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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百夜 岸に立つ者

第百夜 岸に立つ者


 翌朝の学院長府確認窓口には、椅子が四つ用意されていた。


 カイル様。


 ミレイア様。


 そして、説明側としてのリシアとエレナ。


 少し離れた場所に、ミリアとユリアが控えている。


 オスカーは扉の近くに立っていた。


 昨日と同じ位置ではない。


 今日は、外から入ってくる人を見る位置ではなく、説明室の中から外へ出ようとする人を見られる位置だった。


 リシアは、その配置に気づいて、息を整えた。


 止めるためではない。


 けれど、立ち上がる人がいれば見える。


 それだけの位置だ。


 水路番は、座る場所まで仕事にする。


「お待たせしました」


 リシアが言うと、カイル様が短く頷いた。


 顔色は悪くない。


 ただ、目の奥に硬さがある。


 ミレイア様は、その隣で静かに座っていた。


 手は膝の上に置かれている。


 指先が動かない。


 動かさないようにしているのだと、リシアには分かった。


「説明を始めます」


 エレナが表示を開いた。


 卓上中央の少し上に、淡い文字が浮かぶ。


 同じ文字が、四人それぞれの正面から読める角度で見えている。


 未登録紙片確認。


 本文提示なし。


 存在および発見位置説明。


 カイル様は、その三行を見た。


「本文は、見せないんだな」


「はい」


 リシアは答えた。


「昨日の時点で、本人提示は不要と判断しました。ただし、紙片の存在を隠すことも不適切だと判断しています」


「隠すな、と言ったのは」


 カイル様が、少しだけ視線を上げる。


「アイン様です」


 リシアは正直に答えた。


 カイル様は、短く息を吐いた。


 笑ったのではない。


 怒ったのでもない。


 ただ、聞きたいことの一つが答えられた、という息だった。


「なら、そういうことなんだろうな」


「それだけで納得なさるのですか」


 ミレイア様が横から問う。


「納得じゃない」


 カイル様は表示を見たまま言った。


「あの人が隠すなと言ったなら、隠されて困る形の紙なんだろうと思っただけだ」


 リシアは、その言葉を受け止めた。


 カイル様は直情的だ。


 けれど、ただ反射で動く人ではない。


 危ない時ほど、何かを掴む。


 今は、アインの短い判断を足場にしている。


「紙片は三枚確認されています」


 エレナが表示を切り替えた。


 学院内の簡略図。


 食堂前。


 東棟階段下。


 居室側廊下手前。


 三つの点が、細い線で繋がれる。


 カイル様の肩が、わずかに動いた。


 ミレイア様の目が細くなる。


「居室側廊下手前」


 ミレイア様が言った。


「はい」


 エレナが頷く。


「関係学生の居室側廊下へ入る直前です。清掃予定区域の札より手前に置かれていました」


「つまり、拾わせたかった」


 カイル様の声が低くなった。


「そう判断しています」


「誰に」


 その問いに、リシアはすぐ答えなかった。


 答えてはいけない。


 誰に、と問われれば、名前を探したくなる。


 けれど今は、名前ではない。


 流れだ。


「拾う可能性がある人に、です」


 リシアは言った。


 カイル様の眉が動く。


「俺たち、とは言わないのか」


「言いません」


 リシアは、まっすぐ答えた。


「直接あなた方へ渡すつもりなら、扉の前に置けばよい。ですが紙片は食堂前にも、階段下にもありました。本人へだけではなく、周囲へ先に読ませる意図があります」


 ユリアが小さく頷いた。


 リシアは続ける。


「周囲が読み、善意であなた方へ伝える。あるいは、窓口が隠しているという言葉を先に広げる。その流れを作るための位置だと見ています」


「……岸の外から水を押すのではなく」


 ミレイア様が、静かに言った。


「岸にいる者を、水の中へ呼ぶ」


 リシアは頷いた。


「はい」


 カイル様は、表示された三つの点を見ていた。


 拳は握られていない。


 膝の上に置かれたままだ。


 けれど、指の関節が白くなっている。


「本文は見ない」


 カイル様が言った。


 リシアは瞬きをした。


 まだ説明は終わっていない。


 それでも、カイル様は先に答えを置いた。


「見れば、動く」


 声は低かった。


「たぶん、俺は動く。動かないと言っても、頭のどこかが勝手に走る」


 ミレイア様は何も言わない。


 ただ、カイル様の横顔を見ていた。


「だから見ない」


 カイル様は言った。


「ただし、置かれた場所は見る。誰かが、俺たちをどう動かそうとしたのかは知る」


「承知しました」


 エレナが記録する。


 本文不要。


 発見位置説明受領。


 誘導経路確認希望。


 リシアは、その三行を見て、胸の奥が少し熱くなった。


 守られている人の返事ではない。


 自分の足を守る人の返事だった。


「私も同じです」


 ミレイア様が言った。


「本文は不要です。ですが、置かれた場所と、周囲の反応は確認したい。紙を撒いた者の意図だけではなく、それを拾いかけた者がどう動いたかも」


「拾いかけた学生二名は、清掃予定区域札の追記を確認後、紙片へ触れず窓口へ知らせています」


 オスカーが初めて口を開いた。


 短い報告だった。


「接触なし。叱責なし。誘導のみ」


「誘導」


 カイル様が、その言葉を繰り返す。


 少し苦く聞こえた。


 紙片も誘導。


 オスカーも誘導。


 同じ言葉なのに、向きが違う。


