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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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幕間十二 父たちの舞踏

幕間十二 父たちの舞踏


 その夜、ファーランド大公家の対面連絡室には、余計な者がいなかった。


 豪奢な部屋ではない。


 壁は厚く、窓はない。


 通信と記録に必要な機材だけが整えられ、中央には小さな卓と二脚の椅子が置かれている。


 卓上には茶器が二組。


 酒ではない。


 祝いの席ではないからだ。


 弔いの席でもない。


 では何の席かと問われれば、ガリウス・ファーランドは少し迷っただろう。


 父親としての席。


 家長としての席。


 そして、国を背負う者としての席。


 その三つが、同じ椅子に重なっている。


 だから、余計な者は置かなかった。


 対面連絡の向こうに、ウィリアム・レーヴェンハイト侯爵の姿が現れる。


 いつも通り整った礼装。


 疲労は隠している。


 隠せてはいない。


 ただ、隠そうとする礼儀を保っている。


 ガリウスは、その顔を見て短く頷いた。


「夜分にすまない」


「いいえ、大公閣下」


 ウィリアムは、深く頭を下げる。


「娘のことでお時間をいただいているのはこちらです」


 そこで、ガリウスは眉間を揉んだ。


「あー、やめやめ」


 ウィリアムの礼が、途中で止まる。


「ガリウス?」


「その顔で侯爵面をするな。見ているこっちの肩が凝る」


「それはお前も同じだろう。大公面が板につきすぎて、昔の悪事まで品よく見えそうだ」


「見えるわけがない。カリウスが聞いたら腹を抱える」


 ウィリアムは、そこでようやく息を吐いた。


 整えた礼儀の線が、少しだけほどける。


 二人は、幼い頃からの仲だった。


 ガリウス、ウィリアム、カリウス。


 公都ラーンの古い路地を走り回り、貴族の子息らしくあれと叱られながら、夜には大人の目を盗んで悪党の巣を潰しに行った三人。


 もちろん、当時の彼らはそれを悪党退治と呼んでいた。


 家令たちは、あとで頭を抱えた。


 衛士たちは、見なかったことにした。


 そして三人は、翌朝には涼しい顔で礼法の授業に出た。


 そういう時代があった。


 今はもう、それぞれ父となり、家長となり、国と家を背負っている。


 それでも、二人だけになれば戻れる場所がある。


「……カリウスを呼ばなくてよかったのか」


 ウィリアムが言った。


「呼べば話が早くなる」


「荒くもなる」


「否定はしない」


 ガリウスは茶器を見た。


「今日は、まず二人で踊る。あいつを入れると、途中で机をひっくり返す」


「昔からそうだったな」


「お前も止める側ではなかった」


「覚えがない」


「嘘をつけ」


「娘のことか」


 ガリウスは、茶器へ手を伸ばさなかった。


「ならば、こちらも同じだ」


 ウィリアムの目が、わずかに動いた。


 リシアのことを言っている。


 そう理解したのだろう。


 ステファニアの処遇は、もうレーヴェンハイト侯爵家だけの問題ではない。


 リシアの友人。


 ファーランド大公家の保護下に入る令嬢。


 ベルカ式教育課程の試験参加者。


 外交実務補佐候補。


 名が増えるほど、責任も増える。


 責任が増えるほど、逃げ道は減る。


 だが、逃げ道を減らすことと、選ぶ道を作ることは違う。


 そこを間違えれば、保護は檻になる。


「まず礼を」


 ウィリアムが言った。


「娘を罰のように退かせない道を作ってくれたことには、父として、家長として礼を言う」


「まだ道ではない」


 ガリウスは答えた。


「席を置いただけだ」


「では、その席に感謝を」


「感謝するには早い。座るかどうかは、本人が決める」


「ああ」


 ウィリアムは静かに頷いた。


「だからこそ、ありがたい」


 しばらく、二人は黙った。


 沈黙は重くない。


 軽くもない。


 ただ、互いが言わない言葉を数えている沈黙だった。


「ステファニアの今後については」


 ウィリアムが、ゆっくりと口を開く。


「父としては、まず静かな環境を望む」


 ガリウスは、そこで初めて茶器を持った。


「それは当然だ」


 茶を一口。


 それから、器を置く。


「だが、静かすぎる場所へ送るには、あの娘は少々、働きすぎた」


 ウィリアムの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったのではない。


 痛みを受け止めた顔だった。


「修道院のことか」


「俺はまだ、その名を口にしていない」


「悪い」


 ウィリアムは、軽く片手を上げた。


「近ごろ、王都では口にする前から聞こえる言葉が多い」


「便利な耳だ」


「不便な耳でもある」


 ガリウスは短く息を吐いた。


 笑いに近いが、笑いではない。


