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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第九十夜 動き出す席

第九十夜 動き出す席


 席は、置かれただけでは意味を持たない。


 誰かがそこへ歩いていく。


 座る。


 立つ。


 あるいは、座らないと決める。


 そうして初めて、その席はただの空白ではなくなる。


 翌朝、リシアはそのことを思い知った。


 学院長府の公開連絡板には、昨日よりも少しだけ人が多かった。


 朝の授業前。


 廊下を行き交う学生たちは、いつもより足を遅くし、掲示を見て、それから何も見なかったような顔で歩き去る。


 何も言わない者。


 小声で隣と確認する者。


 視線だけをこちらへ向ける者。


 そのすべてが、昨日置かれた席の輪郭をなぞっていた。


 リシアは、ステファニアの隣に立っていた。


 セラは一歩後ろ。


 アリシアは、扇子を閉じたまま掲示を眺めている。


 アインは少し離れた柱の近くに立ち、いつものように目立たない顔をしていた。


 目立たない。


 そのはずなのに、近くにいると妙に分かる。


 視線の流れが、彼を避けているのだ。


 リシアは最近、その空白を読むのが少しだけ上手くなった。


「増えましたね」


 セラが言った。


「何がですか」


「見ていないふりをしている人です」


 あまりにも素直な言い方だったので、リシアは返事に困った。


 ステファニアが、小さく息を吐く。


「見ないでくださっているなら、まだ礼儀があります」


「あれは礼儀なのですか」


「半分は」


 ステファニアは穏やかに言った。


「残り半分は、判断待ちです」


 掲示板の下段には、新しい追記が一つ置かれていた。


 表題は、簡潔だった。


 ファーランド大公家外交実務研修に関する受入開始通知。


 本文は、学院長府の書式に沿っている。


 対象者、期間、所属記録、研修中の連絡窓口。


 そして、研修開始前に、ジークフリート殿下側作業の引き継ぎ一覧を学院長府へ提出すること。


 信仰団体窓口との接触制限は、研修期間中の利益相反回避措置として扱うこと。


 メシア教会系学生会での既存記録については、本人名義の補足と学生会名義の文書を混同しないこと。


 読めば読むほど、何かを守るために、何かを細かく分けている文だった。


 リシアには、まだ少し息苦しく見える。


 けれど、その息苦しさが必要なのだということも、少しずつ分かってきた。


 混ぜれば簡単になる。


 でも、簡単になったものは、たいてい誰かの名を巻き込む。


「エレナ様は」


 リシアが言いかけると、クラウディアが横から静かに答えた。


「現在、学院長府の小会議室で引き継ぎ一覧を提出中です」


「もうですか」


「ええ。予定時刻の十二分前に到着しています」


 アリシアが、少し楽しそうに目を細めた。


「よい子ですわね」


「アリシア様」


 ステファニアが、少し困った顔をした。


「子、というほどでは」


「よい人材、と言い換えましょうか」


「その方がまだ」


「まだ?」


「……いえ」


 ステファニアは言葉を飲み込んだ。


 たぶん、どちらでも捕まえにいく響きが残る、と思ったのだ。


 リシアも少しそう思った。


 アリシアの言う「よい」は、褒め言葉であると同時に、手元に置いて磨きたいという意味を含んでいることがある。


 最近、それも分かってきた。


「見に行きますか」


 アリシアが言った。


「見に?」


「ええ。席へ歩いてくる方を、迎えないのは失礼ですもの」


「迎えるのであれば、待つ場所を整えましょう」


 クラウディアが即座に言った。


「学院長府の廊下で待ち伏せる形は推奨しません。圧に見えます」


「まあ」


 アリシアは扇子で口元を隠した。


「待ち伏せなどいたしませんわ」


「昨日、似た動線を三つ作成していました」


「確認です」


「分類上は、誘導準備です」


「クラウディア」


「はい」


「後でお話ししましょう」


「昨日より短くお願いします」


「あなた次第ですわ」


 アインが、柱の近くで小さくため息をついた。


「アリシア」


「はい、殿下」


「迎えるなら、迎えるだけだ」


「もちろんですわ」


「作戦にするな」


「まあ」


 アリシアは、少しだけ不満そうに眉を上げた。


「人聞きが悪いですわね」


「当たってる時はそう言う」


 リシアは思わず笑いそうになり、口元を押さえた。


 ステファニアも、視線を落としている。


 セラだけが真面目に頷いた。


「迎撃ではなく迎えです」


「セラ」


 アインが言った。


「今のは合っているが、少し違う」


「難しいですね」


「そうだな」


 アリシアが、本当に楽しそうに微笑んだ。


 その時だった。


 学院長府側の廊下から、エレナ・ヴァイスベルが歩いてきた。


 背筋は伸びている。


 足取りは乱れていない。


 けれど、いつもの学生会側の制服姿ではなかった。


 身につけているものは同じ学院服なのに、胸元の小さな徽章が外されている。


 代わりに、仮の研修記録票が付けられていた。


 ファーランド大公家外交実務研修。


 観察対象ではなく、研修参加者。


 所属はまだ学院長府預かり。


 その文字が、彼女の今日の立ち位置を示していた。


 エレナは、こちらに気づくと足を止めた。


 礼をする。


 深すぎない。


 浅すぎない。


 昨日までの彼女と同じ、丁寧で、線を越えない礼だった。


「おはようございます」


「おはようございます、エレナ様」


 ステファニアが返す。


 リシアも礼を返した。


「引き継ぎは終わりましたか」


 クラウディアが問う。


「一覧の提出は終わりました。未完了事項は三件です」


 エレナは、すぐに答えた。


「一件は、ジークフリート殿下側の公開連絡文書の保存番号確認。二件目は、メシア教会系学生会の過去照会記録の写し提出範囲。三件目は、私が研修中に受け取った信仰団体由来の連絡を、どの窓口へ転送するかの確認です」


