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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百五夜 呼ばれた名

第百五夜 呼ばれた名


 呼称訂正協議は、予定より短く終わった。


 結論が出たわけではない。


 聖女像と呼ばれてきたものを、今後どの名で記録するか。


 信仰対象として扱われてきた事実を、訂正後の記録へどう残すか。


 ファーランド側の一次記録と、聖務資料整理院の保管記録を、どこまで相互参照させるか。


 どれも、一度の協議で決める内容ではなかった。


 ただし、アリシア本人が同席したことで、一つだけ先に決まった。


 次回以降、像の本人が不在であることを前提に議論してはならない。


「ずいぶん静かに終わりましたね」


 学院長府別棟を出たところで、リシアは言った。


「皆様、礼儀正しい方々でしたもの」


 アリシアは、いつも通り微笑んでいた。


「アリシア様が御自身の名と署名を置かれた後、発言が減ったように見えました」


 ステファニアの言葉に、アリシアは扇子を開いた。


「次までに、言葉を選んでくださるのでしょう」


 扇子の向こうで、楽しそうにしている。


 リシアは、それ以上聞かなかった。


 帰路は、学院長府が用意した馬車ではなく、徒歩が選ばれていた。


 別棟から貸与邸までは遠くない。


 人通りの多い中央路を避けても、古い庭園を抜ければ十分ほどで着く。


 アリシア、リシア、ステファニア、セラ。


 同行者は四人だけに見えた。


 クラウディアは協議室へ残り、追加史料の受領記録を確認している。


 アインは、同行者一覧に入っていない。


 庭園には、冬を越した低木と、まだ葉の少ない木々が並んでいた。


 石畳の脇には細い水路がある。


 流れる水の音に混じり、鳥が一度だけ鳴いた。


 セラの足が止まった。


「リシア様」


 声は小さかった。


 リシアは立ち止まらず、歩幅だけを少し狭めた。


 視界の端に、短い表示が浮かぶ。


 接触予測。


 五。


 監視継続。


 リシアは、前を歩くアリシアの背を見た。


 白い外套。


 右手には、閉じた扇子。


 歩調は変わらない。


     ◇


 庭園の奥には、小さな東屋があった。


 その手前で、三人の男が道を塞いだ。


 作業着に見える衣服。


 腰に道具袋。


 学院の庭師を装っているのだろう。


 ただし、手には土の跡がなかった。


「アリシア・ファーランド様」


 中央の男が呼びかける。


 アリシアは足を止めた。


「何か御用でしょうか」


「確認させていただきたいことがあります」


「学院長府を通していただければ、正式にお答えいたしますわ」


「正式な経路では、御答えいただけないことです」


 男の視線が、アリシアの顔からリシアへ移った。


 ほんの一瞬だった。


 それでも、迷ったことだけは分かった。


「聖女アリシア」


 男が言った。


「教国へ、お戻りいただく」


 アリシアの扇子が、わずかに傾いた。


「……わたくしが?」


「偽りの家名も、用意された姉妹も、もはや意味はない」


 今度は、リシアが目を瞬いた。


 用意された姉妹。


 何の話をしているのか、まるで分からない。


「一つ、伺ってもよろしくて?」


 アリシアが問う。


「わたくしが、いつ教国へ参りましたの?」


 男の眉が動いた。


「記憶への処置か」


「話が通じませんわね」


 アリシアは、閉じた扇子を口元へ添えた。


「どうやら、わたくしたちは別の事件へ呼ばれてしまったようですわ」


 水路の向こうで、枝が折れた。


 同時に、背後から二人が姿を現す。


 五人。


 表示と同じ数だった。


「抵抗は勧めない」


 中央の男が言った。


「聖女の印を確認するだけだ」


「どちらの?」


 リシアが思わず問うた。


 五人の視線が、また揺れた。


 アリシアは、その揺れを見逃さなかった。


「リシアも候補なのですね」


「動くな」


「困りましたわ」


 扇子が、静かに開く。


「妹まで勝手に聖女へ数えられては、ファーランドとして看過できません」


 中央の男が片手を上げた。


 二人が同時に踏み込む。


 一人はアリシアの右腕へ。


 もう一人は、左側からアリシアの退路へ。


 セラはリシアの前へ入り、残る三人から視線を外さなかった。


 アリシアの扇子が閉じた。


 細い音が、二つ続いた。


 一人目の手首から短剣が落ちる。


 二人目は、踏み込んだ右膝の内側を打たれ、そのまま膝を折った。


 アリシアは一歩も下がっていなかった。


 閉じた扇子の先が、一人目の喉元へ向いている。


 もう一人は、脇腹を押さえたまま立てない。


「次は、もう少し痛くいたしますわ」


 残る三人が武器へ手を伸ばした。


 伸ばしたところで、止まった。


 背後に、人が立っている。


 庭園の木陰。


 東屋の屋根。


 水路の向こう。


 いつからいたのか分からない調整体の確保班が、道を囲んでいた。


 黒を基調とした、目立たない服装。


 武器は見えない。


 けれど、逃げ道も見えなかった。


「武器を手放してください」


 静かな声が告げた。


「三秒後に制圧します」


 一人が、後ろへ跳ぼうとした。


 三秒は待たれなかった。


 身体が石畳へ伏せられ、両腕が固定される。


 別の一人が歯を噛み合わせようとする。


 顎へ指が入り、口内から小さな包みが抜き取られた。


 最後の一人は、何かを唱えようとした。


 声が出る前に首元へ細い器具が触れ、全身から力が抜けた。


 三人が動かなくなるまで、長い時間はかからなかった。


「確保完了」


「自死用薬物一、記憶処置用術具二、通信具三を確認」


「負傷者二名。生命反応に問題なし」


 報告が淡々と続く。


 リシアは周囲を見回した。


 二十五人。


 全員が見える位置へ出てきたわけではない。


 それでも、五人より多いことだけはよく分かった。


「約束は守りましたわ」


 アリシアが言った。


 自分の袖を確かめる。


 傷も、汚れもない。


「アリシア様」


 ステファニアの声が低かった。


「はい」


「後ほど、アイン様へ御自身で御説明ください」


「もちろんですわ」


「その笑顔をやめてから」


 アリシアは、少し考えた。


「難しいお願いですわね」


     ◇


 クラウディアが庭園へ到着した時、五人はすでに拘束されていた。


 負傷した二人は治療を受け、残る三人は通信、自死、記憶処置の手段を全て外されている。


 学院長府警備担当者も呼ばれていた。


 発見位置。


 最初の呼びかけ。


 武器を抜いた順番。


 制圧時の負傷。


 押収物。


 全てが、学院長府へ提出できる形で記録されている。


「最初の呼びかけを確認します」


 クラウディアが言った。


 記録音声が再生される。


『聖女アリシア。教国へ、お戻りいただく』


 クラウディアは、拘束された五人を見た。


「聖女像事件を理由とする接触ではありません」


「ええ」


 アリシアは頷いた。


「わたくしを、別のアリシアと間違えていらっしゃいます」


「リシア様も候補として確認しています」


「用意された姉妹、と仰っていましたわね」


 リシアは、自分とアリシアを見比べた。


「本当に、別のアリシアがいるのでしょうか」


 拘束された男の一人が、顔を上げた。


 アリシアを見る。


 次に、リシアを見る。


 その顔にあるのは、敵意ではなかった。


 混乱だった。


「……では」


 男の声が掠れた。


「お前たちは、誰だ」


 アリシアは扇子を開いた。


「それを伺いたいのは、こちらですわ」


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