「王都の耳は、時々都合のよい音だけ大きく拾う」


「そうらしい」


「ファーランドの名も、よく響くようだ」


「響きすぎる時がある」


「だから、こちらで鳴らし方を決める」


 ウィリアムは、目を伏せた。


「ガリウス」


「何だ」


「娘が、ファーランドの名に隠れることを選んだなら、俺は止めていたかもしれない」


「知っている」


「だが、あの子は隠れるためではないと言った」


「そうだな」


「なら、父として止める理由はない」


「家長としては」


 ガリウスが問う。


 ウィリアムは、すぐに答えなかった。


 父親の顔が、少しだけ奥へ下がる。


 代わりに、侯爵家の当主の顔が前へ出た。


「家長としても、止める理由はない」


「本当にか」


「ああ」


 ウィリアムは、静かに言った。


「王家に近い婚約を返した娘を、罰のように隠せば、侯爵家は一時の波を避けられる。だが、それは娘の名を損ねるだけでなく、殿下の名も、レーヴェンハイトの名も損ねる」


「分かっているならよい」


「分かっているつもりだ」


「つもり、か」


「父親は、時々自分の娘のことになると目が曇る」


 その言葉に、ガリウスは少しだけ目を細めた。


「よく分かっている」


「お前もか?」


「言わせるな」


 ウィリアムが、今度はほんの少し笑った。


 同じだった。


 娘を持つ父親は、家格が違っても、背負う国が違っても、時々同じ顔をする。


 だが、その顔だけで話を進めるわけにはいかない。


 父親であり続けるためには、時に父親の顔をしまう必要がある。


「では、確認する」


 ガリウスは言った。


「まずは保護だ」


「ああ。保護だ」


「学院籍は維持する」


「維持だな」


「レーヴェンハイト侯爵家との関係は切らない」


「当然だ」


「ベルカ式教育課程への参加」


「本人が望むなら、止めない」


「外交実務補佐候補」


「候補、だな」


 二人は、そこで同時に茶を口へ運んだ。


 どちらも、それ以上は言わなかった。


 言わなかったが、同じ場所を見ていた。


 候補。


 便利な言葉だ。


 決定ではない。


 拘束でもない。


 だが、空席ではない。


 誰かが勝手に修道院という札を置く前に、別の札を置ける。


 誰かが傷物という札を置く前に、働くための名を置ける。


 誰かが王家の失点という札を置く前に、本人の意思を記録へ置ける。


「候補という言葉は」


 ウィリアムが言った。


「扱いを誤ると、便利すぎるな」


「便利すぎる言葉は危険だ」


 ガリウスが答える。


「だが、危険だからといって使わなければ、別の者が別の言葉を使う」


「ああ」


「ならば、先に置く」


「置いた後、誰のものにするかは」


「本人だ」


「安心した」


「安心するには早い」


「では、少しだけ」


 ウィリアムは茶器を置いた。


「父として、少しだけ安心する」


 ガリウスは、何も言わなかった。


 それくらいは許してよいと思った。


 自分も、リシアが無事だと知った時に同じような顔をしたからだ。


「エレナ・ヴァイスベル嬢の件も確認しておきたい」


 ガリウスが話を移す。


「あの娘も、こちらへ?」


「研修だ」


「研修」


「表向きは」


 ウィリアムが、少しだけ目を細めた。


「表向きは、か」


「表向き以外に何がある」


「お前が聞くなら、何も」


「尋ねてはいない」


「では、何もない」


 二人はまた、同時に茶を口へ運んだ。


 静かな舞踏だった。


 足音はない。


 音楽もない。


 だが、一歩踏み込めば、一歩退く。


 視線を合わせ、言葉を避け、互いの位置を測る。


 剣ではない。


 けれど、間合いはある。


「エレナ嬢は、娘の横に置くにはよい人材だ」


 ウィリアムが言った。


「そう見るか」


「ああ。娘は、理解できるものを理解しようとしすぎる。エレナ嬢は、理解できるものでも、まず扱いを確認する方に見える」


「よく見ている」


「父だからな」


「それは理由にならない」


「では、侯爵だからだ」


「それなら少しは理由になる」


 ウィリアムは苦笑した。


「娘の横に、娘と違う種類の賢さを置いてくれるなら、ありがたい」


「置くかどうかは本人が決める」


「ああ」


「だが、席は置く」


「ああ」


 ウィリアムは頷く。


「席がなければ、座るかどうかも選べない」


 ガリウスは、茶器の縁に指を置いた。


 その通りだった。


 席を作ることは、選択を強いることではない。


 だが、席を作らなければ、選択そのものが消える。


 アリシアが言った「選べる場所を先に作る」という言葉は、たぶんそういう意味だった。


 あの姫は、恐ろしい。


 そして、おそらく正しい。


「一つ、確認を」


 ウィリアムが言った。


「何だ」


「ベルカ式教育課程は、どこまで娘を変える」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 これは父の問いだった。