 リシアは、少し目を瞬いた。


 一息でそこまで出てくるのが、すごい。


 しかも、声に迷いがない。


「よく整理されています」


 クラウディアが言った。


「ありがとうございます」


 エレナは礼を返す。


 その顔に、誇らしさはない。


 むしろ、少しだけ固い。


「ただ、まだ整理だけです。移るということは、残すものを決めることでもありますので」


 ステファニアが、静かに頷いた。


「分かります」


 その一言は、軽くなかった。


 エレナも、それを分かっている顔で受け取った。


「ジークフリート殿下は」


 リシアが言いかけて、止まる。


 聞いてよいのか迷った。


 エレナは少しだけこちらを見た。


「殿下は、妨げないと仰いました」


 それから、言葉を選ぶように続ける。


「職務放棄ではなく、周辺整理協力者としての役目を閉じた後の研修参加として扱う、と」


「そうですか」


 ステファニアの声は穏やかだった。


 けれど、リシアには分かった。


 その穏やかさの底に、少しだけ痛みがある。


 誰かが正しく扱おうとしてくれたことは嬉しい。


 でも、その正しさが必要になった理由は消えない。


「殿下は、良い方です」


 エレナが言った。


 リシアは、少し驚いた。


 この流れでその言葉を出すのかと思ったからだ。


 けれど、エレナの顔は真剣だった。


「ただ、良い方であることと、周囲の言葉が整っていることは別です」


 ステファニアが、ゆっくりと目を伏せた。


「ええ」


「私は、その別を分けきれませんでした」


 エレナは言った。


「信仰の場でも、王家の場でも、学院の場でも。正しそうな言葉が出た時に、それが誰の名で出ているのか、最後まで確かめるべきでした」


「それは」


 リシアは思わず口を開きかける。


 でも、言葉が続かなかった。


 慰めるのは簡単だ。


 けれど、エレナが今しているのは、自分の失敗をなかったことにしないための整理なのだ。


 そこへ、軽い慰めを置いてはいけない気がした。


「これから確認すればよいのです」


 ステファニアが言った。


「私も、これから確認します」


 エレナの目が、少しだけ揺れた。


「ステファニア様」


「はい」


「私は、あなたの補佐として置かれるのでしょうか」


 廊下の空気が、少しだけ止まった。


 リシアは、アリシアを見た。


 アリシアは微笑んでいる。


 けれど、何も言わない。


 クラウディアも口を挟まない。


 アインも、柱の近くで黙っていた。


 だから、これはステファニアが答えるべき問いなのだと分かった。


「今は」


 ステファニアは言った。


「いいえ」


 エレナは、静かに聞いている。


「あなたは、私のためだけに置かれる方ではありません。ファーランド大公家外交実務研修の参加者であり、学院長府預かりの記録を持ち、信仰団体窓口の経験を持つ方です」


 そこで一度、息を整える。


「ただ」


「ただ?」


「もし、私が補佐を必要とする時があり、あなたがその場にいて、あなた自身がよいと判断されたなら」


 ステファニアは、少しだけ微笑んだ。


「その時は、助けてください」


 エレナは、すぐには答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 重い沈黙ではなかった。


 ただ、言葉の置き場所を探す沈黙だった。


「承知しました」


 やがて、エレナは答えた。


「その時は、私の名で判断します」


「お願いします」


 リシアは、胸の奥が少し温かくなった。


