第百七夜 祈りの外側
第百七夜 祈りの外側
暗部五名の身柄引渡しを求める書状が届いたのは、翌朝だった。
差出人は、学院のある街を管轄するメシア教会。
封蝋も署名も正規のものだった。
教会所属者を騙る者が重大な事件を起こした可能性があるため、教会法に基づいて事情を確認したい。
書かれている言葉は、穏当だった。
暗部という言葉も、聖女アリシアという名もない。
ただ、身柄を引き渡してほしいとある。
「早いですね」
リシアが言うと、エレナは書状の受領時刻を表示した。
「捕縛記録が学院長府へ提出されてから、二時間と少しです」
「昨夜のうちに動いた者がいますわね」
アリシアは、差出人の名ではなく、書状が通った経路を見ていた。
学院長府の会議室には、リシア、アリシア、ステファニア、エレナ、エリオットがいる。
アインとクラウディアは、卓上表示の向こうから参加していた。
「引き渡すのですか」
リシアが問う。
「現時点では、引き渡しません」
学院長府の責任者が答えた。
「学院敷地内で、在籍者と客員滞在者に対する武装接触が行われました。学院側の確認が終わるまでは、学院長府の管理下に置きます」
「教会側は納得なさるでしょうか」
「納得するかどうかと、渡せるかどうかは別です」
責任者は書状の横へ、短い返答案を置いた。
所属確認、命令系統、武装接触の目的、押収物の由来。
四点について、正式な回答を求める。
身柄引渡しの協議は、その後。
「押収物も、返還を求められています」
エレナが別の一文を示した。
「教会儀礼に関わる聖具であるため、信仰上の尊厳を損なわぬよう返還を、と」
「返しますか」
今度は、ステファニアが問うた。
「返せません」
答えたのは、エリオットだった。
彼の前にも、同じ書状が置かれている。
「聖具であることは、返還を急ぐ理由にはなりません。事件に使われた物であれば、確認を終えるまで証拠です」
エリオットは、少し間を置いた。
「信徒としては、丁重に扱うよう求めます。記録担当者としては、返還に反対します」
「二つは、両立するのですね」
リシアが言う。
「両立させなければなりません」
エリオットは、書状へ視線を落とした。
「祈りに用いる物だから、調べてはならない。教会に属する者だから、教会へ返さなければならない。それを認めれば、祈りの名を置くだけで、確認の外へ出せます」
会議室が静かになった。
アリシアが、閉じた扇子を指先で一度だけ転がす。
「では、この方々を外へ出したい者は、少なくとも教会側にもいらっしゃる」
「そうとは限りません」
クラウディアが答えた。
「通常の手順として身柄を求めた可能性もあります」
「ええ。ですから、返答を見ますの」
「既に要求の早さを見ています」
「まだ一つ目ですわ」
クラウディアは否定しなかった。
◇
押収された確認用聖具は、白い布の上に置かれていた。
薄い円盤。
細かな祈祷式。
中心部には、認定聖女アリシアの固有魔力応答が保存されている。
クラウディアは、その周囲にある小さな記録領域を開いた。
「照合結果だけではありません」
円盤の上に、複数の線が浮かぶ。
「使用日時。照合時の魔力環境。基準応答との差異。聖具の状態確認に必要な最低限の記録が残っています」
「場所も分かるのですか」
「位置を記録する機能はありません」
クラウディアは一つ目の記録を開いた。
照合不一致。
弱い雨。
魔力環境に、竜山脈東麓特有の鉱物性ノイズ。
二つ目。
照合不一致。
乾いた風。
植物由来の魔力反応が薄い。
三つ目。
照合不一致。
微量の竜気。
「竜気」
リシアが、その言葉を読んだ。
「竜に近づいたということですか」
「竜山脈では、土地そのものに残る場合があります。これだけでは、竜との接触を意味しません」
「ですが、西側で照合を試した可能性はある」
ステファニアが言う。
「はい」
クラウディアは、三つの記録を地図上へ重ねた。
竜山脈東麓。
南端の交易路。
その西側。
確定した地点ではない。
それでも、山脈を越えた後に使われた可能性が高い記録が、一つだけあった。
「誰へ使ったのでしょう」
リシアの問いに、クラウディアは別の数値を示した。
クラウディアの指が、そこで止まった。
「三件とも不一致です。ただし、西側の一件だけ、基準応答へ僅かに近い」
「本人?」
アインが問う。
「断定できません。近縁の魔力反応、聖具の読み取り不良、周辺環境による歪みでも説明できます」
「いつだ」
「六十八日前です」
表示の地図が、ゆっくりと狭まった。
竜山脈西側。
古い街道が三本に分かれる地域。
一つはファーランド方面。
一つは北西の森林地帯。
もう一つは、山間の小国群へ向かっている。
「六十八日」
アリシアが繰り返した。
「今から追えば、もう同じ場所にはいらっしゃらないでしょうね」
「追われていると知っているなら、留まらない」
アインが言った。
「それでも、道は残る」
クラウディアは、三本の街道へ別々の色を付けた。
「ベルン商会の支店、交易記録、施療所、宿泊所。本人の顔を広く尋ねれば、暗部にも届きます」
「では、顔を尋ねずに探す必要がありますね」
エレナが記録欄を開く。
「若い女性と、同行する男女二名。四ヶ月前以降に西側を移動した三人組として」
「それでも狭くはありません」
ステファニアが地図を見る。
「聖女であることを隠しているなら、教会施設を避けるでしょうか」
「避けるとは限りません」
エリオットが答えた。
「教会は一枚ではありません。助けを求めれば匿う者もいます。命令に従い、知らせる者もいます」
「見分けられますか」
「簡単には」
エリオットは、少し考えた。
「ですが、聖女を探しているとは言わず、旅人三名へ食事や寝床を渡した記録だけを尋ねることはできます」
「教会へ?」
「教会だけではありません。修道所、施療院、街道沿いの小礼拝所」
彼は地図上の街道へ視線を向けた。
「祈りの中に隠れたのなら、暗部だけが祈りを使えると思わせるべきではありません」
◇
昼前。
学院長府から教会へ、正式な返答が送られた。
身柄は引き渡さない。
聖具も返還しない。
信仰上の尊厳を損なわぬ形で保管し、学院長府立会いの下で確認を続ける。
教会側には、暗部五名の所属と命令系統について回答を求める。
その返答とは別に、エリオットは短い照会文を作った。
聖女の名はない。
背教騎士という言葉もない。
六十八日前を中心に、竜山脈西側の街道で、若い女性一名と護衛らしき男女二名へ施療、食事、宿泊場所を提供した記録がないか。
回答は、学院長府の確認窓口へ。
本人たちへ接触せず、記録だけを返すこと。
「これを、どこへ送るのですか」
リシアが問う。
「私が、返答する人を知っている場所へ」
エリオットは答えた。
教会を信用するのではない。
教会の中にいる、信用できる人へ尋ねる。
その違いを、彼は書状の宛名で示した。
アインは、完成した文面を一度だけ読んだ。
「送れ」
「承知しました」
エリオットが書状を閉じる。
地図の上には、まだ三本の道が残っていた。
どれが正しいかは、分からない。
けれど、昨夜までなかった道だった。