 同時に、侯爵の問いでもあった。


 ガリウスは、すぐには答えなかった。


 ベルカ。


 古い名。


 強すぎる名。


 救いでもあり、影でもある名。


 その教育課程に娘を差し出す父が、何も怖がらないはずがない。


「分からん」


 ガリウスは正直に言った。


 ウィリアムの目が、わずかに動く。


「分からない、と」


「ああ。俺はベルカ式教育課程を完全には知らない。知らないものを、知っている顔で保証する気はない」


「では、なぜ」


「クラウディア殿が止めると言った」


 ウィリアムは、少し黙った。


「それは、保証になるのか」


「俺にとっては、なる」


 ガリウスは答えた。


「あの方は、賢い子が好きだ。好きだからこそ、壊れる使い方はしない」


「好きだから、か」


「政治の言葉としては弱いな」


「父の言葉としては、少し強い」


「そうか」


「ああ」


 ウィリアムは目を伏せる。


「それに、アイン殿下が釘を刺されている」


 ガリウスが続けた。


「本人の意思が先だ、と」


「何度も」


「何度もだ」


 ガリウスは、少しだけ口元を緩めた。


「あれほど短い言葉で、何度も同じところを打てる方は少ない」


「では、アリシア様は」


「別の場所を打つ」


 ウィリアムは、今度こそ小さく笑った。


「なるほど」


「笑いごとではない」


「悪い」


 だが、ガリウスも少しだけ笑っていた。


 それは認めざるを得ない。


「将来の話は」


 ウィリアムが、声を少し落とした。


「今は、しない」


 ガリウスは、黙って彼を見た。


 ウィリアムも、目を逸らさない。


「娘は、ようやく自分の席を自分のものとして受け取ろうとしている。今、別の名を置けば、それがどれほど善意でも、また娘の上に置かれる札になる」


「分かっている」


「だが」


 ウィリアムは、そこで一度だけ言葉を切った。


「将来、その席が別の席へ近づくことがあるなら」


「候補の話か」


「俺はまだ、その名を口にしていない」


 ガリウスは、短く笑った。


「便利な耳だ」


「不便な耳でもある」


 二人は、また同じやり取りを繰り返した。


 繰り返して、同じ場所を見た。


 アイン。


 アリシア。


 リシア。


 ステファニア。


 家門ではなく、名を持つ人間たち。


 そして、まだ誰のものとも決められていない未来。


 誰も、その未来を口にしなかった。


 口にしないことで、まだ本人のものにしておいた。


「その時が来たなら」


 ガリウスは言った。


「本人に聞く」


「ああ」


「父親たちは、その前に席の足を折られないようにする」


「ああ」


「それだけだ」


「それだけだ」


 それだけ。


 なんと重い、それだけだろう。


 ガリウスは、茶を飲み干した。


「では、まずは保護」


 ウィリアムが言う。


「保護だ」


「教育課程」


「教育課程」


「外交実務補佐候補」


「候補」


「エレナ嬢の研修」


「研修」


「学院籍維持」


「維持」


「家門関係維持」


「当然だ」


 二人は、そこで同時に息を吐いた。


 確認は終わった。


 だが、終わったのは確認だけだ。


 実際の道は、明日からまた人の足で踏まれる。


 踏み荒らそうとする者もいる。


 別の札を置こうとする者もいる。


 ならば、そのたびに拾い直すしかない。


「ウィリアム」


 ガリウスは、初めて爵位を外して名を呼んだ。


「ああ」


「父としては、腹が立つだろう」


 ウィリアムは、しばらく黙った。


 長い沈黙だった。


「ああ」


 やがて、短く答えた。


「今も、立っているのが不思議なくらいには」


「そうか」


「だが、娘が立つと言った」


