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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第九十八夜 良い知らせの置き場所

第九十八夜 良い知らせの置き場所


 翌朝の学院長府確認窓口は、昨日より静かだった。


 静かに見えた、と言うべきかもしれない。


 廊下に人だかりはない。


 関係学生の居室側廊下には、清掃予定区域を示す札が立っている。


 その札の前で足を止めた学生は何人かいたが、清掃用具を抱えた学院職員に目を向けられると、何も言わずに進路を変えた。


 見張られているわけではない。


 通る理由が、ない。


 立ち止まる理由も、ない。


 オスカー様の案は、朝になってすぐ効果を出していた。


 リシアは、廊下の端からその様子を見ていた。


 首元の装身型拡張視覚端末には、薄い表示が浮かんでいる。


 有時情報管制レベル三。


 昨夜より、文字の縁が少しだけ硬く見えた。


 別に、文字が変わったわけではない。


 変わったのは、こちらの受け取り方だ。


 戦場は遠い。


 けれど、遠い戦場の影が、学院の廊下に清掃予定区域という形で置かれている。


 そう思うと、平らな石床まで少し違って見えた。


「おはようございます、リシア様」


 エレナが窓口奥から顔を上げた。


 机の上には、札が並んでいる。


 一般照会。


 応援物品。


 伝言希望。


 未確認情報。


 本人確認要。


 保留。


 昨日より、札の間隔が整っていた。


 隙間がある。


 それだけで、紙束が水路の中に収まっているように見えた。


「おはようございます。状況は」


「昨夜から早朝までの追加分です」


 エレナが表示を出す。


 円卓上ではなく、窓口机の上に低く浮く形だった。


 周囲の学生には見えない。


 リシアと、エレナと、同席許可を受けた水路番だけに見える。


 ミリアは返答草案の席にいる。


 ユリアは記録形式の札の横。


 オスカーは、扉から少し離れた壁際に立っていた。


 座る席は用意されているのに、彼は立っている。


 理由を聞くまでもない。


 そこが、彼の仕事の場所なのだ。


「一般照会は減りました」


 エレナが言った。


「掲示と昨日の説明会の効果でしょう。応援物品は増えています。宗教性を持つものは別箱へ。伝言希望は、昨夜の定型文を受けて短くなりました」


「未確認情報は」


 リシアが問う。


 エレナの指が止まった。


 わずか一拍。


 それだけで、リシアは胸の奥が重くなるのを感じた。


「増えています」


 表示欄が切り替わる。


 未確認情報。


 その下に、いくつもの表題が並んだ。


 帝国東方軍、連合王国国境で前進。


 連合王国首長領二カ所、連絡途絶。


 魔導騎装五十機投入の噂、出所不明。


 東方街道筋、避難民発生の可能性。


 そして。


 帝国魔導騎装十騎、謎の攻撃により行動不能、帝国軍一部退却との噂。


 リシアは、その行を見た。


 文字だけを見れば、良い知らせのように見える。


 帝国の魔導騎装が止まった。


 十騎。


 退却。


 誰かが聞けば、喜ぶかもしれない。


 カイル様なら、すぐに身を乗り出すかもしれない。


 ミレイア様なら、喜ぶ前に出所を問うだろう。


 けれど、それでも。


 希望に見えるものは、時に不安より深く人を揺らす。


「出所は」


「三つ」


 エレナが答える。


「王都商人筋。東方街道を通る荷馬車の聞き取り。傭兵筋の伝聞。三つとも細部は一致しません。ただ、『十騎』『謎の攻撃』『行動不能』『一部退却』だけは一致しています」


「攻撃者は」


「不明です」


「連合王国側の反撃かどうかは」


「不明です」


「帝国軍の自壊、事故、魔導騎装の不具合の可能性は」


「排除できません」


 リシアは、息を吐いた。


 良い知らせに見える。


 けれど、中身は何も確定していない。


 誰が止めたのか分からない。


 どこで止まったのか分からない。


 本当に十騎なのかも分からない。


 退却したのが一部なのか、部隊全体なのかも分からない。


 それでも、言葉だけは軽く広がる。


 帝国が退いたらしい。


 助かったかもしれない。


 勝てるかもしれない。


 そういう言葉は、悪意より速く走る。


「本人提示は」


 リシアは問う。


「保留案です」


 エレナは即答した。


 迷いはなかった。


「理由は」


「良い知らせに見えるためです」


 その答えに、リシアは少しだけ目を見開いた。


 エレナは続ける。


「悪い未確認情報は、危険だと分かりやすい。けれど、良い未確認情報は、本人が信じたい形をしている分だけ危険です。特に、現時点で家族や氏族の安否が不明な方には」


「希望を渡すことが、負荷になる」


「はい」


 エレナは表示欄の一つを開いた。


 本人非提示候補理由。


 そこには、まだ草案と書かれている。


「帝国魔導騎装一部行動不能および退却の噂は、複数経路で確認されているが、攻撃者、地点、時刻、対象部隊、退却範囲が未確認である。良い知らせに見える未確認情報であり、本人へ提示した場合、過度な期待、誤認、後続悪報時の負荷増大を招く可能性がある」


