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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第九十六夜 水路番

第九十六夜 水路番


 人を増やす口実ができましたわね。


 昨日、アリシアはそう言った。


 その言葉は、翌朝にはもう形になっていた。


 学院長府の小会議室に、昨日より一つ多く机が置かれている。


 椅子も増えた。


 分類札も増えた。


 そして、扉の脇には新しい札が掛けられていた。


 東方情勢確認窓口補助者説明会。


 リシアは、その札を見て足を止めた。


「説明会、ですか」


「はい」


 エレナが答えた。


 彼女は昨日より早く来ていたらしい。


 机の上には、受付補助、分類確認、保管、返答草案、列整理という札が並んでいる。


 その並びには、昨夜のうちにかなり手が入ったのだろう。


 文字の間隔が揃っている。


 札の色も違う。


 誰がどの席に座るべきか、見ただけで分かるようになっていた。


「昨日の処理案を、学院長府職員の方々と確認しました。ファーランド側からは補助に入る人員を出せますが、学院長府の処理権限と混ざらないよう、作業範囲を分けます」


「もう、そこまで」


「アイン様の指摘は、今日まで待つ内容ではありませんでしたので」


 エレナは淡々と答えた。


 言い方は静かだった。


 けれど、昨日の疲れは隠しきれていない。


 目元に、薄い影がある。


 リシアは、それを見た。


 見るだけで、口にはしなかった。


 言えば、エレナはきっと「問題ありません」と答える。


 問題があるかどうかではなく、続くかどうか。


 昨日のアインの言葉は、リシアにも残っていた。


「休憩交代要員は」


 ステファニアが言った。


「別札にしています」


 エレナが一枚を示す。


 休憩確認。


 そこには、他の札より太い線が引かれていた。


「分類担当者は、自分で休む判断を後回しにします。そのため、本人ではなく外から止める係が必要です」


「よろしい」


 アリシアが扇を閉じた。


 ぱちり、と乾いた音が鳴る。


「働かせるために人を増やすのではありません。壊さず働かせるために増やしますの」


「はい」


 エレナは頷いた。


 今度の頷きは、昨日より少し柔らかかった。


     ◇


 説明会に来た学生は、予想より多かった。


 学院長府が出した掲示は、短いものだった。


 東方情勢確認窓口の補助者を若干名募集する。


 補助範囲は、受付整理、列整理、物品保管補助、返答草案補助に限る。


 未確認情報本文、本人宛て伝言本文、個人情報に接する作業は、学院長府の許可を受けた者に限る。


 関係学生本人への接触を目的とする応募は認めない。


 その最後の一文が効いたのか、それとも逆に気になったのか。


 小会議室の前には、十五名ほどの学生が並んでいた。


 ミリア・セルヴィンがいた。


 ユリア・ノートンもいる。


 少し離れた場所には、オスカー・ベルトランが立っていた。


 彼は列には並んでいない。


 扉の横で、周囲の動きを見ている。


 本人が補助者として来たのか、列が乱れないように立っているのか、分かりにくい。


 ただ、彼がそこにいるだけで、廊下の声は少し低くなっていた。


「多いですね」


 リシアが呟くと、アリシアが微笑んだ。


「善意は、多いものですわ」


「よいことでは」


「よいことです」


 アリシアは答えた。


「ですから、扱いを間違えると怖いのです」


 小会議室の中で、ラウル教官が説明を始めた。


「補助者は、関係学生の事情を知るために置くものではない」


 最初の一文で、部屋は静かになった。


「助けたい者ほど、先に覚えろ。助けるとは、相手に近づくことではない。相手へ届く前に、自分の手を止めることでもある」


 リシアは、エレナを見た。


 エレナは記録板を持っている。


 けれど、顔は上げていた。


 今の言葉を写すためではなく、応募者たちがどう受け取るかを見るためだ。


「では、最初の確認だ」


 ラウル教官は、応募者たちを見渡した。


「この窓口で、あなたが見たいものは何か」


 問いは、柔らかくなかった。


 ミリアが瞬きをする。


 ユリアは、記録板へ手を置いたまま止まった。


 後ろの方で、男子学生が一人、肩を揺らした。


「答えに困る者は困れ」


 ラウル教官は続けた。


「困らない者の方が危ない」


 その男子学生が、先に手を上げた。


「自分は、少しでも役に立ちたいと思って」


「何を見たい」


 ラウル教官が重ねる。


「いえ、ですから」


「問いを変えるな」


 男子学生は口を閉じた。


 リシアは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 昨日、カイルへ遠回しに聞こうとした学生とは別人だ。


 けれど、似た温度がある。


 悪意ではない。


 自分の善意を、早く認めてもらいたい温度。


「……未確認情報が、どのくらい本当なのかを」


 男子学生が言った。


「見たいのか」


「はい」


「不採用だ」


 即答だった。


 男子学生の顔が赤くなる。


「ですが」


「見たい者は、見せる側へ入れない」


 共有表示に、短い文字が浮かんだ。


 アインだった。


 部屋の中にいた何人かが、息を呑む。


 男子学生も、表示を見た。


 アインの声は続かない。


 ただ、その一文だけで足りた。


「補足します」


 クラウディアの声が入った。


「見たいという欲求そのものは否定しません。ですが、本人保護窓口の補助者には適しません。未確認情報を知りたい場合は、一般照会として学院長府確認窓口へ提出してください」


