第九夜 空腹の作法
第九夜 空腹の作法
最初に試したのは、山だった。
端末の画面に触れると、草原の向こうにあった丘が遠ざかり、代わりに高い山並みが現れた。
白い峰。
青い空。
頬を撫でる風は少し冷たくなり、どこか雪の匂いまで混じっているように感じられる。
「……本当に変わりましたね」
ステファニアが、思わずという様子で呟いた。
リシアも、端末を持ったまましばらく言葉を失っていた。
草原の病室。
そう説明された場所が、今は山の見える高原になっている。
窓もない部屋の中であるはずなのに、遠くの稜線には雲がかかり、足元の草は先ほどより短く、乾いたものへ変わっていた。
「次は、これでしょうか」
ステファニアが画面の一つを指で押す。
ざあ、と音がした。
風ではない。
波の音だった。
視界の先に、海が広がる。
砂浜。
白い波。
空を映したような青い水面。
潮の匂いまでした。
「海……」
リシアは思わず立ち上がりかけ、すぐに寝台へ手をついた。
身体がまだ重い。
「リシア様」
「大丈夫です。少し驚いただけです」
それから二人は、しばらく端末を触り続けた。
森の中。
頭上を覆う枝葉の間から、細い光が落ちる。
鳥の声は草原より近く、地面には柔らかな落ち葉が敷かれていた。
草原。
最初の景色に似ていたが、花の色が違った。
風も少し暖かい。
麦畑。
金色の穂が、見渡す限り波打っている。
風が吹くたび、世界全体が柔らかく揺れた。
そして。
「……これは、何ですか」
ステファニアが、さすがに声を失った。
二人のいる寝台の周囲は、白い石造りの広間に変わっていた。
だが壁はない。
眼下には雲が広がり、遠くに浮かぶ塔と橋が見える。
空の中に城があるような景色だった。
リシアは端末を見下ろした。
「天空の城、でしょうか」
「そういう場所が、実在するのでしょうか」
「分かりません。ですが、アークライトなら作れそうな気もします」
二人はしばらく黙った。
否定しきれないことが、少し怖かった。
その時、端末の画面がふっと切り替わった。
風景の選択肢が消え、代わりに別の表示が現れる。
文字が並んでいた。
リシアは画面を覗き込む。
「これは……食事の、献立でしょうか」
丁寧な文字だった。
少なくとも、読める。
焼いた肉。
柔らかく煮た野菜。
白いパン。
果実水。
温かい粥。
だが、ところどころに見慣れない文字が混じっていた。
完全に読めないわけではない。
むしろ、少し古い。
リシアは記憶を探る。
「以前、図書館で読んだ文献に、これと似た文字がありました。かなり古い文章でしたが」
「ベルカの文字、ということでしょうか」
「おそらくは。今の文字に合わせてありますが、ところどころ古い形が残っています」
ステファニアは画面を見つめた。
そして、少しだけ眉を寄せる。
「食事、ですか」
「はい」
リシアも同じものを見ていた。
誰とも知れぬ者から提供される食事を口にする。
普通なら、ありえない。
まして自分はファーランド公国公女。
ステファニアは侯爵令嬢。
毒。
薬。
呪い。
拘束。
交渉材料。
考えるべき危険はいくらでもある。
だが。
リシアは、そっと腹部に手を当てた。
先ほどから、内側より発せられる抗議は、いよいよ看過しがたい段階へ移行しつつあった。
長時間の逃走。
魔力枯渇。
覚醒後の緊張。
そして、今ようやく訪れたわずかな安堵。
そのすべてを踏まえたうえで、腹部方面からの要求は、早急な対策を要する深刻な局面に達している。
要するに。
とても、お腹が空いていた。
「リシア様」
ステファニアが静かに言った。
「はい」
「食事を取るべきだと思います」
「……そうですね」
「ただし、同じものを選んでください」
リシアは顔を上げた。
ステファニアの目は真剣だった。
「私が先に口にします」
「ステファニア様」
「本来ならセラの役目です。ですが、今は私しかいません」
リシアは言葉に詰まった。
ステファニアは、柔らかく微笑んだ。
「ご安心ください。危険があると決まったわけではありません。ですが、公女殿下が先に召し上がるわけにはまいりません」
「ここでまで、そのようなことを」
「ここだからこそです」
その声は穏やかだったが、譲る気配はなかった。
リシアは、しばらくステファニアを見つめる。
そして、小さく息を吐いた。
「分かりました。同じものを選びます」
「ありがとうございます」
「ただし、少量だけです。何かあればすぐに呼び出します」
「承知しました」
二人は端末を覗き込んだ。
献立は、どれも不思議なほど身体に優しそうだった。
森で消耗した者に出すなら、重すぎるものは避けるべきだ。
おそらく、そういう判断がされている。
「粥がよいでしょうか」
「消化には良さそうです」
「では、温かい粥と、煮た野菜。それから果実水を」
「私も同じものを」
ステファニアが同じ項目を選ぶ。
端末が淡く光った。
何かが、静かに受け付けられた気配がした。
リシアは思わず周囲を見回す。
「どこから来るのでしょう」
「扉でしょうか」
「この部屋の扉がどこにあるのか、まだよく分かりません」
「壁から出てくる可能性もあります」
二人は同時に壁を見た。
今のアークライトなら、十分ありえる。
少しして、草原の一角が揺らいだ。
灰白色の服を着た女が、静かに入ってくる。
手には盆を持っていた。
その上に、湯気の立つ器が二つ。
小さな皿が二つ。
透明な杯が二つ。
「お食事をお持ちしました」
女は寝台の近くへ盆を置いた。
「魔力枯渇後ですので、消化の良いものにしてあります。熱いのでお気をつけください」
食事の匂いが、ふわりと広がった。
それは、とても優しい匂いだった。
リシアの腹部が、再び主張を強める。
今度は、かなり明確に。
ステファニアが一瞬だけリシアを見た。
聞こえたのかもしれない。
リシアは何も言わなかった。
何も言わないことにした。
「ありがとうございます」
ステファニアが先に礼を言う。
女が一礼して退室すると、二人は器を見つめた。
温かい粥。
柔らかく煮た野菜。
淡い色の果実水。
ステファニアが匙を取る。
「では、私から」
「無理はしないでください」
「もちろんです」
ステファニアは、ほんの少量を口に運んだ。
ゆっくりと味わい、飲み込む。
しばらく待つ。
何も起きない。
「……美味しいです」
その一言は、少し意外そうだった。
リシアは思わず笑いそうになった。
「毒見の感想としては、少し正直すぎませんか」
「申し訳ありません。ですが、美味しいものは美味しいので」
ステファニアはもう一口、今度は野菜を食べた。
また少し待つ。
「問題なさそうです」
リシアは匙を取った。
温かい粥を、そっと口へ運ぶ。
優しい味だった。
濃すぎない。
薄すぎない。
身体の中に、ゆっくり熱が戻ってくる。
リシアは目を伏せた。
自分がどれほど空腹だったのか、その一口でようやく分かった。
「……美味しい」




