幕間一 古の手紙
# 幕間一 古の手紙
辺りが薄暗くなっていた。豪奢な事務机には書類が積み重なり、燭台の灯が薄く揺れている。ふと視線を燭台に移し、再び書き掛けの書類へ戻す。そこに、一通の手紙が置かれていた。
いつの間に。
手に取ると、封蝋がこちらを向いている。
「これは……」
中央に百合の紋章。それ自体は珍しくもない。だが左右に押された紋章を見た瞬間、ガリウスの手が止まった。
目頭を揉み解し、もう一度確かめる。
間違いない。
慌てて呼び鈴を鳴らした。澄んだ音が邸内を駆ける。
随分と慌てた呼び鈴に、家令が何事かと姿を現す。
「代々語り継いでいる、例の棚の奥の書を持ってきてくれ。急ぎで」
「直ちにお持ちいたします」
家令は慌てずだが素早く動いた。
待つ間、ガリウスは手紙を見つめ続けた。宛名はない。差出人もない。ただ三つの封蝋だけがある。左右の封蝋より一段下がった位置に押された封蝋は、右回りに捻って封がされている。
まさか、私の代に見られようとは。
行方の知れない娘の安否を案じながら、会議が始まるまでの間に書類を少しでも処理せねばならぬと思っていた。妻は報告を聞いた途端気を失ってしまった。私も気を失えばこの書類から解放されるのではと根拠のない期待をしてしまう。だがそれどころではない。
「旦那様、お持ちしました」
書を受け取り、該当の頁を開く。
「やはり、本物か」
封を切りかけて、ガリウスは手を止めた。
これは、一人で読むべきものではない。
「侯爵と子爵が到着していれば、こちらへ通してくれ」
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家令が退室し、部屋に静寂が戻った。
ガリウスは書類を脇へ退け、椅子の背もたれに深く腰を預けた。
手紙は机の上に、置いたままにしてある。
封を切らずに。
廊下から、複数の足音が近づいてくる。
急いでいる。だが、乱れてはいない。昔から、この二人は急ぐ時でも足音を揃えることができた。悪童の頃から変わらぬ癖だと、ガリウスは思った。
扉が開く。
「けたたましく呼び鈴が鳴って何事かと思ったぞ」
ウィリアムだった。次いでカリウスが入ってくる。
二人とも、ガリウスの顔を見た瞬間に何かを察した。
「人払いを」
ガリウスが言うと、ウィリアムが扉を閉め、カリウスが部屋の隅を一巡した。
「いない」
「では」
ガリウスは机の上の手紙を、静かに前へ滑らせた。
「封蝋を見ろ」
二人が机へ近づく。
ウィリアムが先に見た。それからカリウス。
誰も口を開かなかった。
三人分の沈黙が、部屋に落ちた。
「……中央は百合だな」
カリウスがようやく言った。
「ああ。百合はダミーだ」
「分かってる。左右と」
「右の捻りだ」
また沈黙。
ウィリアムがゆっくりと身体を起こす。
「本物、なのか」
ガリウスは机の引き出しから、先ほど家令が持ってきた書を取り出した。
古い革表紙。年季の入った綴じ糸。頁を繰る手は、しかし迷いなく止まった。
「見ろ」
二人が覗き込む。
封蝋の形と、押し方と、捻りの方向と、その意味が、丁寧な筆跡で記されている。
「……」
「……」
「本物だ」
ガリウスは、静かにそう言った。
ウィリアムが立ったまま、片手で口元を覆う。
カリウスは天井を仰いだ。
「俺たちの代か」
「そうだ」
「親父に聞かされた時は、眉唾だと思っていた」
「俺もだ」
ガリウスも、正直に言った。
「婿入り前夜に先代から聞かされた時は、話が長いとしか思わなかった」
「同じく」
「まったく同じく」
三人は、ほとんど同時に息を吐いた。
笑う気にはなれない。だが、重すぎる顔もできなかった。