「……分かりました」


 男子学生は、椅子から立ち上がった。


 悔しそうだった。


 けれど、怒鳴らなかった。


 そのまま退室する。


 オスカーが扉の横で、短く頭を下げた。


 退室する者を責める仕草ではない。


 出ていく場所を作る仕草だった。


「次」


 ラウル教官が言った。


 ミリアが手を上げた。


「私は、見たいものがあります」


 部屋の空気が、少し変わった。


「言え」


「どの言葉が、相手に届く前に重くなるのかを見たいです」


 ミリアの声は震えていなかった。


「私には、まだ分からないことが多いです。だから、本文ではなく、止められた言葉の形を見たいです」


 ラウル教官は、黙って聞いていた。


「関係学生本人の情報は見ません。未確認情報の中身も見ません。けれど、どんな書き方が窓口で止められるのかを知れば、自分が誰かへ言葉を向ける時に、同じことをしにくくなると思います」


 リシアは、ミリアを見た。


 あの言葉は、助けたいというより、学びたいに近い。


 だが、ただの好奇心でもない。


 自分の言葉が誰かを傷つけるかもしれない、と知った後の、慎重な学び方だった。


「エレナ」


 ラウル教官が言った。


「判断しろ」


 エレナは少し考えた。


「採用候補です。ただし、未確認情報本文、本人宛て伝言本文、送り主個人名には触れない。返答草案補助のうち、定型文の比較と、差し戻し理由の分類に限ります」


「理由は」


「見たい対象が本人情報ではなく、言葉の構造だからです。ですが、構造を見るために本文を見せる必要はありません」


 ラウル教官が頷く。


「よい」


 ミリアがほっと息を吐いた。


 隣でユリアが手を上げる。


「私は、記録板の扱いで補助できます」


「何を見たい」


「記録がどこで止まるべきかを見たいです」


 ユリアは、記録板から手を離さなかった。


「講義では、記録しないことも判断だと教わりました。ですが、記録しない判断を誰がしたかは残す必要があるとも教わりました。私は、その境界の作業を見たいです」


「本人情報は」


「見ません。見ない形で残せる記録の形式を学びたいです」


 エレナが、わずかに目を細めた。


 その反応を、リシアは見た。


 驚きではない。


 評価に近い。


「採用候補です」


 エレナは言った。


「ただし、記録補助ではなく、記録形式補助。本文には触れず、空欄、伏せ字、分類記号、判断者欄の整合確認に限ります」


「承知しました」


 ユリアは頭を下げた。


     ◇


 説明会が終わる頃、採用候補は五名に絞られていた。


 ミリア・セルヴィン。


 ユリア・ノートン。


 学院長府職員補助に回る上級生が二名。


 そして、列整理と接触制限の補助として、オスカー・ベルトラン。


「私は応募していませんが」


 オスカーが言った。


「知っている」


 ラウル教官は答えた。


「だが、扉の横に立っていた」


「列が乱れないように」


「それが仕事だ」


 オスカーは一度だけ瞬きをした。


「……承知しました」


「見たいものは」


 ラウル教官が問う。


 オスカーは答えるまでに、一呼吸置いた。


「人が踏み込みすぎる前に、止める位置です」


「本人情報は」


「不要です」


「未確認情報は」


「不要です」


「ならば立てる」


 ラウル教官は短く言った。


 リシアは、オスカーの横顔を見た。


 以前、カイルへ直接聞こうとした学生を止めた時も、彼は名前を呼ばず、事情も語らせずに場を止めた。


 目立ちたいわけではない。


 誰かの事情へ勝手に踏み込ませないために、扉の前に立つ。


 それは、彼に合っているように思えた。


「では、補助者五名の仮登録を行います」


 エレナが言った。


「正式登録前に、誓約確認をします」


 机の上に、一枚ずつ紙が置かれる。


 そこには、短い文が並んでいた。


 私は、補助作業中に知り得た情報を、本人の同意なく口外しない。


 私は、未確認情報を確定情報として扱わない。


 私は、関係学生本人へ直接照会しない。


 私は、善意を理由に、相手へ受け取りを迫らない。


 私は、見たいという欲求を、助けたいという言葉で隠さない。


 最後の一文で、何人かの表情が変わった。


 ミリアは、真剣な顔でそれを読んでいる。


 ユリアは、記録板ではなく紙を見ていた。


 オスカーは、最後の一文で視線を止めた。


「これを誓約に入れるのですか」


 ステファニアが言った。


「入れます」


 エレナは答えた。


「見たいという欲求は、悪ではありません。ですが、隠すと危険です」


「その通りですわ」


 アリシアが言った。


「隠された欲求は、礼法の外へ逃げます。名を与えた方が扱いやすい」


 リシアは、最後の一文を見た。


 見たい。


 その言葉は、恥ずかしいものではない。


 けれど、助けたいという綺麗な言葉の中に隠すと、途端に怖くなる。