 補佐にする。


 側近にする。


 引き抜く。


 そういう言葉なら、もっと簡単だったと思う。


 でも、それではまた誰かが誰かの名を置いてしまう。


 今ここに置かれたのは、約束ではない。


 拘束でもない。


 必要な時に、自分の名で手を伸ばすための距離だった。


「では、最初の研修内容ですが」


 クラウディアが言った。


 その声に、わずかに仕事の色が戻る。


「本日午前は、学院長府記録室で、既存文書の分類確認。午後は、貸与邸でファーランド大公家側の窓口構造を説明します」


「承知しました」


「質問は」


「あります」


 エレナは即答した。


「三点」


 クラウディアの目が、ほんの少しだけ細くなる。


 好ましいものを見る時の顔だと、リシアは思った。


「どうぞ」


「第一に、ファーランド大公家側の窓口構造において、学院長府預かりの私が閲覧できる範囲と、閲覧後に保持してよい記録範囲」


「当然の確認です」


「第二に、ベルカ式教育課程と外交実務研修の情報境界」


「よい質問です」


「第三に」


 エレナは、少しだけアリシアを見た。


「アリシア様の発言を、どこまで公的記録として扱うべきか」


 アリシアの扇子が、ぴたりと止まった。


 アインが、柱の近くで顔を上げる。


 クラウディアは、わずかに沈黙した。


 リシアは思った。


 これは、すごいところを突いたのではないだろうか。


 ステファニアも、少し目を見開いている。


 アリシアは、ゆっくりと扇子を閉じた。


「よい質問ですわ」


 声は、楽しそうだった。


「ですが、少し危険でもあります」


「承知しています」


 エレナは答えた。


「危険なので、最初に確認します」


 アリシアは、数秒だけエレナを見た。


 それから、満足そうに微笑んだ。


「クラウディア」


「はい」


「初日の課題を一つ増やして差し上げて」


「増やす前提ですか」


「ええ」


「内容は」


「発言者の身分、場、受け手、記録者、保存先によって同じ言葉がどう変わるか」


 クラウディアは、少しだけ考えた。


「初日に出すには重い課題です」


「だからよいのです」


「エレナ様」


 クラウディアが視線を向ける。


「受けますか」


 エレナは、すぐに答えなかった。


 けれど、迷っている顔ではなかった。


 重さを量っている顔だった。


「受けます」


 そう言って、少しだけ息を吸う。


「ただし、初日は草案までとさせてください。完成物として提出するには、私の理解が足りません」


「よろしい」


 クラウディアが頷いた。


 アリシアも満足そうだった。


 アインだけが、少し困ったような顔でエレナを見ている。


「無理はするな」


 短い言葉だった。


 エレナは、一瞬だけ驚いたようにアインを見た。


 それから、丁寧に礼をする。


「承知しました」


 リシアは、そのやり取りを見ていた。


 アインの言葉は短い。


 けれど、時々、真っ直ぐ届く。


 たぶん、余計なものを乗せないからだ。


 だから、受け取る側も迷わない。


 少し羨ましいと思った。


     ◇


 同じ頃、ジークフリートの控室では、空いた机が一つ増えていた。


 エレナが使っていた小さな机だった。


 書類は片づけられている。


 未処理のものはない。


 筆記具も、分類札も、保存番号の控えも、すべて整えられていた。


 整えられすぎていた。


 ミリアは、その机を見て少しだけ唇を結んだ。


「困るほど、綺麗ですね」


 オスカーが横で言った。