「ああ」


「なら、俺が先に座り込むわけにはいかない」


 ガリウスは頷いた。


「よい父だ」


「そうありたいとは思っている」


「俺もだ」


 それ以上は、互いに言わなかった。


 対面連絡が終わる。


 室内に静けさが戻った。


 ガリウスは、しばらく空になった対面窓を見ていた。


 その向こうに、もうウィリアムはいない。


 だが、同じ場所を見ていた感覚だけが残っている。


 娘たちが立つ場所。


 彼女たちが、自分で名を扱える場所。


 父親たちにできることは、驚くほど少ない。


 けれど、少ないからといって、軽いわけではない。


     ◇


 記録は、その日のうちにアリシアの手元へ届いた。


 届けたのはクラウディアだった。


 場所は貸与邸の小応接室。


 アリシアは窓辺に座り、外の庭を見ていた。


 隣の席にはアインがいる。


 何かを読んでいるようで、実際にはほとんど読んでいない。


 クラウディアが記録板を差し出す。


「ガリウス大公閣下とウィリアム侯爵の対面連絡記録です」


「ありがとう」


 アリシアは受け取った。


 数行読む。


 それだけで、口元に笑みが浮かんだ。


「お父様方も、なかなかお上手ですこと」


「何をした」


 アインが顔を上げた。


「何も」


 アリシアは、涼しい顔で答える。


「お父様方が、それぞれ父として、家長として、少し踊られただけですわ」


「踊る?」


「ええ。言葉で」


 アインは、少し嫌そうな顔をした。


「政治の話か」


「父親の話です」


「同じだろ」


「違いますわ」


 アリシアは即答する。


「時々、重なるだけです」


 クラウディアが、横で淡々と言った。


「記録上は、かなり重なっています」


「クラウディア」


「はい」


「後でお話ししましょう」


「昨日より長くなりますか」


「あなた次第ですわ」


 クラウディアは、少しだけ視線を逸らした。


 アインは、記録板をアリシアの手元から半分だけ覗き込む。


 数行読んで、眉を寄せた。


「本人の意思が先だ」


「ええ」


 アリシアは、今度はすぐ頷いた。


「存じております」


「本当に分かっているか」


「もちろんですわ」


 アリシアは扇子を開いた。


 ゆっくりと。


 楽しそうに。


「ですから、選べる場所を先に作っておりますの」


 アインは、ため息をついた。


「場所を作るのと、道を誘導するのは違う」


「ええ」


「アリシア」


「はい、殿下」


「やりすぎるな」


 アリシアは、しばらく黙った。


 笑みは消えない。


 けれど、その目だけが少し真面目になる。


「殿下の害になることはいたしません」


「知ってる」


「あの方々の害になることも」


「それは、時々疑う」


「まあ」


 アリシアは、少しだけ不満そうな顔をした。


「信用がありませんこと」


「あるから言ってる」


 アリシアの目が、ほんの少し柔らかくなった。


 クラウディアは、その表情を記録しなかった。


 記録しないことを選んだ。


「では」


 アリシアは記録板を閉じる。


「席は置きました。道も、少しだけ掃きました」


「作ったんだろ」


「掃きました」


「嘘だな」


「表現の違いですわ」


 アインは、もう一度ため息をついた。


 けれど、そのため息は重くなかった。


 むしろ、どこか昔を思い出すような音だった。


 アリシアは、それを聞いて満足そうに微笑んだ。


 父たちの舞踏は終わった。


 けれど、音楽はまだ続いている。


 誰かを退かせるためではなく。


 誰かが、自分の名で立てる場所を作るために。


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