第九十五夜 水を抜く者
第九十五夜 水を抜く者
窓口は、置かれた。
けれど、置いた瞬間から、そこへ流れ込むものが生まれた。
翌日の放課後、リシアは学院長府の小会議室にいた。
広い部屋ではない。
長机が三つ。
学院長府の職員が二名。
ラウル教官。
そして、ファーランド側からリシア、ステファニア、アリシア、エレナ。
セラは扉の近くに立っている。
彼女は黙っていた。
ただ、出入口と窓と、机の上に置かれた紙束を見ている。
紙束。
そう、紙束だった。
昨日まで掲示板の上にあった文は、今日にはもう、机の上の束になっていた。
学院長府確認窓口。
その名を置いた場所へ、学生たちの心配、好奇心、善意、噂、伝言希望が流れ込み始めている。
リシアは、机の上に置かれた分類札を見た。
一般照会。
応援物品。
伝言希望。
未確認情報提供。
その他。
最後の札だけ、厚みが違う。
たぶん、そこへ多くのものが逃げている。
「一日で、これほどですか」
ステファニアが言った。
声は落ち着いていたが、目は紙束を数えている。
「正確には、半日です」
学院長府の職員が答えた。
「公開連絡板への追記後、昼休みと講義後に集中しました。まだ受付時間を限定していないため、この後も増える見込みです」
エレナは黙っていた。
首元の装身型拡張視覚端末は、今日はやや強く光を抑えている。
彼女の視界には、おそらく紙束の件数、分類、未処理数、重複率、本人確認が必要なものが重なって見えているのだろう。
けれど、顔にはそれを出さない。
驚きも、焦りも、便利さへの感嘆も出さない。
ただ、目だけが速く動いている。
「最初に確認します」
ラウル教官が言った。
「この場は学院長府確認窓口の内部処理確認だ。関係学生本人への伝達可否を、ここで決めるわけではない。ファーランド側は助言者であり、処理権限者ではない」
「承知しております」
リシアは答えた。
その線引きは必要だった。
ファーランドがここで強く動きすぎれば、カイルとミレイアを守る文が、別の圧へ変わる。
助けるために作った布が、知らないうちに誰かの首へ巻きつく。
そういうことが、起こり得る。
「では、ヴァイスベル」
ラウル教官がエレナを見た。
「現状の問題を述べろ」
「はい」
エレナは立ち上がった。
手元の紙を見ない。
見なくても、もう整理している顔だった。
「現在の分類は、入口としては機能しています。ただし、処理に移すには粗すぎます」
学院長府の職員がわずかに眉を上げた。
エレナは続ける。
「一般照会の中に、本人へ届かなくてよいもの、学院長府内で回答できるもの、外部機関への確認が必要なもの、本人確認がなければ意味を持たないものが混在しています」
彼女は一枚の紙を手に取った。
「たとえば、これは『ルーヴァ様の故郷は無事ですか』という照会です。心配としては自然ですが、学院長府は現時点で答えられません。本人に聞けば、本人へ負荷が移ります。外部へ照会すれば、学院が未確認情報を公式化する危険があります」
「では、どう扱うべきですか」
職員が問う。
「現時点では、未回答保留です。ただし、本人へは届けない。照会者へは、学院長府として確認中、未確認情報のため個別回答不可、と返すのが妥当です」
「拒絶ではなく」
「はい。入口を閉じるのではなく、今は通せない水路だと示します」
水路。
リシアは、その言葉を聞いて、昨日のアインの声を思い出した。
窓口は増えるほど詰まる。
詰まった時に、誰が水を抜くかを決めていない。
その言葉が、今、紙束の重みになって机の上にあった。
「応援物品も同じです」
エレナは別の束へ手を伸ばした。
「食品、薬草、護符、祈り札、衣類、手紙、金銭。すべて応援物品に入っていますが、扱いは同じにできません」
「祈り札も」
アリシアが静かに言った。
エレナの指が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、リシアには見えた。
「はい」
エレナは答えた。
「祈り札は、送った側には善意です。ですが、受け取る側の信仰、種族慣習、政治的立場によっては、別の意味を持ちます」
「よろしい」
アリシアは、扇をわずかに開いた。
「信仰を否定せず、けれど信仰を相手の身体へ勝手に貼らない。大切な線ですわ」
「はい」
エレナは頷く。
その頷きは、硬かった。
メシア教会系学生会にいた彼女にとって、その線はただの実務ではないのだろう。
リシアはそう思ったが、口にはしなかった。
言葉にすると、それもまた別の問いになる。
「では、応援物品は」
ステファニアが言った。
「物品種別、送り主、意図、受取可否、保管期限、返却可否の六項目に分けるべきですね」
「はい」
エレナが即答した。
「さらに、本人確認が不要な応援品と、本人確認が必要な応援品を分けます」
「本人確認が不要な応援品とは」
「共用慰問品です。たとえば学院内の関係学生全体へ預ける茶葉や菓子など。ただし、食品は安全確認が必要です」
