第百三夜 救いの向き
第百三夜 救いの向き
旧講義棟の渡り廊下には、机が残っていた。
小礼拝室前に置かれていたものと、よく似た大きさだった。
ただし、こちらは折り畳み式ではない。
古い木製の小机。
角には細かな傷があり、天板の色も少し褪せている。
何年も学院で使われてきた備品のように見えた。
机の上には、薄い冊子が積まれている。
祈願文例ではなかった。
白い表紙。
小さな灯火の印。
題は、東方へ届ける救い。
リシアは、離れた場所から冊子を見た。
「触れませんね」
「触れない」
オスカーが答えた。
彼は机へ近づかず、渡り廊下の両端を見ている。
朝の講義前で、人通りはまだ少ない。
それでも、何人かの学生が机の前で足を止めた。
冊子を一冊取る者。
表紙だけ見て戻す者。
机そのものを気にせず通り過ぎる者。
誰も、誰かに勧められてはいない。
机がある。
冊子がある。
それだけだった。
「止めますか」
ユリアが小声で問う。
「まだ」
エレナが答えた。
「学院内で配布許可を受けている冊子か、確認が先です」
「取った人は」
「記録しません」
答えは早かった。
「今この場で冊子を手に取ったことだけを理由に、名を残すべきではありません」
リシアは頷いた。
見ていることを、見られていると思わせない。
それも水路番の仕事だった。
◇
冊子に学院内配布許可はなかった。
発行者名も記されていない。
ただ、裏表紙の端に、小さな灯火の印と短い文があった。
白灯救済奉仕会。
傷ついた者へ食事を。
迷う者へ教えを。
救いを知らぬ者へ、正しき道を。
「この団体を御存じですか」
リシアが問うと、エリオットは冊子から目を上げなかった。
「知っています」
短い返答だった。
いつもの彼より、声が硬い。
「メシア教会の正式な組織ですか」
「正式な教会機構ではありません。複数の教会、修道所、施療院に所属する信徒が参加する奉仕団体です」
「では、教会とは無関係なのですか」
「無関係とも言えません」
エリオットは頁をめくった。
炊き出し。
負傷者の手当て。
戦災孤児への衣服提供。
冊子には、奉仕会が行ってきた活動が並んでいる。
どれも、実際に人を助ける仕事だった。
「施療活動の記録はあります。冬季の炊き出しも、街道沿いの救護所も、本当に運営しています」
「良い団体、なのですね」
ミリアの言葉に、エリオットはすぐ答えなかった。
「良い働きをしています」
「団体そのものについては」
「一つの言葉では答えられません」
エリオットは冊子を閉じた。
「所属する者も、考え方も、地域ごとに違います。救護だけを行う者もいます。布教を重視する者もいます。異なる信仰や種族を、救われていない状態だと考える者も」
ユリアが、冊子の頁を指した。
「ここですか」
頁の中央には、東方の地図が載っていた。
獣人諸氏族連合王国の領域。
その上に、白い灯火がいくつも描かれている。
帝国との国境に近い灯火ほど、大きい。
「東方で戦火が広がる今こそ、救いの届かなかった民へ手を差し伸べる時」
ミリアが、冊子の文を読んだ。
「救いの届かなかった民」
エレナが繰り返す。
怒りではない。
確認する声だった。
「連合王国の方々が、救いを求めているという記録は」
「冊子にはありません」
ユリアが答えた。
「救護を求めている地域の記録はあります。ただし、信仰上の救済を求めているとは書かれていません」
リシアは、地図上の灯火を見た。
食事。
薬。
衣服。
それを必要としている人は、きっといる。
その横に、正しい道という言葉が置かれている。
「救いを受けることと、教えを受けることが、同じ冊子に入っています」
「はい」
エリオットが答えた。
「それ自体は珍しくありません。教会の施療院も、祈りの場と医療の場を併せ持ちます」
「では、何が問題なのでしょう」
リシアは、素直に問うた。
エリオットは少し黙った。
「向きを、誰が決めたかです」
冊子の地図へ、彼の指が置かれる。
「助けを求める声へ向かうのか。助ける側が、救われていない者を決めて向かうのか」
白い灯火は、東を向いていた。
◇
旧講義棟の小机を置いた学生は、昼前に見つかった。
見つかったというより、本人が冊子の補充に戻ってきた。
学院長府の立会いを求められると、素直に応じた。
名前は、トビアス。
神学科の三年生だった。
「学院内へ机を置くには、許可が必要です」
エレナが言う。
「申し訳ありません。奉仕活動の案内であれば、問題ないと思っていました」
トビアスは深く頭を下げた。
机を隠す様子も、冊子を回収しようとする様子もない。
「机は、どこから」
「西街区の奉仕会詰所から借りました」