 リシアは、黙って読んだ。


 硬い。


 けれど、必要な硬さだった。


「ユリア様」


 エレナが呼ぶ。


 ユリアは、表示欄の端を見ていた。


「理由欄に足りないものはありますか」


「再確認条件です」


 ユリアは答えた。


「悪い情報と同じ扱いで、時間だけを置くと、良い噂は外部から本人へ届く可能性があります。保留にするなら、次に何が揃えば提示候補へ移すのかを書いた方がよいです」


「条件は」


「最低二つ」


 ユリアは少し考える。


「地点と時刻。もう一つ加えるなら、退却範囲です。十騎が行動不能になったという数だけではなく、どの作戦行動へ影響したかが必要です」


 エレナが記録する。


 地点。


 時刻。


 退却範囲。


 その三つが、保留解除条件として欄に入った。


「ミリア様」


 今度はミリアが顔を上げる。


「外から本人へこの噂が届いた場合の返答草案を」


「……本人が先に聞いてしまった場合、ですか」


「はい」


「難しいです」


 ミリアは正直に言った。


 それから、自分の表示欄を見つめる。


 少しの間、誰も急かさなかった。


「まず、否定しない方がよいと思います」


 ミリアは言った。


「『その情報は誤りです』と言うと、こちらが何か確定情報を持っているように見えます。けれど『本当です』とも言えません」


「では」


「『同じ趣旨の未確認情報は窓口にも届いています。現在、地点、時刻、退却範囲を確認中です。本人が個別に確認する必要はありません』」


 言葉が、ゆっくり整っていく。


「それから……」


 ミリアは唇を結ぶ。


「『良い知らせに見えるものほど、確認が終わるまで窓口で預かります』」


 エレナの指が止まった。


 リシアも、その文を見た。


 良い知らせに見えるものほど。


 それは、少し痛い言葉だった。


 けれど、痛いからこそ足場になる。


「採用します」


 エレナが言った。


 ミリアは、小さく息を吐く。


 自分の言葉が誰かへ届く前に、どこで重くなるのか。


 彼女は本当に、それを見ようとしている。


     ◇


 アークライト側の確認は、貸与邸で行われた。


 クラウディアは、表示を一つだけ開いた。


 帝国魔導騎装十騎行動不能。


 謎の攻撃。


 帝国軍一部退却。


 その下に、アークライト作戦記録照合、と出る。


 該当なし。


 リシアは、その四文字を見た。


 該当なし。


 つまり、アークライトの作戦ではない。


 アインも、クラウディアも、アリシアも、驚いた顔はしていない。


 けれど、何も感じていないわけではない。


 クラウディアの指が、一度止まった。


「アークライト側作戦記録に該当なし。ベルン商会支店経由の報告にも、該当作戦なし」


「第三勢力か」


 アインが言った。


「可能性はあります」


「帝国の事故は」


「あります。ですが、複数経路で『攻撃』という語が出ています」


「連合王国側の秘匿戦力」


「不明です」


 クラウディアは短く答える。


「十騎を同時に止められる力があったのなら、今まで表に出なかった理由もありますわね」


 アリシアの声は、静かだった。


 不明。


 また、その言葉だった。


 リシアは、昨夜の封書を思い出した。


 未確認。


 不明。


 保留。


 言葉としては弱く見える。


 けれど、それらをきちんと置けることが、今は強さなのだ。


「希望材料ではありますわね」


 アリシアが言った。


 扇子は開かれている。


 けれど、口元は隠していない。


「ただし、希望材料と希望は違います」


「はい」


 リシアは頷いた。


「本人へ渡すなら、希望ではなく材料として渡す必要があります」


「よろしい」


 アリシアは微笑んだ。


 その微笑みに、リシアは昨日ほど身構えなかった。


 怖いというより、答え合わせをされている気分だった。


「クラウ」


 アインが言った。


「はい」


「この情報は追え」


「既に、ベルン商会、先行特務艦の地表観測班、帝都支店残置連絡網へ照会準備を出しています」


「ならいい」


 アインは表示を見たまま言った。


「帝国を止めるものがいるなら、敵か味方かより先に、何を止めたかを見ろ」


「承知しました」


 クラウディアが頷く。


 リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 誰が。


 ではなく。


 何を。


 何を止めたのか。


 それを先に見る。


 人はすぐ、名を探す。