セラが、そこで反応した。
食品、という言葉に。
リシアは横目で見た。
セラは何事もなかったような顔をしていた。
けれど、視線は一瞬だけ、食品の束へ向いていた。
「セラ」
「はい」
「今は食べ物の話ではありません」
「安全確認の話です」
「食べませんよね」
「食べません」
セラは真面目に答えた。
ステファニアが小さく息を吐いた。
「安全確認という言葉を便利に使わないでください」
「承知しました」
ひと息だけ、部屋の空気が緩んだ。
緩んだ分だけ、机の上の紙束が重く見えた。
◇
分類作業は、見た目より難しかった。
同じ文面でも、置き場所で意味が変わる。
同じ心配でも、誰が、誰へ、どの名で送ったかで重さが変わる。
学院長府職員が、未確認情報提供の束から一枚を読み上げた。
「『グランカーン帝国軍は東方国境で魔導騎装五十機を投入したと聞いた。出所は王都の商人筋』」
部屋の中が静かになる。
カイルやミレイアがこの場にいないことを、リシアは初めてありがたいと思った。
聞けば、きっと傷になる。
けれど、聞かないままでは、それもまた怖い。
「伝聞段階は」
エレナが問う。
「不明です。商人筋、とだけ」
「未確認情報。出所不明。件数としては記録。本人へは届けない。学院長府内で同種情報との重複確認。外部確認待ち」
エレナは即座に分類した。
「本人へ届けない理由は」
ラウル教官が問う。
「確認不能な数字だけを届ければ、本人に恐怖を渡すだけになります」
「よい」
次の紙。
「『セイレン家の姫君へ。もしご家族へ手紙を出す方法があれば、私の叔父の商会が東方へ出る隊商を知っているかもしれない』」
ステファニアが目を細めた。
「善意か、接触線か、判断が難しいですね」
「はい」
エレナが答える。
「伝言希望として受付。ただし、商会名、叔父の名、隊商の実在確認が必要です。本人へは、確認後に選択肢として提示する。現時点で直接の連絡先は渡しません」
「なぜですか」
職員が問う。
「本人が藁にもすがりたい状態であれば、確認不能な連絡線にも飛びつく可能性があります。本人に選ばせる前に、選択肢として安全か確認する必要があります」
リシアは、エレナを見た。
淡々としている。
けれど、冷たいわけではない。
むしろ、冷たく見えるところまで丁寧にしなければ、人の心配は扱えないのかもしれない。
「あなた、仕事が増えますわよ」
アリシアが言った。
「承知しています」
エレナは答えた。
「増やすために分けています」
「よい答えですわ」
アリシアは微笑んだ。
「増えた仕事は、見える仕事です。見えない負担より、ずっと扱いやすい」
クラウディアの声が、共有表示から入った。
卓上の中央、三十センチほど上。
淡い文字が浮かぶ。
窓口処理案。
分類階層を追加。
本人到達前処理を三段階へ分離。
学院長府権限、本人確認権限、外部照会権限を分ける。
リシアの正面からも読める。
ステファニアの正面からも、エレナの正面からも、おそらく職員の正面からも、同じ文字がそれぞれ自分に向いて見えているはずだった。
同じ文字を見ている。
けれど、同じ責任を持っているわけではない。
リシアは、その違いを少しずつ分かり始めていた。
「クラウ」
アインの声が続いた。
「人員も出せ」
「学院長府へですか」
「違う」
短い否定だった。
「ファーランド側で受けるものが増える。エレナ一人に寄せるな」
エレナが顔を上げた。
その目が揺れた。
「私なら」
「できるかどうかではない」
アインは言った。
「続くかどうかだ」
部屋の中が、静かになった。
リシアは、その静けさの中で、アインの声を聞いていた。
短い。
いつものように、説明は少ない。
けれど、今の言葉は、制度の話ではなかった。
エレナという一人の人間が、どこで削れるかを見ている。
「承知しました」
クラウディアが答えた。
「ファーランド側受付補助として、研修補助者を二名、分類確認者を一名、休憩交代要員を一名置きます」
「よし」
「アイン様」
リシアは思わず口を開いた。
「はい」
自分でも、声が少し強く出たのが分かった。
「私も、分けてください」
アインは少し黙った。
共有表示の向こうで、こちらを見ているのだろうか。
リシアには分からない。
「何を」
「できることです」
言ってから、リシアは自分の手元を見た。
まだ、分類の速度ではエレナに及ばない。
礼法の線引きではステファニアに及ばない。
先を読むことではアリシアに及ばない。
管制ではクラウディアに及ばない。
けれど、何もできないまま、見ているだけではいられなかった。
「私は、カイル様やミレイア様と同じ学院生です。ファーランドの名もあります。だから、受け取れるものと、受け取ってはいけないものの線を、一緒に覚えます」
少しだけ、喉が乾いた。
「今すぐ役に立つかは、分かりません。でも、覚えます」
アインは短く答えた。
「いい」
それだけだった。