百年か、二百年か、あるいはもっと前から、誰かがこれを語り継いだ。当主の座に就いた者だけに、こっそりと。それが今、自分たちの前に置かれている。
ウィリアムが低く言った。
「……信じておくべきだったな」
「今更だ」
「今更でも言わせろ」
カリウスが小さく鼻を鳴らした。
「封を切るぞ」
ガリウスは手紙を手に取った。
誰も止めなかった。
慎重に、だが迷わず封を切る。
中から現れたのは、上質できめ細かい紙だった。植物紙だ。だが指先に触れるだけで分かる。この時代のものとしては、飛び抜けて上質だった。
紙を広げる。
文字は、古ベルカ語ではなかった。
現代語で、整然と書かれている。差出人の欄に、二つの名があった。
アイン・ジ・アークライト・ベルカ。
クラウディア・フォン・アークライト。
「……」
ガリウスは読んだ。
読み続けた。
「なんと書いてある」
カリウスが我慢できなくなって聞いた。
ガリウスは一度、紙から目を離した。
「リシアは生きている。ステファニアも。セラも」
カリウスの表情が、かすかに動いた。それだけだった。
「怪我は」
「ある。だが命に別状はない。治療済みと書いてある」
「続きは」
ウィリアムが促す。
「襲ったのは帝国の偽装兵だ。頭目は捕らえてある。証拠と自白の内容がここに列記されている」
ウィリアムの目が細くなった。
「それから、護衛の遺体は丁重に保管しているとある。日時と場所を指定してもらえれば届けると」
部屋の空気が、少し変わった。
ウィリアムが静かに言った。
「……丁重に、か」
「そう書いてある」
カリウスが書から目を上げた。一瞬だけ、手が止まった。すぐに戻る。
「最後は」
ガリウスは続けた。
「帝国に、ファーランドへの動員の兆しがある。それと——暫くの間、三人を預かることができると書いてある」
部屋が静まり返った。
燭台の炎が、揺れる。
最初に動いたのはガリウスだった。
立ち上がり、一歩。
二歩。
そのまま、誰も頼んでいない何かを始めた。
踵を返し、また一歩。両手がわずかに広がる。足が、リズムを刻む。
ウィリアムとカリウスは、黙って見ていた。
「……何をしている」
「踊っている」
「見れば分かる」
「では聞くな」
しばらくして、ガリウスは止まった。
何事もなかったように椅子へ戻る。
ウィリアムが頭を抱えた。
「あと半年」
「何が」
「あと半年早ければ——」
そこで言葉が詰まった。
拳が、机を叩く。
「あと半年早ければァ……!」
叫びではなく、呻きだった。
ガリウスは黙って見ていた。ウィリアムが何を嘆いているかは、聞かなくとも分かる。
カリウスは既に手紙を手に取り、黙々と内容を精査していた。
「証拠の列記、十四項目。自白内容、整合している。動員の兆しは具体的な数字が三か所」
「カリウス、お前の娘が重傷だったと書いてあるぞ」
「治療済みだ」
「……」
「読め。ちゃんと書いてある」
カリウスは顔も上げなかった。
ウィリアムが額を机に打ちつけた。静かに、もう一度。
「あと半年……」
ガリウスは窓の外へ目を向けた。
夕闇が、城下を覆い始めている。
「では、動くか」
「動く」
カリウスが手紙を置いた。
「帝国への対応は急ぐ。ただし、この手紙の出所は伏せる」
「当然だ」
「三人が戻るまでは、できる限り穏便に」
「戻らなかった場合は」
カリウスが、初めてガリウスを真っすぐ見た。
「戻る」
断言だった。
「書いてある。預かれると。預かれると書いた相手が、手放すはずがない」
ウィリアムが顔を上げた。目が、少し赤い。
「……そうだな」
「そうだ」
ガリウスは立ち上がった。
積み上がった書類が、また目に入った。
片付けるのは、後回しにする。