「人を動かすこと自体は、悪ではありません」


 ミレイア様が言った。


「どこへ動かすか、誰のために動かすか、そして動かされる者が気づけるか、でしょう」


 オスカーは、わずかに頭を下げた。


「はい」


 その返事は、騎士家の学生としての礼だった。


 同時に、水路番としての返事でもあった。


     ◇


 説明が終わった後も、カイル様はすぐには立たなかった。


 表示は消えている。


 紙片の本文は、最後まで開かれなかった。


 それでも、部屋の空気は軽くない。


 それが、今日の説明だった。


「リシア」


 カイル様が、初めて敬称なしで呼んだ。


 すぐに、しまったという顔をする。


「悪い。ファーランド公女殿下」


「今は、リシアで構いません」


 リシアは答えた。


 自分でも少し意外だった。


 けれど、そう言ってよい場だと思った。


「ここは、窓口ですから」


 カイル様は、少しだけ目を見開いた。


 それから、短く頷く。


「分かった。リシア」


「はい」


「俺は、自分の国が攻められていると聞いた」


「はい」


「父が何を知っていたのかも分からない。氏族がどこまで戦えているのかも分からない。帝国の魔導騎装が止まったと聞けば、嬉しい。嬉しいに決まっている」


 カイル様の声は、途中で少し荒くなった。


 けれど、崩れなかった。


「だから、そういう紙を見たら、俺はたぶん弱い」


 リシアは、何も言えなかった。


 弱い。


「弱いところを突かれている」


 カイル様は続けた。


「それだけは分かった」


「それが分かったなら、十分です」


 ミレイア様が言った。


 声は静かだった。


 けれど、少しだけ柔らかい。


「十分なのか」


「今日の分は」


 その言い方に、リシアは思わず目を上げた。


 昨日の言葉。


 保たせたな。


 なら、明日の分を作れ。


 ミレイア様はそれを知らない。


 知らないはずなのに、同じ場所へ来ている。


 今日の分。


 明日の分。


 水路は一度作れば終わりではない。


 毎日、保たせる。


 毎日、直す。


 毎日、新しい石を拾う。


「今日の分は、岸に立てました」


 ミレイア様が言った。


 カイル様は、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと息を吐く。


「岸に立つ、か」


「ええ」


「水に飛び込むな、と」


「今は」


 ミレイア様は、そこで少しだけ笑った。


「飛び込む時は、せめて足場を選んでください」


 カイル様が、初めて少し笑った。


 ほんの少しだった。


 けれど、その笑みで部屋の空気がわずかに緩む。


「分かった」


 カイル様は立ち上がった。


「今日は、岸に立つ」


 リシアは、その言葉を記録欄へ送らなかった。


 これは記録ではなく、本人の足場だと思ったからだ。


 代わりに、説明終了欄へ短く入れる。


 本人、本文非提示を継続。


 発見位置説明受領。


 以後、誘導文付き未確認情報は本文非提示、存在通知、発見位置説明を基本とする。


 エレナが、そこへ一行だけ足した。


 本人が希望した場合、同席説明を行う。


 リシアは頷いた。


 隠さない。


 けれど、流さない。


 本人を水の中へ押し込まない。


 岸に立つための場所を作る。


     ◇


 貸与邸へ戻ると、アリシアが報告を聞いて、扇子をゆっくり開いた。


「よろしいのではなくて」


 その声に、リシアは少しだけ肩の力を抜いた。


「本文を見せず、紙片の存在は隠さず、置かれた場所を本人と共有する。水路としては、よく保っていますわ」


「ありがとうございます」


「ただし」


 扇子の向こうで、アリシアの目が細くなる。


「紙を撒いた者は、次は紙ではないものを使うかもしれません」


 リシアは、背筋を伸ばした。


「はい」


「言葉は、紙にだけ乗るものではありません。噂、贈り物、祈り、励まし、冗談。どれも水に落ちます」


「……はい」


 リシアは、今日の紙片を思い出した。


 薄い紙。


 粗い字。


 綺麗な言葉。


 知る権利。


 その言葉は、次は別の形で来るかもしれない。


「次は、祈りかもしれませんわね」


 アリシアが、何でもないことのように言った。


 リシアは、扇子の向こうの笑みを見た。


 その言葉が予測なのか、警告なのか、あるいはもう何かを掴んでいるのか。


 分からない。


 けれど、分からないことをそのまま置けるようには、少しなってきた。


「クラウ」


 アインが言った。


「はい」


「紙片の流れは」


「追跡中です。筆跡は三種。紙質は二種。文面の芯は一つ。写した者は複数、元文は一つと見ています」


「元を追え」


「承知しました」


 アインは、リシアを見た。


「明日は祈りが来る」


「……断定ですか」


「たぶん」


 その短い返事に、リシアは少しだけ困った。


 アインの「たぶん」は、時々かなり信用できない。


 当たりすぎる。


「では、明日の分も作ります」


 リシアは答えた。


 アインは短く頷く。


 リシアは窓の外を見た。


 学院の庭は、今日もよく整えられている。


 白い石道。


 刈り込まれた植え込み。


 朝の光を受ける噴水。


 水は、きれいに見えた。


 けれど、きれいな水にも流れがある。


 岸に立つ者がいる。


 押す者がいる。


 引きずり込もうとする者もいる。


 だから、明日の分を作る。


 今日保った水路が、明日も同じ形で保つとは限らないのだから。


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