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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第九十九夜 希望に付いた手

第九十九夜 希望に付いた手


 翌朝、良い知らせは紙になっていた。


 学院長府確認窓口へ向かう途中、リシアは廊下の壁際に落ちている一枚の紙片を見つけた。


 大きさは、掌より少し大きい。


 正式な掲示ではない。


 学院長府の封も、担当者の署名もない。


 ただ、目を引くように太い字で書かれていた。


 帝国魔導騎装十騎、撃破。


 連合王国、反撃開始。


 窓口は勝報を隠している。


 リシアは、紙片を拾わなかった。


 拾おうとした指を、途中で止めた。


 紙に触れる前に、首元の装身型拡張視覚端末へ視線を向ける。


 共有記録。


 落下物確認。


 未登録紙片。


 リシアの視界の端に、薄い枠が出た。


 同時に、少し離れた壁際にいたオスカーがこちらを見た。


 彼は近づかない。


 ただ、視線だけで紙片の位置を確認し、窓口側へ短い記録を送る。


 接触なし。


 回収前記録。


 周辺学生反応確認。


 昨日までなら、リシアはその三行の硬さに少し驚いたかもしれない。


 今は違う。


 紙片は、ただの紙ではない。


 誰かが置いたものだ。


 誰かに拾わせるために。


 誰かの足を止めるために。


 そう思った瞬間、リシアにはその紙が少し重く見えた。


「リシア様」


 ステファニアが、隣で静かに呼んだ。


「触れない方がよろしいです」


「はい」


 リシアは頷いた。


「善意で落とした紙には、見えません」


「ええ。善意にしては、宛先が広すぎますわ」


 ステファニアの声は穏やかだった。


 けれど、視線は紙から離れていない。


 その時、廊下の向こうから二人の学生が歩いてきた。


 一人が紙片に気づき、足を止める。


「おい、これ」


 もう一人が覗き込む。


 リシアは息を詰めた。


 止めるべきか。


 止めないべきか。


 昨日、オスカーは止めなかった。


 止めないことも仕事だと、リシアは思った。


 けれど、今は紙がある。


 人の言葉ではなく、置かれた形がある。


 リシアが迷った、その一拍で、オスカーが動いた。


 近づくのではない。


 廊下の反対側に立てられていた清掃予定区域の札を、少しだけずらしたのだ。


 学生二人の視線が、札へ流れる。


 札には、小さな追記があった。


 未登録紙片を見つけた場合は、触れずに学院長府確認窓口へ知らせること。


 学生は紙片と札を見比べた。


「……触らない方がいいらしい」


「面倒だな」


「でも、書いてある」


 二人は紙を拾わなかった。


 そのまま、少し離れた窓口の方へ向かう。


 オスカーは、そこで初めて紙片へ近づいた。


 薄い手袋をつける。


 紙片の位置、向き、床の埃の乱れを記録し、それから透明な保存袋へ滑り込ませた。


 その所作は、落とし物を拾うというより、証拠を扱う動きに近かった。


 リシアは、ようやく息を吐いた。


「今のは」


「止めてはいませんわね」


 ステファニアが先に言った。


「道を作っただけです」


 その言葉に、リシアは少しだけ笑いそうになった。


 水路番。


 確かに、そういう仕事なのだ。


     ◇


 窓口机の上に、保存袋へ入った紙片が置かれた。


 エレナはそれを見て、眉を寄せなかった。


 表情を動かさないまま、表示欄を一つ開く。


 未登録紙片。


 掲示偽装なし。


 本人誘導文あり。


 リシアは、その最後の一行を見た。


「本人誘導文」


「はい」


 エレナが答える。


「情報そのものより、添えられた言葉が問題です」


 紙片には、昨日届いた噂と同じ芯がある。


 帝国魔導騎装十騎。


 行動不能。


 帝国軍一部退却。


 けれど、紙片はそれを「撃破」と書いていた。


 さらに、連合王国が反撃を開始したと断定している。


 最後には、窓口が勝報を隠している、とある。


