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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第九十七夜 封蝋の重さ

第九十七夜 封蝋の重さ


 貸与邸へ戻るまでの道は、短かった。


 短いはずだった。


 けれど、リシアには、その門までの数十歩が、ひどく長く感じられた。


 手の中にある封書が重い。


 王国外務局の封蝋。


 東方情勢に関する、照会控え。


 文字としては、それだけだった。


 けれど、その封蝋の向こうに、誰かの国境がある。


 誰かの家がある。


 カイル様の父君がいるかもしれない。


 ミレイア様の氏族領があるかもしれない。


 そう思うと、指先に力が入った。


「開けるな」


 アインが言った。


 リシアは、反射的に足を止めた。


「はい」


 返事をしてから、自分がまだ封を切ろうとしていなかったことに気づく。


 それでも、アインはそう言った。


 封書を持っている人間の手は、無意識に動く。


 知りたいと思えば、もっと動く。


 それを、先に止められたのだ。


「封を切る場所を決めます」


 クラウディアの文字が、視界の端へ浮かんだ。


 管制レベル確認。


 続いて、別の短文が重なる。


 開封場所:貸与邸小会議室。


 開封者:学院長府記録官。


 閲覧範囲:段階指定。


 本人学生への提示:要約後。


 その四行は、リシアの視界だけではなかった。


 アインの視線の先にも。


 ステファニアの前にも。


 アリシアの扇子の少し上にも。


 同じ位置に、同じ文字が浮かんでいるように見えた。


 けれど、おそらく見えている細部は違う。


 リシアは、それをもう知っている。


 同じ場にいても、同じものを見ているとは限らない。


 そして、それは不公平ではなく、役割なのだ。


     ◇


 小会議室の中央に、浅い盆が置かれた。


 封書は、その上に載せられている。


 誰かの手から誰かの手へ渡さない。


 途中で個人のものにしない。


 ただ、場へ置く。


 ラウル教官は、学院長府の記録官を伴って入室した。


 エレナも一緒だった。


 彼女の首元には、研修用の装身型拡張視覚端末がある。


 以前より、光の揺れが少ない。


 慣れたのだろうか。


 それとも、驚きを外へ出す前に、記録の置き場所を探す癖がついたのかもしれない。


 リシアは、少しだけそう思った。


「王国外務局より、学院長府へ転送された照会控えです」


 ラウル教官が言った。


「正式照会ではありません。控えです。照会先、照会予定、照会理由を学院長府へ事前共有するためのものです」


「つまり、まだ返答義務はない」


 アインが言った。


「はい」


 ラウル教官は頷く。


「ただし、関係学生に影響が出る可能性があります。学院長府としては、関係者保護のため、先にファーランド側助言者へ共有する判断をしました」


「妥当です」


 クラウディアが答えた。


 声は平坦だった。


 けれど、リシアには、その平坦さがいつもより少し硬く聞こえた。


「開封記録を取ります」


 学院長府の記録官が言った。


 エレナが一歩下がり、表示板を出す。


 円卓の中央、盆の上から三十センチほどの高さに、透明な文面欄が浮かんだ。


 文字は、誰から見ても正面に見える。


 同じ位置にあるのに、見る者の側へ静かに向きを変えている。


 不思議な光景だった。


 けれど、今は驚くためのものではない。


 そこには、開封時刻、開封場所、開封者、同席者、閲覧範囲、転記可否の欄が並んでいた。


 エレナは、それを一つずつ確認していく。


「関係学生本人は、同席しません」


「理由は」


 ラウル教官が問う。


「照会控えには、本人が現時点で見る必要のない戦況推定、氏族名、地名、被害未確認情報が含まれる可能性があります。本人の保護と、未確認情報の拡散防止のためです」


「よろしい」


 ラウル教官は記録官へ目を向けた。


 記録官が封蝋の状態を確認する。


「外務局封蝋、破損なし。学院長府受領印、あり。転送記録、照合済み」


 小さな刃が封蝋の縁へ入る。


 リシアは、思わず息を止めた。


 紙が開かれる音は、とても小さかった。


 けれど、その音だけが、部屋の中で妙にはっきり聞こえた。


     ◇


 最初に表示されたのは、本文ではなかった。


 表題。


 差出部署。


 照会予定先および共有先。


 添付分類。


 その四つだけだった。


「本文非表示」


 クラウディアが言った。