 味方か敵かを探す。


 けれど、名が分からなくても、起きたことはある。


 帝国魔導騎装十騎が止まった。


 その噂が、今、学院へ流れ込んでいる。


 水路は、その水も受けなければならない。


     ◇


 昼前、学院長府確認窓口に新しい掲示が出た。


 東方情勢に関する未確認情報の追加取扱いについて。


 そこには、戦況好転を示すように見える情報についても、本人へ直接伝えず、学院長府確認窓口へ預けること、と書かれていた。


 良い知らせと思われる情報であっても、出所、時刻、地点、影響範囲が確認されるまでは、関係学生本人へ直接届けないこと。


 関係学生本人が既に当該情報を耳にした場合も、本人へ追加確認を求めず、窓口へ届け出ること。


 リシアは、その掲示を見上げた。


 昨日までなら、悪い噂を止めるための掲示に見えただろう。


 けれど今は違う。


 良い噂も、人を押す。


 希望も、人を引きずり出すことがある。


 それを、学院の白い廊下に貼り出している。


「また、難しい掲示になりましたね」


 ステファニアが隣で言った。


「はい」


 リシアは頷く。


「ですが、必要です」


「良い知らせまで預かるのですもの。反発する方も出ますわ」


「出ると思います」


 リシアは、掲示から目を離さなかった。


「でも、良い知らせを渡す側は、自分が人を傷つけるとは思いません」


「ええ」


「だからこそ、先に書いておかなければならないのでしょう」


 ステファニアは、少しだけ微笑んだ。


「随分と、窓口側のお顔になりましたわね」


「……そうでしょうか」


「少なくとも、昨日よりは」


 リシアは、頬が少し熱くなるのを感じた。


 褒められたのか、からかわれたのか、少し分からない。


 たぶん、両方だ。


 そう思って、口を閉じた。


 掲示の前で、一人の学生が足を止めた。


 彼は文面を読み、眉をひそめる。


「良い知らせくらい、本人に教えてやればいいのに」


 小さな声だった。


 けれど、リシアには聞こえた。


 ステファニアにも。


 そして、少し離れた場所に立っていたオスカーにも。


 オスカーは近づかなかった。


 ただ、その学生の名札を一度見て、窓口側の記録欄へ短く何かを送った。


 接触なし。


 発言記録のみ。


 過剰反応なし。


 リシアの視界にも、その三行が共有される。


 止めないことも、仕事なのだ。


 学生は、もう一度掲示を見てから歩き去った。


 リシアは、息を吐いた。


 水路は、まだ細い。


 けれど、流れを止めるだけではなく、流しすぎないことも覚え始めている。


     ◇


 夕方の定時要約で、カイルとミレイアには、表題だけが示された。


 帝国魔導騎装一部行動不能に関する未確認情報。


 地点、時刻、退却範囲確認中。


 本人確認:保留可。


 カイルは、その表題を見たまま動かなかった。


 ミレイアも黙っている。


 リシアは同席していない。


 隣室で、受領状況だけを見ていた。


 しばらくして、カイルの選択が表示された。


 保留。


 リシアは、思わず目を閉じた。


 次に、ミレイアの選択。


 保留。


 それに続いて、短い付記が出た。


 明朝、確認条件の更新のみ希望。


 本文不要。


 リシアは、胸の中で何かがほどけるのを感じた。


 良い知らせに見えるものを、見ないでおく。


 それは、悪い知らせを避けることより難しいかもしれない。


 けれど、二人は選んだ。


 水路は、本人たちにも届き始めている。


「保たせたな」


 背後で、アインが言った。


 リシアは振り返る。


 アインは、表示を見ていた。


 それだけだった。


 けれど、リシアには、その短い言葉が昨日の問いの続きだと分かった。


 水路は、まだ保つか。


 保たせます。


 そして今日、ほんの少しだけ保たせた。


「はい」


 リシアは答えた。


「今日の分は」


「なら、明日の分を作れ」


「はい」


 短い。


 けれど、今はそれで十分だった。


 リシアは表示に戻る。


 未確認情報の一覧には、まだいくつもの表題が残っている。


 悪い知らせ。


 良い知らせに見えるもの。


 どちらとも分からないもの。


 それらが、水のように流れてくる。


 リシアは、その一つずつに目を向けた。


 良い知らせにも、置き場所がいる。


 そうでなければ、希望でさえ、人を流してしまう。


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