 リシアは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 悪い噂ではない。


 良い噂ですら、ない。


 良い噂を使った、別のものだ。


「この紙を、カイル様やミレイア様が見たら」


「まず、窓口への不信が生まれます」


 エレナの答えは速かった。


「次に、見せない理由を本人が探し始めます。最後に、確認前の情報を自分で追いたくなる」


「水路から出る」


「はい」


 ミリアが小さく頷いた。


「言葉が、本人の足を外へ向けています」


 ミリアの声は、昨日より少し低かった。


 怖がっているのではない。


 見ている。


 自分が見たいと言った、届く前に重くなる言葉を。


「分類名が要ります」


 ユリアが言った。


 記録欄の横に、いくつか候補が並ぶ。


 未確認情報。


 誘導文付き未確認情報。


 本人誘導文。


 窓口不信誘導。


「長いですね」


 エレナが少しだけ目を細めた。


「長くても、用途が分かる方がよいです」


 ユリアは譲らなかった。


「この紙は、情報ではなく、情報の扱い方への不信を運んでいます。通常の未確認情報と同じ箱に入れると、後で混ざります」


「混ざると」


「次に同じものが来た時、見落とします」


 リシアは、紙片を見た。


 紙は薄い。


 字も粗い。


 誰が書いたかは分からない。


 けれど、それは確かに水路へ投げ込まれた小石だった。


 小さくても、流れは乱れる。


「分類は、誘導文付き未確認情報」


 リシアは言った。


 エレナが顔を上げる。


「理由は」


「情報そのものの真偽とは別に、本人の行動を誘導する文が付いているからです。窓口不信誘導は、今回の内容には合いますが、次に違う形で来た時に狭すぎます」


 言ってから、リシアは少し驚いた。


 ステファニアが隣で、ほんの少しだけ微笑む気配がした。


 見ない。


 今、そちらを見ると何か言われる。


 リシアは表示欄を見続けた。


「採用します」


 エレナが記録する。


 誘導文付き未確認情報。


 分類が増えた。


 箱が増えた。


 水路が、また少し細かくなった。


     ◇


 昼前には、似た紙片が三枚見つかった。


 一枚は食堂前。


 一枚は東棟階段下。


 一枚は、カイルとミレイアの居室側廊下へ入る手前。


 三枚とも、同じ筆跡ではなかった。


 ただ、文の癖は似ていた。


 窓口は勝報を隠している。


 連合王国は反撃している。


 関係学生には知る権利がある。


 リシアは、三枚目の記録を見た時、思わず唇を結んだ。


 知る権利。


 その言葉は、綺麗だった。


 綺麗すぎるほどに。


「嫌な書き方ですわね」


 アリシアが、午後の貸与邸で紙片の写しを見ながら言った。


 扇子は閉じられている。


 机の上に置かれたままだった。


 その方が、かえって怖い。


「権利という言葉を、本人のためではなく、本人を動かすために使っています」


 ステファニアが言った。


「ええ」


 アリシアは頷く。


「正面から止めれば、窓口は隠していると言われます。放置すれば、本人へ届く。触れれば触れるほど、相手の望む形に近づく紙ですわ」


「作った人間は、分かってやっていますか」


 リシアが問う。


「分かっている者と、分かっていない者が混じっているでしょうね」


 アリシアの声は柔らかい。


 柔らかいまま、冷たい。


「最初に文を作った者は分かっています。写して撒いた者は、善意のつもりかもしれません」


「善意なら、厄介だな」


 アインが言った。


「はい」


 リシアは頷いた。


 悪意だけなら、まだ形が見える。


 善意をまとった誘導は、人の手を借りて広がる。


 紙を置いた学生を責めれば、その学生は自分の善意を否定されたと感じるかもしれない。


 責めなければ、次の紙が置かれる。


「どうしますか」


 クラウディアが問う。


 アインは少しだけ沈黙した。


「追う」


「紙を」


「文を」


 アインは写しを見た。


「誰が書いたかより先に、どこへ流すつもりだったかを見る」


「承知しました」


 クラウディアが頷く。


 リシアは、昨日の言葉を思い出した。


