第百一夜 祈りの宛先
# 第百一夜 祈りの宛先
祈りは、朝の鐘より先に届いた。
学院長府確認窓口の前に置かれていたのは、紙片ではなかった。
細い糸を編んだ、小さな祈願紐だった。
白。
青。
淡い金。
それぞれに小さな木札が結ばれ、表には祝福を願う言葉が書かれている。
病の快癒。
旅路の安全。
遠くにいる家族の無事。
学院の売店でも扱われている、ごく普通の品だった。
リシアは、窓口の扉を開けたところで足を止めた。
「……来ましたね」
隣で、エレナが言った。
「来ました」
予測していた。
それでも、実際に目にすると困る。
紙片なら、未登録紙片として扱える。
贈り物なら、本人宛て物品として預かれる。
けれど、祈りは。
「触れない方がよいでしょうか」
「今は」
エレナは腰を屈めず、祈願紐を見た。
「置いた者が、祈願紐を届けたかったのか。祈りを書いた木札を読ませたかったのか。それを分けたいです」
リシアも頷いた。
紐は五つ。
窓口の扉を塞いではいない。
踏まれないよう、壁際へ綺麗に並べられている。
紙片のように撒かれてはいなかった。
一見すれば、丁寧だった。
けれど、そのうち二つの木札だけは、裏返しに置かれていた。
裏には、表より長い文がある。
リシアの位置からでも、一行目だけは読めた。
遠き地で戦う者たちに、真なる勝利が――
「オスカー様を呼びます」
「お願いします」
リシアは窓口へ入らず、廊下の端末から連絡を送った。
ほどなく、オスカーが清掃用具を持って現れた。
祈願紐を見ても、顔色は変えなかった。
「今度は掃くと怒られそうだな」
「怒る方はいると思います」
リシアが答えると、オスカーは少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、踏まれないよう囲うだけにする」
低い仕切りが置かれる。
通行を止めるほどではない。
祈願紐へ触れず、けれど誰かが拾って持ち込むことも防げる形だった。
「祈りを閉じ込めている、と言われませんか」
通りかかった学生が、足を止めて言った。
責める声ではなかった。
本当に、気になったらしい。
オスカーは仕切りを置く手を止めた。
「踏まれないようにしてる」
「でも、届けないのですか」
「俺が決めることじゃない」
学生は祈願紐を見た。
木札の裏面にも気づいたらしい。
少し迷った後、何も言わずに歩いていった。
リシアは、その背を見送った。
それで十分だった。
◇
祈願紐は、学院長府の記録担当者立会いのもとで確認された。
五つのうち、三つは短い祈りだけだった。
カイル様とミレイア様の名もない。
東方で戦う者たちの無事を願う、ごく普通の祈願紐だった。
残る二つには、裏面があった。
真なる勝利が、隠されませんように。
正しい知らせが、拒まれた二人へ届きますように。
祈りの文として読める。
けれど、昨日までの紙片と同じ芯がある。
「祈った者の名は、ありません」
ユリアが確認記録を見ながら言った。
「購入記録から辿れる可能性はありますが、売店で普通に扱われている品です。同じ色、同じ編み方のものは、かなり出ています」
「追わなくてよいと思います」
エレナが言った。
「少なくとも、最初にやることではありません」
「では、何から」
ミリアが問う。
エレナは、五つの祈願紐を見た。
「三つと二つを、同じものとして扱わないことからです」
リシアは頷いた。
「祈りだけのものと、本人へ何かを伝える文が添えられたもの」
「はい。ただ、後者を偽物の祈りとも呼びたくありません」
エレナの声は、いつもより少し慎重だった。
「書いた者は、本当に無事を願っているかもしれません。その願いに、別の意図が混ぜられている。あるいは、誰かから渡された言葉を、そのまま良いものだと思って書いたのかもしれない」
ミリアが眉を寄せる。
「祈りなら、本人へ届けなくても祈りではありますよね」
「私も、そう思います」
エレナは答えた。
「ですが、神殿の規定としてどう扱うかは、確認した方がよいです」
その場にいた全員の視線が、エレナへ向いた。
「エリオット様に?」
「はい」
敵でも、味方でもない。
窓口として見る者。
こういう時にこそ、そういう目を借りるべきだった。
◇
エリオット・ヴァルナーは、五つの祈願紐を前にして、しばらく黙っていた。
祈りの言葉を一つずつ読む。
裏面も読む。
読み終えた後、最初に手に取ったのは、何も添えられていない白い祈願紐だった。
「これは、東方で戦う者たちの無事を願うものです」
「はい」
「本人へ渡す必要はありません」
リシアは、少しだけ肩の力を抜いた。