 リシア自身も、知りたいことがある。


 知りたいと思うことを、何度も選んできた。


 だからこそ、その言葉を隠してはいけないのだと思った。


     ◇


 夕方までに、補助者の仮配置が決まった。


 受付整理は学院長府職員補助の上級生二名。


 返答草案補助にミリア。


 記録形式補助にユリア。


 列整理と接触制限補助にオスカー。


 エレナは分類確認。


 ステファニアは礼状文面確認。


 リシアは確認済み応援物品の受取文面草案。


 アリシアは、何も担当していないような顔で、すべてを見ている。


 それが一番怖い。


 小会議室の中央には、装身型拡張視覚端末の共有表示が浮かんでいた。


 補助者配置。


 閲覧権限。


 接触制限。


 休憩確認。


 差し戻し理由。


 全員が同じ文字を見ている。


 けれど、見える範囲は同じではない。


 ミリアには、返答草案の定型文比較だけが見える。


 ユリアには、記録形式の空欄と判断者欄だけが見える。


 オスカーには、列整理、待機位置、接触制限線だけが見える。


 リシアには、応援物品の受取文面と、返答の礼法注意が見える。


 同じ部屋にいても、見てよいものは違う。


 それは不公平ではなく、役割だった。


「水路番、ですね」


 ミレイアが言った。


 彼女はカイルと一緒に、夕方の要約確認に来ていた。


 今日は紙束ではない。


 一枚の要約と、確認待ちの表題が三つ。


 カイルはそれを見て、昨日より長く黙っていた。


「水路番?」


 リシアが聞き返す。


「連合王国の氏族領には、雨季の川を見張る役があります」


 ミレイアは言った。


「水を止めるのではありません。流す場所を間違えないように見る役です。堤を切る時もありますし、畑へ回す時もあります。何もしない時もあります」


「何もしない時も」


「はい。水は、触りすぎても荒れますから」


 カイルが要約から目を上げた。


「うちの水路番は、よく怒鳴る」


「あなたが子供の頃、勝手に水門へ登ったからです」


「それは今言うことか」


「今だから言います」


 ミレイアは涼しい顔だった。


 リシアは口元を緩めた。


 二人の故郷が近くなった気がした。


 けれど、その故郷はいま遠い戦火の向こうにある。


 そのことは、消えない。


 要約の端に、未確認情報の件数が表示されている。


 昨日より増えていた。


 カイルも、それを見た。


 けれど、全件を見せろとは言わなかった。


 ただ、表題を一つずつ読んだ。


「この三つは」


「本人確認が必要な伝言希望です」


 エレナが答えた。


「見るか、保留するかを選べます」


 カイルは少し考えた。


「一つ目だけ見る」


 ミレイアが隣で頷いた。


「私は二つ目を保留します」


「三つ目は」


 エレナが問う。


 二人は顔を見合わせた。


 しばらく、言葉がなかった。


「明日の朝にする」


 カイルが言った。


「はい」


 エレナは記録する。


 リシアは、その短いやり取りを見ていた。


 全部を見ることではなく、見ないものを選べること。


 それが、今日作られた水路だった。


     ◇


 その日の終わり、学院長府から貸与邸へ戻る途中で、リシアはアインの共有表示を見た。


 評価:七。


「昨日より、戻りました」


 リシアは言った。


「人が増えた」


 アインは短く答えた。


「それだけですか」


「見ない者を置けた」


 リシアは足を止めた。


 見ない者。


 ミリアも、ユリアも、オスカーも、それぞれ見ない範囲を決められた。


 見ないから、立てる場所がある。


 見ないから、守れるものがある。


「水路番、ですか」


「いい名前だ」


 アインは言った。


 それだけだった。


 けれど、リシアの胸の奥が、かすかに温かくなった。


 自分たちが作ったものに、名前がついた。


 その名は、遠い戦火を止めるものではない。


 けれど、戦火が流れ込んでくる場所で、人が流されないための名だった。


 貸与邸の門が見えてくる。


 その手前で、学院長府の職員が一人、息を切らして走ってきた。


「ファーランド公女殿下」


 リシアは振り返った。


 職員は封書を差し出した。


 封は、学院長府のものではない。


 王国外務局の封蝋だった。


「東方情勢に関する、外務局経由の照会控えです。至急、学院長府確認窓口とファーランド側助言者へ共有するようにと」


 リシアは、封書を受け取った。


 紙は重かった。


 まだ開いていないのに、重かった。


 共有表示の端で、評価の文字が消える。


 代わりに、クラウディアの短い文字が浮かんだ。


 管制レベル確認。


 アインの声が、すぐに続いた。


「戻れ」


 リシアは頷いた。


 水路はできた。


 そして、重い水が来た。


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