けれど、リシアには、それが許可だと分かった。
慰めではない。
期待でもない。
席を与えられた、ということだった。
「では、リシア様は確認済み応援物品の受取文面草案を」
ステファニアがすぐに言った。
「本人へ届く前の礼状ですね」
「はい。感謝を示しつつ、本人へ直接届いたと誤解されない文です」
「難しいですね」
「難しいので、覚える意味があります」
リシアは頷いた。
エレナが、表情を緩めた。
「助かります」
その一言は、仕事上の言葉だった。
けれど、本心にも聞こえた。
◇
日が傾く頃、最初の処理案がまとまった。
一般照会は、本人不要、本人確認要、外部照会要、未回答保留へ分ける。
応援物品は、共用慰問品、個人宛て物品、宗教性を持つ物品、安全確認要、返却候補へ分ける。
伝言希望は、本人へ即時提示しない。
まず学院長府が伝言の意図と連絡線の安全性を確認し、本人へは表題と送り主分類だけをまとめて提示する。
未確認情報提供は、確定情報のように扱わない。
同種情報の重複、出所、日時、伝聞段階を記録し、本人には届けず、学院長府内で保管する。
そして、関係学生本人へは、一日二回だけ要約を提示する。
朝と夕。
本人が求めた時のみ、追加確認。
それ以外の時間は、学生としての生活を優先する。
「これなら、あの二人は紙束に追われずに済みます」
エレナが言った。
「完全には」
アリシアが返す。
「けれど、追われる時間を決められますわ」
「はい」
エレナは頷いた。
「恐怖にも、受付時間を設けます」
その言い方は、少し硬く、少し奇妙だった。
けれど、リシアには分かった。
恐怖は消えない。
心配も、噂も、善意も消えない。
だから、流れる場所を作る。
流れる時間を決める。
溢れた時に、誰が水を抜くかを決める。
それが、今日の仕事だった。
◇
夕方、カイルとミレイアが学院長府の小応接室へ呼ばれた。
本人確認ではない。
窓口処理方針の共有だった。
机の上には、紙束ではなく、一枚の要約だけが置かれている。
リシアは同席していた。
ステファニアとエレナもいる。
アリシアは少し離れた席で、扇を膝の上に置いていた。
ラウル教官が説明を終えると、カイルは要約を見た。
眉間に皺が寄る。
「これだけか」
ミレイアが横から見た。
「これだけ、にしてくださったのです」
「分かっている」
カイルは低く言った。
「分かっているが、全部見たい」
その言葉は、責めるものではなかった。
ただ、正直だった。
ミレイアの耳が伏せられる。
リシアは、何か言おうとして、やめた。
全部を見たい。
それは、当然だ。
自分の国かもしれない。
家族かもしれない。
父かもしれない。
知りたいに決まっている。
けれど、全部を見ることが、そのまま立っていられることではない。
「全部見たいなら、申請しろ」
アインの声が、共有表示から入った。
カイルが顔を上げた。
「許可されるのか」
「場合による」
短い答えだった。
けれど、カイルは目を逸らさなかった。
「今は」
「やめておけ」
アインは言った。
「お前は今、全部を見たいんじゃない。何か一つでも確かだと言ってほしいだけだ」
カイルの喉が動いた。
言い返すかと思った。
けれど、彼は言い返さなかった。
拳も握らない。
ただ、要約の紙を見下ろした。
「……そうだ」
小さな声だった。
「そうだな」
ミレイアが、そっと息を吐いた。
エレナは何も書かなかった。
今の言葉を記録しないと決めたのだろう。
リシアは、その沈黙を見た。
記録しないことも、時には守ることなのだと、分かった気がした。
「要約は、朝と夕に出します」
エレナが言った。
「本人確認が必要なものは、その時に表題だけ提示します。見るか、見ないかは、その場で選べます」
「選ばなかったら」
「保留します。消しません」
カイルは頷いた。
「分かった」
ミレイアが微笑む。
「方針にできますね」
「方針にする」
カイルは即答した。
その顔は、まだ晴れていない。
当然だ。
遠い戦火は、まだ止まらない。
けれど、紙束は一枚の要約になった。
問いは、本人へ直接突き刺さる前に、いくつかの水路へ分けられた。
リシアは、机の上の要約を見た。
水が、細く流れた。
流れたからといって、川が穏やかになったわけではない。
それでも、溢れた水をただ浴びるよりは、ずっといい。
そう思った時、共有表示の端に短い文字が浮かんだ。
評価:六。
リシアは思わず目を瞬いた。
「昨日より下がりました」
「水は流れた」
アインが言った。
「だが、流し続ける人間がまだ少ない」
エレナが静かに頷いた。
「次の確認事項です」
クラウディアの声が、すぐに続いた。
「研修項目へ追加します」
アリシアが扇を開いた。
「まあ」
涼しい声だった。
「人を増やす口実ができましたわね」
リシアは、思わずアリシアを見た。
アリシアは微笑んでいた。
とても優雅に。
とても楽しそうに。
そして、とても怖かった。