「まず分類を確認します」


 表示欄に、表題が浮かぶ。


 東方国境情勢に関する王国外務局照会控え。


 照会予定先。


 獣人諸氏族連合王国駐在連絡使節団。


 王国東方辺境監察局。


 学院長府。


 ファーランド大公家連絡窓口。


 リシアは、その最後の行で指先が冷えるのを感じた。


 ファーランド大公家連絡窓口。


 自分の家の名前が、そこにある。


 遠い国境の火が、書類の上でこちらへ枝を伸ばしている。


「本文を開く前に、添付分類を」


 クラウディアが続ける。


 記録官が頷き、封書の中から薄い紙を三枚取り出した。


 表示欄に、分類だけが映る。


 一、国境線付近における交戦報告の照会。


 二、魔導騎装投入情報の真偽確認。


 三、連合王国出身学生への学院内接触増加に関する照会。


 部屋の空気が変わった。


 三枚目。


 戦場ではなく、学院内。


 つまり、この部屋で作っていた水路そのものが、すでに外務局の照会対象になっている。


「早いですわね」


 アリシアが、静かに言った。


 扇子は閉じられている。


 閉じたまま、卓上に置かれていた。


「早い、というより」


 ステファニアが少し間を置く。


「こちらの動きが、外からも見えているということですわ」


「見えるように掲示しましたから」


 エレナが答えた。


 声は落ち着いていた。


 けれど、彼女の指は表示板の縁で一度だけ止まった。


「ただし、掲示したのは窓口の存在であって、本人情報ではありません」


「その通りです」


 クラウディアが言った。


「ここから先は、外務局が何を見たいのかを分けます」


 見たい。


 その言葉が、昨日とは別の重さで部屋に落ちた。


     ◇


 本文は、三段階に分けて開かれた。


 第一段階は、学院長府、ファーランド側助言者、アークライト管制の共有範囲。


 第二段階は、学院長府記録官とラウル教官、エレナが扱う窓口処理範囲。


 第三段階は、関係学生本人へ要約提示できる範囲。


 アインは、最初から最後まで黙っていた。


 読んでいないのではない。


 必要なところだけを見ている。


 リシアには、そう見えた。


 本文の一部が開かれる。


 国境線付近において、グランカーン帝国東方軍と見られる部隊の移動を確認。


 複数の独立情報源が、魔導騎装らしき大型戦力の投入を示す。


 獣人諸氏族連合王国側の首長領二カ所から、連絡途絶または遅延の報告。


 ただし、被害規模、占領状況、氏族長の安否は未確認。


 リシアは、息を吸うことを忘れそうになった。


 未確認。


 その文字が、これほど重く見えたことはない。


 分からないということは、軽いことではない。


 分からないから、人は最悪を想像する。


 そして、その最悪を、本人へ投げつけてしまう。


「カイル様とミレイア様には」


 リシアは口を開いた。


 自分の声が、思ったより小さかった。


「見せられません」


 誰も、すぐには答えなかった。


 けれど、否定もなかった。


「全部は」


 アインが言った。


「はい。全部は、です」


 リシアは頷く。


「ただ、何も知らせないのも違います。すでに外務局照会控えが届いたこと、国境情勢について学院長府と外務局が確認を進めていること、本人へ直接照会を行わない方針は継続されること。それだけは、先に伝えるべきです」


 言いながら、胸の奥が少し震えた。


 自分は今、カイル様とミレイア様に何を見せないかを選んでいる。


 守るために。


 けれど、見せないこともまた、力を持つ。


 隠すことと、預かることは違う。


 違うはずだ。


 違うものにしなければならない。


「理由を残してください」


 エレナが言った。


 リシアは顔を上げる。


 エレナは、表示欄の一つを指していた。


 本人非提示理由。


 空欄だった。


「見せない判断そのものを記録します。誰が、なぜ、どこまでを、いつ再確認するか。そこを空欄にすると、後で隠したことになります」


「……そうですね」


 リシアは頷いた。


 昨日なら、そこまで考えられただろうか。


 たぶん、考えたつもりにはなった。


 けれど、今ほどはっきり、空欄の怖さを感じられなかった。


「本人非提示理由」


 リシアは、ゆっくり言葉にした。


「国境交戦、連絡途絶、安否未確認を含むため。本人へ未確認被害情報を直接提示することは、保護ではなく負荷となる可能性が高い。学院長府、ファーランド側助言者、アークライト管制で要約を作成し、本人には確認中であること、直接接触制限を継続すること、希望すれば朝の定時要約で表題のみ選択できることを伝える」