 敵か味方かより先に、何を止めたか。


 今日は、誰が書いたかより先に、どこへ流すつもりだったか。


 アインの見方は、いつも名の手前にある。


 行動。


 流れ。


 置かれた場所。


 それを先に見る。


「リシア」


 アインが言った。


「はい」


「本人には、知らせる」


 リシアは瞬きをした。


「紙片の内容を、ですか」


「違う。紙が出たことを」


 アインは短く答えた。


「隠されたと思わせる紙だ。隠すな」


 その言葉で、リシアは理解した。


 内容を渡すのではない。


 紙片という攻撃があったことを、関係者に隠さない。


 ただし、情報の中身はまだ渡さない。


 水路に石が投げられたことだけを、本人に知らせる。


 水の行き先を、本人と一緒に確認する。


「分かりました」


 リシアは答えた。


「表題だけでは足りませんね」


 ステファニアが言う。


「はい。ですが本文を見せる必要もありません」


 リシアは表示欄を開いた。


 短く。


 隠さず。


 揺らさず。


 どこまで書けばよいのか、まだ分からない。


 けれど、今は書くしかない。


     ◇


 夕方、カイルとミレイアへ共有された文は、昨日より短かった。


 未確認戦況情報を用いた紙片が学院内で確認された。


 紙片には、確認前の戦況好転情報と、窓口不信を促す文が含まれていた。


 本人へ本文提示は行わない。


 ただし、紙片の存在は隠さない。


 必要時は、窓口同席で説明を受けられる。


 カイルは、しばらく返事をしなかった。


 ミレイアも同じだった。


 リシアは隣室で、その沈黙を見ていた。


 沈黙にも、種類がある。


 逃げる沈黙。


 怒りを抑える沈黙。


 考える沈黙。


 今の二人の沈黙がどれなのか、リシアには分からない。


 ただ、急かさなかった。


 やがて、カイルの返答が出た。


 説明希望。


 窓口同席。


 本文不要。


 リシアは、手を止めた。


 次に、ミレイアの返答。


 同席希望。


 紙片の本文不要。


 紙片が置かれた場所のみ確認希望。


 リシアは、深く息を吐いた。


 見ない。


 けれど、起きたことは隠させない。


 二人は、そこを選んだ。


「水路を、信じたのではありません」


 背後で、エレナが言った。


 リシアは振り返る。


 エレナは表示を見ていた。


「自分で、使うことを選んだのだと思います」


 その言葉に、リシアは小さく頷いた。


 守られるだけではない。


 預けるだけでもない。


 水路を使って、自分の足場を守る。


 それは、昨日より一歩進んだ選択だった。


「明朝、同席説明を組みます」


 リシアは言った。


「紙片の本文は伏せます。置かれた場所、分類、窓口の対応だけを説明します」


「承知しました」


 エレナが記録する。


 ミリアは返答文の欄を開き、ユリアは説明項目を三つに分ける。


 オスカーは、廊下図面の上に紙片発見位置を置いた。


 三つの点が、細い線で繋がる。


 食堂前。


 東棟階段下。


 居室側廊下手前。


 偶然ではない。


 誰かが、流れを見ている。


 だから、こちらも見る。


 リシアは、その線を見つめた。


 良い知らせにも、置き場所がいる。


 そして、良い知らせに付いた手にも、形がある。


 水路は、もう流れてくるものだけを受ける場所ではなくなっていた。


 どこから投げ込まれたのか。


 誰を岸から引きずり出そうとしているのか。


 それを見つけるための場所に、変わり始めている。


「では」


 リシアは表示欄を閉じた。


「明日の分を作りましょう」


 その言葉を口にした瞬間、エレナが少しだけ目を見開いた。


 ミリアが小さく笑う。


 ユリアは何も言わず、項目を一つ追加した。


 誘導文付き未確認情報。


 発見位置。


 本人誘導先。


 窓口不信誘導の有無。


 分類は、もう箱ではなかった。


 次に流れてくる水の形を、先に見るための目になっていた。


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