報までの移動時間が一定していません。徒歩では間に合わないものと、意図的に遅すぎるものが混在しています」


「別人を使っている?」


 リシアが言う。


「その可能性もあります。ただし、本人が一部だけ本物の痕跡を残している可能性もあります」


 クラウディアが、地図の縮尺を広げた。


 西側へ伸びる光点。


 その反対側には、竜山脈がある。


 山脈の東麓には、小国が点在していた。


 大国同士の境界に挟まれ、交易路と峠道で命を繋ぐ国々。


「西へ逃げているように見せている」


 アインが言った。


「ええ」


 アリシアは、扇子を閉じたまま東側へ向けた。


「追う者の目を西へ置いてから、ご自身は東へ抜けるおつもりではないでしょうか」


「竜山脈を、もう一度越えるのですか」


「一度越えた方ですもの。できないとは考えないでしょう」


 リシアは、地図の東側を見た。


 山を越えれば、教国へ近づく。


 逃げてきた場所へ戻るようにも見える。


 だからこそ、追手は西を見る。


「危険ではありませんか」


「危険ですわ」


 アリシアは、あっさり認めた。


「ですが、追手を隠れ里から遠ざけたい事情があるなら、戻らないための道を選びます」


 その言葉に、リシアは、まだ知らない彼女たちの事情を想像した。


 逃げた三人が、何を置いてきたのか。


 何を守るために、西へ足跡を残しているのか。


「東側を探す?」


 アインの問いに、クラウディアはすぐには答えなかった。


「広域の捜索を行えば、暗部にも意図を読まれます」


「捜索はしない」


 アインは言った。


「本人が逃げているなら、見つけることが助けになるとは限らない」


 リシアは、表示の向こうにいるアインを見た。


 声は、いつもと同じだった。


 けれど、その判断は少し違って聞こえた。


「危ない場所だけ、先に見ておく」


 アインは東麓の小国群へ目を向けた。


「誰かが待ち伏せているなら、そこを見つける。本人たちには近づかない」


「受動監視に限定します」


 クラウディアが答えた。


「ベルン商会の交易拠点、既存の輸送記録、街道監視記録を使用。聖女本人の名と肖像は出しません。三人組への直接接触も禁止します」


「お願いします」


 アリシアが言った。


「加えて、若い女性の失踪、宗教施設への不自然な搬入、廃施設への人の出入りも確認してくださいませ」


 リシアは、姉の横顔を見た。


「そこまで見るのですか」


「聖女を探す者が、その道中で別の誰かを連れ去らないとは限りませんもの」


 アリシアは地図から目を離さなかった。


「正しいと信じる者ほど、ご自身が邪悪と決めた相手には躊躇なさらないでしょう」


 クラウディアは一拍だけ置いた。


「監視条件へ追加します」


     ◇


 会議が終わった後、リシアはアインと廊下を歩いていた。


 次の講義まで、少しだけ時間がある。


「見つけなくて、よいのですか」


 リシアが問うと、アインは前を向いたまま答えた。


「会って、何を言う」


「追われていることを知っている、と」


「知っているから逃げている」


「助けることもできます」


「助けてほしいかは、まだ分からない」


 アインは歩みを止めなかった。


「困っているなら助ける。でも、逃げ方まで取り上げたくない」


 リシアは、少しだけ目を見開いた。


 以前のアインなら、もっと短く答えただろう。


 あるいは、最も安全な場所へ移すことを先に考えたかもしれない。


「変わりましたね」


「何が」


「いいえ」


 リシアは首を振った。


「何でもありません」


 アインは怪訝そうに見たが、それ以上は問わなかった。


 廊下の窓から、午後の光が差している。


 その光の中を歩きながら、リシアは思った。


 助けることと、選ばせることは、同じではない。


 けれど、どちらも守ることなのだろう。


     ◇


 その日の夜。


 竜山脈東麓の小国群へ、いくつかの監視条件が静かに置かれた。


 聖女の名は使われなかった。


 白髪にも見える少女も、旅人三名も探さない。


 若い女性の失踪。


 正規記録にない馬車。


 使われていない礼拝施設への出入り。


 人を救う名目で、人を運ぶ者。


 誰にも見えない網が、街道と町の隙間へ広がっていく。


 そして、その網の端には。


 網を置いた誰も、まだ名を知らない。


 一人の少女がいた。


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