 エレナの指が動く。


 表示欄に、リシアの言葉が整えられていく。


 少し硬い。


 けれど、空欄ではない。


「判断者」


 エレナが問う。


 リシアは、一瞬だけ迷った。


 ファーランド公女。


 助言者。


 当事者ではない者。


 どの名を置くべきか。


「リシア・ファーランド」


 アインが言った。


 リシアは、そちらを見る。


「肩書ではなく、名で置け」


「……はい」


 胸の震えが、少しだけ別のものに変わった。


 怖さは消えない。


 けれど、自分の名前なら、逃げにくい。


 逃げにくい方が、今はよいのだと思った。


     ◇


 水路番たちが呼ばれたのは、その後だった。


 ミリア、ユリア、オスカー。


 三人は、小会議室の隣室に入れられた。


 本文は見えない。


 国境名も、氏族名も、被害推定も見えない。


 見えるのは、処理区分だけだった。


 ミリアの前には、本人向け短文候補の欄。


 ユリアの前には、非提示理由、再確認時刻、判断者欄。


 オスカーの前には、明朝までの接触制限導線と、廊下配置案。


 三人は、同じ卓を見ている。


 けれど、同じ情報を見ていない。


「これは、実際の情報ですか」


 ミリアが聞いた。


 声が少し低い。


「はい」


 エレナが答える。


「ただし、あなたが扱うのは本文ではありません。本人へ渡す言葉が、本人を引きずり出さない形になっているかの確認です」


 ミリアは頷いた。


 表示された短文案を読む。


 東方情勢について、王国外務局経由の照会控えが学院長府へ届きました。


 学院長府、ファーランド側助言者、関係窓口で確認中です。


 現時点で、あなた方が個別に返答する必要はありません。


 直接の照会、伝言、確認は、引き続き学院長府確認窓口を通してください。


 希望する場合、明朝の定時要約で、表題のみ確認できます。


 ミリアは、唇を結んだ。


「重いです」


「どこが」


 ラウル教官が問う。


「最初の一文です。『照会控えが届きました』だけで、何か大きなものが来たと分かります。ですが、それ以上伏せるなら、次の行で足場が必要です」


「足場」


「はい。『現時点で、学院内での対応方針は変わりません』を入れた方がよいと思います。何が変わったのかではなく、何が変わらないのかを先に置いた方が、読み手が崩れにくいです」


 エレナが、短文案の二行目を空ける。


 現時点で、学院内での対応方針は変わりません。


 その一文が入っただけで、文面の重心が少し下がった。


「採用」


 アインが言った。


 ミリアの肩が、小さく跳ねた。


 褒められたというより、仕事が通ったことに驚いた顔だった。


 ユリアは、自分の欄を見ていた。


「再確認時刻が必要です」


「入っています」


 エレナが答える。


「明朝です」


「その前に外務局から追加連絡が来た場合の扱いがありません。明朝までに追加があった場合、誰が本人提示範囲を再判定するかを空欄にすると、夜間の判断者が曖昧になります」


 ラウル教官が、わずかに目を細めた。


「提案は」


「夜間追加連絡は、学院長府当直記録官が受領のみ行い、本人提示範囲の再判定は行わない。緊急性が高い場合は、学院長府責任者、ファーランド側助言者、アークライト管制の三者確認へ回す。そう書くべきです」


