第百八夜 逃げた聖女
第百八夜 逃げた聖女
六十八日前。
竜山脈を西へ越えた先で、雨が降っていた。
山から吹き下ろす風は冷たく、街道は薄い泥に覆われている。
三人は、街道脇の小礼拝所で雨を避けていた。
古い石造りの建物だった。
礼拝堂と、施療室が一つ。
屋根の端から雨水が落ち続け、扉の上に掲げられた灯火の印は半分ほど色を失っている。
聖女アリシアは、施療室の寝台脇に座っていた。
白髪にも見えるプラチナブロンドの髪は、雨に濡れて肩へ張りついている。
寝台には、十歳ほどの少女が横たわっている。
頬は赤く、息が浅い。
「熱が下がりません」
母親が、濡れた布を握ったまま言った。
「薬師は、次の町にしかいなくて」
アリシアは、少女の額へ手を置いた。
薄い光が、掌の下に灯る。
「アリシア」
入口に立つ各務紅緒が、低い声で呼んだ。
咎める声ではない。
急がなければならないと伝える声だった。
「分かっています」
アリシアは手を離さなかった。
「ですが、この子は待てません」
「追手も待ってはくれない」
東雲八雲は窓の外を見ていた。
雨で街道の先は霞んでいる。
「東側で馬の足跡を見つけた。こちらへ向かっている」
「あと少しだけ」
光が、少女の胸元まで広がる。
荒かった息が、少しずつ長くなった。
母親は何度も礼を言おうとしたが、声にならなかった。
アリシアは、ようやく手を離した。
「熱は下がり始めます。水を少しずつ。今夜は一人にしないでください」
「あなた様は」
母親が問う。
白い衣は、既に旅の泥で色を失っている。
聖女の印章も、祈祷具も、身分を示す物は何も身につけていない。
「通りすがりです」
アリシアは立ち上がった。
足元が、わずかに揺れた。
紅緒が腕を支える。
「だから、力を使う時は加減しなさいと言ったでしょう」
「使わずに出ていけば、後悔します」
「使って追いつかれれば、もっと後悔することになるわ」
「その時は、また助けてください」
紅緒は何も答えなかった。
代わりに、アリシアの外套を深く被せた。
八雲が扉を細く開く。
「西の街道は使えない。北へ入る」
「森ですか」
「街道よりは見つかりにくい」
「竜は」
「俺たちが越えた時も、一度も襲われなかった。理由は分からないが、今は気にしないことにする」
三人は、小礼拝所を出た。
雨の中へ消える前に、アリシアは一度だけ振り返った。
寝台の少女は、眠っていた。
先ほどまでより、穏やかな呼吸だった。
◇
暗部の追跡者が小礼拝所へ到着したのは、その日の夕方だった。
濡れた外套を脱ぐこともなく、三名が施療室へ入る。
母親は、娘の前へ立った。
「ここへ若い女が来たはずだ」
「知りません」
「女一人。護衛らしき男女二人」
「雨宿りをした旅人なら、何人もいます」
男は、薄い白色の円盤を取り出した。
祈祷式が刻まれた確認用聖具。
中心部が、淡く光る。
光は母親を通り過ぎ、寝台の少女へ向いた。
「何を」
「動くな」
聖具の光が、少女の胸元へ触れた。
照合不一致。
それでも、基準応答へ僅かに近い反応が残った。
三人の追跡者は、顔を見合わせる。
「聖女の力を受けたか」
母親は答えなかった。
「どちらへ行った」
「知りません」
「娘を助けた者を庇うつもりか」
「助けてくださった方を、何故追うのです」
男の口が止まった。
「保護するためだ」
「あの方は、あなた方から逃げているように見えました」
「惑わされている」
男はそう言い、聖具の記録を閉じた。
西側。
微量の竜気。
基準応答へ僅かに近い不一致記録。
そこに、少女が治療を受けた事実は残らなかった。
◇
現在。
北西森林地帯では、雨の代わりに朝露が葉を濡らしていた。
八雲が先頭を歩く。
腰の刀へ手は置かず、枝の揺れと足元だけを見ている。
その後ろを、アリシアが歩いていた。
隠れ里を出た頃より、歩き方は良くなっている。