「そうね」


 ミリアは答える。


「綺麗すぎるわ」


 散らかっていれば、文句を言えた。


 途中の仕事が残っていれば、引き止める理由にできた。


 でも、何も残っていない。


 エレナは、離れる前に自分の席を閉じていった。


 逃げたのではない。


 投げ出したのでもない。


 だから、余計に痛い。


「殿下は」


 オスカーが問う。


「奥です」


 ミリアは答えた。


「引き継ぎ一覧を読んでいらっしゃいます」


「読むでしょうね」


「ええ」


 ジークフリートは、読む。


 読んで、自分の不手際をまた一つずつ見つける。


 それでも、読まないという選択はしない。


 それが彼の良いところであり、今は少し痛々しいところでもあった。


 控室の入口付近で、若い側近が二人、声を落として話している。


「細かい確認が減るなら、少しは動きやすくなる」


「だが、学院長府の目は増えた」


「それでも、いちいち信仰記録だの保存番号だのと言われるよりはましだろう」


 ミリアは、その声を聞いた。


 聞いて、何も言わなかった。


 言えば、彼らは黙る。


 黙れば、表に出なくなる。


 今はまだ、表に出ている方がよい。


 オスカーも、同じ判断をしたらしい。


 視線だけをミリアへ向ける。


 ミリアは小さく頷いた。


 記録する。


 今は、それでよい。


 奥の扉が開いた。


 ジークフリートが出てくる。


 顔色は悪くない。


 けれど、少しだけ疲れていた。


「ミリア」


「はい」


「エレナ嬢の引き継ぎ一覧を、こちらでも保存する」


「承知しました」


「それから」


 ジークフリートは、若い側近たちの方を見た。


 彼らの声はもう止まっている。


「確認が減ったのではない」


 静かな声だった。


「確認する者が、一人移っただけだ」


 若い側近の一人が、わずかに肩を強張らせた。


「はい」


「彼女がいなくなった分、私たちが確認する」


 ジークフリートは続ける。


「分けるべきものを混ぜれば、また同じことを繰り返す。私は、もうそれを望まない」


「承知しました」


 返事は揃った。


 でも、全員が同じ意味で受け取ったわけではない。


 ミリアには、それが分かった。


 オスカーにも、たぶん分かっている。


 ジークフリートにも。


 だからこそ、彼はそこで言葉を止めなかった。


「今後、私の名で誰かへ確認を求める場合は、本人署名のある文書、または私が同席する場に限る」


 若い側近たちが、今度ははっきり動揺した。


「殿下、それでは」


「不便になる」


 ジークフリートが言った。


「だが、不便でよい」


 控室に、静けさが落ちた。


「便利な名ほど、誰かが勝手に使う。私の名もそうだった。ならば、しばらく不便にする」


 ミリアは、少しだけ目を伏せた。


 遅い。


 そう思わないわけではない。


 でも、遅くても、言わないよりはよい。


 ジークフリートは、まだ自分の名を取り戻そうとしている。


 そのことだけは、記録しておくべきだった。


     ◇


 その日の午後、貸与邸の小会議室には、新しい席が一つ増えていた。


 エレナの席だった。


 ただし、ステファニアの隣ではない。


 リシアの斜め向かい。


 クラウディアからも、アリシアからも、アインからも見える位置。


 そして、ステファニアが顔を上げれば、自然に視線が合う位置。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 それが、今日の答えだった。