「学院外から運び込んだのですか」
「はい。昨日、祈願文例を置くために」
トビアスは、そこで顔を上げた。
「祈願文例が、何か問題になったのでしょうか」
「文例の一部が、特定の学生へ未確認情報を届ける文として使われました」
エレナが答える。
トビアスの顔から血の気が引いた。
「そのようなつもりでは」
「そうでしょう」
エレナの返答に、今度はトビアスが戸惑った。
「奉仕会から、祈願文例と冊子を置くよう頼まれたのですか」
「はい。学院にも、東方の戦火を案じる者が多いからと」
「誰から」
「詰所の世話役です」
「御名前は」
トビアスは答えた。
名は、学院の記録にも、神殿側の公開名簿にもなかった。
「その方とは、以前から?」
「三日前に、奉仕会の集まりで初めてお会いしました」
「初めて会った方から、机と文例を」
「紹介状をお持ちでした。奉仕会の印も」
トビアスは、困ったように言った。
「炊き出しに参加したいと申し出たら、学院でできることを任せてくださいました。私は、役に立てると思って」
その言葉を聞いて、誰もすぐには返さなかった。
役に立ちたかった。
フィーネは、祈りたかった。
レオンは、兄へ何かを届けたかった。
それぞれ違う願いの前へ、使える形が置かれていた。
「トビアス様」
エリオットが言った。
「奉仕会で行った救護活動まで、間違いだったとは考えないでください」
「ですが」
「ただし、次に学院内へ何かを置く時は、学院の許可を得てください。祈りも、救護も、置いた者の意図だけでは働きません」
トビアスは、しばらく黙った後、頷いた。
◇
白灯救済奉仕会の西街区詰所は、実在した。
炊き出しの記録もある。
施療院へ薬草を届けた記録もある。
トビアスが参加した集まりも、実際に開かれていた。
ただし、彼へ机と文例を渡した世話役だけが見つからなかった。
奉仕会の登録名簿に、その名はない。
紹介状の印は本物だった。
署名だけが、存在しない者の名だった。
「印は、どこからでも借りられますわ」
貸与邸の卓上で、アリシアが紹介状の写しを見ていた。
「正規の印であれば、皆様、文面まで正しいと思ってくださいますもの」
「奉仕会全体を調べますか」
リシアが問う。
「調べる必要はありませんわ」
返事は穏やかだった。
「必要がないのですか」
「既に、調べている方々がいらっしゃるでしょう?」
アリシアの視線が、クラウディアへ向く。
「詰所、関係教会、施療院、印章管理者、紹介状の紙、筆記具、机の搬入経路まで確認中です」
クラウディアが答えた。
「奉仕会全体を敵性組織とは扱いません。該当する導線だけを分離します」
「さすがですこと」
アリシアは紹介状の写しを置いた。
「では、わたくしは別のことをいたしましょう」
クラウディアの目が、わずかに細くなる。
「何をなさるおつもりですか」
「聖女像寄進要求事件の一次記録閲覧を、学院長府へ申請いたします」
リシアは、アリシアを見た。
「今、ですか」
「今だからこそ、ですわ」
「理由を伺っても?」
クラウディアの声は平坦だった。
平坦すぎた。
アリシアは微笑む。
「白灯救済奉仕会の冊子と、過去の聖女像事件における救済・保護の用語を比較したい、と」
「申請者名は」
「アリシア・ファーランド」
部屋が静かになった。
その名は、現在の大公家長女として通る。
同時に、古い記録を深く知る者には、別の意味を持つ。
「閲覧だけではありませんね」
クラウディアが言った。
「ええ。保管者側一次記録の追加提出と、呼称訂正協議への本人同席も申し出ます」
リシアは、息を止めた。
聖女像と呼ばれた本人が、目の前で微笑み、自ら同席を申し出ている。
「アイン様には」
「もちろん、御報告いたしますわ」
「いつ」
「申請を提出した後に」
クラウディアは目を閉じた。
ほんの短い間だった。
「先に御説明ください」
「止められてしまいますもの」
「止められる理由があると御理解なのですね」
「ええ」
アリシアは、少しも悪びれなかった。
「ですから、止めるより守る方が早いところまで進めてから、御説明いたします」
「護衛計画は」
「クラウディアへお願いしようかと」
「まだ承諾していません」
「では、お願いいたしますわ」
アリシアは扇子を開いた。
リシアには、口元が見えなくなった。
けれど、笑っていることだけは分かった。
卓上に、学院長府提出用の申請書が表示される。
申請者。
アリシア・ファーランド。
申請内容。
聖女像寄進要求事件に関する一次記録閲覧、追加史料提出、および呼称訂正協議への本人同席。
クラウディアは、しばらく申請書を見ていた。
やがて、護衛計画用の新しい記録を開いた。