それでも、木の根に足を取られそうになるたび、紅緒の手が背へ伸びた。
「大丈夫です」
「転ぶ前に言いなさい」
「転ぶ前には、まだ大丈夫なのです」
「転んだ後では遅いの」
前を歩く八雲の肩が、少しだけ揺れた。
「笑いましたね」
「笑っていません」
「肩が動きました」
「道が悪いだけです」
アリシアは、紅緒を見た。
「八雲は、隠れ里を出た頃よりよく笑うようになりました」
「あなたが以前より妙なことを言うようになったからでしょう」
「聖女ではなく?」
「今ここで、あなたを聖女と呼ぶ理由はないもの」
八雲は足を止めた。
前方に、小さな川がある。
水量は多くない。
だが、渡れる場所には新しい足跡が残っていた。
人のもの。
三人分。
北から来て、南へ向かっている。
「追手でしょうか」
アリシアが問う。
「分かりません」
八雲はしゃがみ、泥へ触れた。
「昨日か、今朝。こちらを探している歩き方ではありません」
「なら、避けます」
紅緒が言った。
「無関係な者へ近づく理由はありません」
三人は川沿いへ進路を変えた。
遠回りになる。
それでも、誰かを巻き込むよりはよかった。
しばらく歩いた後、アリシアが口を開いた。
「紅緒」
「はい」
「わたくしは、連れ去られたことになっているのでしょうか」
「おそらく」
「イレーネとマルクが、わたくしを惑わせたと」
「それが最も扱いやすい説明です」
アリシアは足元を見た。
朝露に濡れた草が、外套の裾へ触れている。
「わたくしが頼んだのに」
紅緒は、すぐには答えなかった。
「御自分の意思で出たと認めれば、聖女が教国を拒んだことになります」
「聖女ではなく、アリシアが拒んだのです」
「あちらには、同じことでしょう」
「わたくしには、違います」
今度は、紅緒が足を止めた。
八雲も振り返る。
アリシアは二人を見た。
「あの二人は、わたくしを連れ去っていません」
声は小さかった。
「十三歳のわたくしが、連れて逃げてほしいと頼みました」
「ええ」
紅緒が答えた。
アリシアは、小さく頷いた。
「今度は、わたくしが守る番です」
「隠れ里へ戻らないのは、そのため?」
「わたくしを追う者を、あの場所へ近づけたくありません」
湖のほとりにある、小さな隠れ里。
そこでイレーネとマルクは夫婦になった。
今は、子を身籠ったイレーネとマルクが、生まれてくる子供を守るため、ともに匿われている。
四ヶ月前。
追手の気配が再び濃くなった時、アリシアは二人を残し、八雲と紅緒とともに里を出た。
「イレーネは、怒っていましたね」
「あれは怒って当然よ」
「マルクは、最後まで一緒に行くと言っていました」
「あれも当然だ」
八雲は、森の奥へ視線を戻した。
「今度は、二人が追手に見つからずに済むようにな」
「話の続きは歩きながらだ。追手でなくても、人が近くにいる」
三人は、また歩き出した。
北西へ。
少なくとも、追う者にはそう見えるように。
まだ、行き先の名は決まっていなかった。
ただ、戻らない場所だけは決まっていた。
◇
同じ頃。
六十八日前に三人が立ち寄った小礼拝所へ、一通の照会文が届いた。
聖女の名はない。
背教騎士という言葉もない。
若い女性一名と、護衛らしき男女二名。
施療、食事、宿泊場所を提供した記録がないか。
本人たちへ接触せず、記録だけを返すこと。
老司祭は、文面を二度読んだ。
それから、施療記録の綴りを開く。
六十八日前。
高熱の少女。
薬師不在。
名を告げなかった旅人による応急処置。
司祭は、返答用の紙を一枚取った。
書いたのは、施療記録に残っている事実だけだった。
旅人の行き先は記録にない。
少女は、翌朝には熱が下がった。
最後に、短い一文を加える。
あの方は、自らの足で歩いておられました。
老司祭は署名し、教会印を押した。
返答の宛先は、学院長府確認窓口。
暗部ではなかった。