「まず、ファーランド大公家側の窓口構造を説明します」


 クラウディアが言った。


 卓上には、薄い記録板が並んでいる。


 色ごとに分類されていた。


 学院長府。


 王家儀礼局。


 レーヴェンハイト侯爵家。


 ファーランド大公家。


 ベルカ式教育課程。


 外交実務研修。


 信仰団体関連。


 リシアは、それを見ただけで少し頭が痛くなった。


「多いですね」


 思わず言うと、クラウディアが頷いた。


「多いです」


「減らせないのですか」


「減らすと混ざります」


「混ざると」


「誰かが困ります」


 とても簡潔だった。


 リシアは納得した。


 納得はしたが、頭痛は消えない。


 ステファニアは、真剣な顔で記録板を見ている。


 エレナも同じだ。


 二人の目つきは少し似ていた。


 読む。


 分ける。


 置く。


 その三つを、自然にやろうとしている目だ。


 リシアは少しだけ羨ましくなった。


「リシア様」


 セラが小声で言った。


「大丈夫ですか」


「少し、文字が多いです」


「食べ物の献立でしたら、私も読めます」


「セラ」


「はい」


「それは少し違います」


「残念です」


 小声のやり取りだったのに、アインがわずかに口元を緩めた。


 リシアは、少しだけ恥ずかしくなる。


 だが、その空気のおかげで、部屋の重さが少しだけ軽くなった。


「リシア様」


 エレナが言った。


「はい」


「私も、すべてを一度に読めるわけではありません」


「そうなのですか」


「はい。読めるものから読みます。読めないものは、読めないと記録します」


 リシアは、少し目を瞬いた。


 読めないと記録する。


 それは、何だか少し救われる言葉だった。


 読めないことを隠さない。


 分からないことを、分かったふりで埋めない。


 それなら、自分にもできるかもしれない。


「では、私もそうします」


 リシアが言うと、ステファニアが優しく微笑んだ。


「一緒にしましょう」


「はい」


 アリシアが、扇子の陰で満足そうにしている。


 アインは、それを横目で見てから、少しだけ呆れた顔をした。


「アリシア」


「はい、殿下」


「今のは誘導か」


「いいえ」


 アリシアは微笑んだ。


「よい風が吹いただけですわ」


 アインは、何か言いたそうにした。


 けれど、言わなかった。


 リシアには、その沈黙が少し意外だった。


 いつもなら、もう一言くらい釘を刺すところだ。


 けれど、アインは何も言わず、窓の外を見た。


 庭の木々が、風に揺れている。


 昨日より少し、柔らかい風だった。


 新しい席。


 新しい人。


 新しい距離。


 それらが、一つずつ部屋の中に置かれていく。


 アインは、そのすべてを見ている。


 止めるためではなく。


 壊れないか、確かめるように。


 リシアは、ふと思った。


 アインは、もしかすると少しずつ変わっているのかもしれない。


 アリシア様やクラウディアだけでなく。


 私たちや、エレナ様や、ジークフリート殿下のような、この時代の人間の動きも、少しずつ受け取っている。


 それがよいことなのかは、まだ分からない。


 けれど、悪いことではない気がした。


 クラウディアが記録板を一枚、エレナの前へ置く。


「では、最初の課題です」


「はい」


「同じ発言が、発言者の身分、場、受け手、記録者、保存先によってどう変わるか。草案で構いません」


 エレナは記録板を受け取った。


 少しだけ目を伏せる。


 それから、顔を上げた。


「承知しました」


 その声は、朝より少しだけ柔らかかった。


 リシアは、その横で自分の記録板を見た。


 分からないところが多い。


 けれど、分からないと書いてもよい。


 それなら、たぶん一歩目になる。


 席は、もう置かれている。


 次は、そこへどう歩くかだ。


 部屋の外で、風が吹いた。


 まだ弱い。


 けれど確かに、新しい風だった。


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