「祈りは、渡したことで成立するものではないのですね」
「少なくとも、メシア教会の祈願紐はそうです。祈った時点で祈りです。神殿へ納めてもよい。身につけてもよい。手元へ置いてもよい」
エリオットは、裏面に文のある青い祈願紐へ目を移した。
「これも、祈りではあります」
「では、届けるべきでしょうか」
ミリアが問う。
エリオットは首を横に振った。
「それは別の問いです」
言葉は静かだった。
「祈りであることと、名指しされた者が受け取る義務を負うことは、同じではありません」
エレナが、小さく頷いた。
「祈った者の信仰を守ることと、祈られた者へ文を届けることを分ける」
「はい。祈願紐を届けなかったからといって、祈りを拒んだことにはなりません」
エリオットは、木札の裏面を指先で示した。
「ただし、こちらは祈りの言葉を使った伝言です。伝言として扱うなら、差出人も、根拠も、届ける経路も必要になります」
「未登録の伝言」
ユリアが呟く。
「祈りを添えた、未登録の伝言ですね」
「長いです」
ミリアがすぐに言った。
「ですが、分かります」
リシアは少し考えた。
「誘導文付き祈願物、では」
「祈りを誘導の道具と決めつける響きがあります」
エレナが答える。
否定は早かった。
けれど、声は柔らかい。
「本人宛て文付き祈願物」
ユリアが言う。
「本人へ渡す必要がある祈りではなく、本人宛ての文が付いた祈願物。用途が分かります」
「それがよいと思います」
エリオットが頷いた。
分類名が決まった。
本人宛て文付き祈願物。
信仰の正しさを測らない。
祈りの真偽も問わない。
本人へ届けようとしている文があるかだけを見る。
「それで」
ミリアが五つの祈願紐を見た。
「この三つは、どうしましょう」
祈りだけの三つ。
誰かへ渡す必要はない。
けれど、捨てるものでもない。
エリオットは少し考えた。
「学院には、小礼拝室があります」
「メシア教徒以外も入れる場所ですか」
「はい。特定の名へ祈らず、旅人や病人、遠くにいる者の無事を願うための場所です。そこへ納めるのがよいでしょう」
「残る二つは」
「文書部分を確認記録へ残し、祈願紐は同じ場所へ。ただし、本人宛ての文としては届けない」
エリオットは淡々と言った。
「祈りは止めません。宛先だけを外します」
◇
午後、カイル様とミレイア様へ説明が行われた。
今日の表示は、昨日より一行多い。
祈願物確認。
祈りのみ三点。
本人宛て文付き祈願物二点。
祈願物は小礼拝室へ納付。本人宛て文は提示せず、確認記録へ保存。
カイル様は表示を見て、しばらく黙っていた。
「俺たちのために祈った奴がいる」
「はい」
リシアは答えた。
「それは、ありがたい」
「はい」
「でも、何を書いたかは見せない」
「本人へ伝える文が付いた二点については、提示しません」
カイル様は椅子の背へ寄りかかった。
「昨日の紙と同じか」
「芯は近いと見ています」
「分かった」
返事は早かった。
早すぎて、リシアは少し不安になった。
「本当に、よろしいのですか」
「祈ってくれたことは聞いた」
カイル様は、表示を見たまま言った。
「それ以上は、俺が読まなきゃいけないものじゃないんだろ」
「はい」
「なら、いい」
隣で、ミレイア様が小さく息を吐いた。
「私は、小礼拝室へ行ってもよいですか」
エレナが答える。
「祈願紐を誰が納めたか、どれが御二人へ向けられたものかを確認しないのであれば」
「確認しません」
「では、問題ありません」
ミレイア様は頷いた。
「祈ってくださった方がいるなら、私も誰かの無事を祈りたいです」
カイル様が横を見る。
「俺も行く」
「祈り方を御存じですか」
「知らん」
「では、静かになさってください」
「それくらいはできる」
ミレイア様は、少しだけ笑った。
カイル様は不満そうな顔をしたが、反論はしなかった。
◇
夕方の小礼拝室には、誰もいなかった。
色の違う祈願紐が、壁際の細い掛け台に並んでいる。
今日届いた五つも、その中にあった。
裏面の文は、小さな覆いで見えないようにされている。
カイル様とミレイア様は、それを探さなかった。
二人は少し離れた場所に立ち、教えられた通りに頭を下げた。
リシアたちは、扉の外で待った。
中から言葉は聞こえない。
長い祈りでもなかった。
しばらくして、二人が出てくる。
カイル様は何も言わなかった。
ミレイア様も、何を祈ったのかは話さなかった。
扉が閉じる直前、廊下から入った風が、掛け台の祈願紐をわずかに揺らした。
白と青と淡い金が、触れ合わないまま、静かに動いていた。