 静かな声だった。


 けれど、内容は鋭い。


 エレナがユリアを見た。


「記録形式補助として、採用します」


 ユリアは、ほっとした顔をしなかった。


 ただ、頷いた。


 オスカーは、廊下配置案を見ていた。


「朝までに噂が出ます」


 言い方は、断定だった。


「封書が走ったのを見た者がいる。貸与邸へ学院長府職員が走ったのも見られている。明朝までに、関係学生の部屋の前に人が集まる可能性があります」


「対処は」


「見張るのではなく、通路を使わせない方が早いです。朝の授業開始前まで、関係学生の居室側廊下を清掃予定区域にします。通る理由をなくす。立ち止まる理由もなくす」


 ラウル教官が、少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


「君は応募していないのに、よく働く」


「仕事なので」


 オスカーは真顔だった。


 アリシアが、扇子を開いた。


 ぱちり、という音が、小さく響く。


「水路番とは、なかなか忙しいお役目ですわね」


 その声音は柔らかい。


 柔らかいのに、リシアは背筋を伸ばした。


 怖い、とは思わなかった。


 ただ、よく見られている、と思った。


     ◇


 カイルとミレイアへ文面を届けたのは、夜が深くなってからだった。


 直接ではない。


 学院長府確認窓口を通し、本人確認用の定型文として渡す。


 リシアは同席しなかった。


 同席したかった。


 顔を見て、大丈夫ですと言いたかった。


 けれど、大丈夫かどうか分からない時に大丈夫と言うことは、慰めではなく、押しつけになる。


 だから、リシアは隣室で待った。


 ステファニアが隣にいる。


 セラは扉近くに立っている。


 アリシアは、いつものように優雅に座っていた。


 アインは窓際に立っている。


 クラウディアは表示を見ていた。


 しばらくして、受領確認だけが共有された。


 カイル・ルーヴァ:受領。


 ミレイア・セイレン:受領。


 返答義務なしを確認。


 明朝定時要約で表題確認希望。


 リシアは、息を吐いた。


 安堵ではない。


 まだ、何も解決していない。


 それでも、今夜、二人の部屋の前に重い紙束が置かれることはなかった。


 それだけは、守れた。


「泣きませんのね」


 アリシアが言った。


 リシアは、少し驚いてそちらを見る。


「泣く話では、ありませんから」


「ええ」


 アリシアは微笑んだ。


「泣くなら、あとでよろしいのです。今は、置き場所を間違えないことの方が大切ですわ」


「……はい」


 リシアは頷いた。


 その言葉が、少し胸に残った。


 泣かないのではない。


 今は、置き場所が違う。


 そう思うと、息が少しだけしやすくなった。


「クラウ」


 アインが言った。


「はい」


「管制レベルは」


「現状維持。学院内は二相当。ただし、外務局照会控えに魔導騎装投入情報が含まれるため、アークライト側は三へ上げる準備に入ります」


「上げろ」


「承知しました」


 クラウディアの指が動く。


 表示欄の端に、短い文字が走った。


 有時情報管制レベル三準備。


 関係者位置確認。


 外部接触者端末同期。


 学院長府窓口夜間監視。


 リシアの首元で、装身型拡張視覚端末がかすかに熱を持った。


 痛みではない。


 ただ、そこにあることを思い出させる程度の熱。


 遠い戦場の火が、首飾りの小さな光へ変わって届いている。


 そう思った瞬間、リシアは少しだけ怖くなった。


 けれど、端末の表示は静かだった。


 必要なものだけが見える。


 見なくてよいものは、まだ見えない。


「水路は」


 アインが言った。


「まだ保つか」


 リシアは、少し考えた。


 保つ、と言い切るのは簡単だった。


 保たない、と怯えるのも簡単だった。


 けれど、そのどちらも違う気がした。


「保たせます」


 リシアは答えた。


 アインが、こちらを見る。


「今夜作ったものだけでは足りません。明日、また直す必要があります。でも」


 リシアは、表示欄に残る二つの受領確認を見た。


「今夜は、流されずに済みました」


「なら、いい」


 アインは言った。


 その短さが、今はありがたかった。


 褒める言葉ではない。


 慰めでもない。


 ただ、今夜の判断を、それでよいと置いてくれた。


 小会議室の外で、夜の廊下が静かに続いている。


 その先に、カイルとミレイアの部屋がある。


 さらに遠くに、東方の国境がある。


 その距離は、地図で見れば遠い。


 けれど、封蝋ひとつで届いてしまうほどには近い。


 リシアは、盆の上に置かれた開封済みの封書を見た。


 重さは、少しも減っていない。


 ただ、その重さを直接誰かの胸へ落とさないための手が、今夜、いくつか増えた。


 水路番。


 その名が、まだ新しい。


 新しいから、きっと何度も直す。


 何度も崩れかける。


 それでも。


 重い水は、もう流れ始めている。


 ならば、流す場所を間違えてはいけない。


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