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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門


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第八夜 患者です

第八夜 患者です


 医療集中管理室は、静かではなかった。


 声を荒げる者はいない。

 足音を乱す者もいない。

 機器の警告音も、今は落ち着いている。


 だが、灰白色の服を着た女たちの間には、妙な熱があった。


「対象一、歩行後のバイタル安定。魔力枯渇後の補助剤反応、予測値を上回っています」


「対象二も同様です。投与量は抑制設定。なのに神経伝達、筋出力、魔力回復補助の立ち上がりが速い」


「過剰反応を避けるため、標準より効果を落としたはずですが」


「落とした結果でこれです」


 短い沈黙。


「薬剤耐性が低い、という解釈は?」


「あり得ます。普段から補助剤を使っていない個体が投与を受けた場合、反応が大きく出ることはあります」


「ただ、それだけでは説明しきれません。投与量は抑制設定です」


「元々の受容能力が高い?」


「その可能性もあります。薬剤が効いているというより、本人側の回復系が薬剤を増幅しているように見えます」


「つまり、普段薬を飲まない人間が薬を飲んで効きすぎたのか、元々の能力が高くて薬の効果が跳ねたのか」


「あるいは、その両方」


「……現地人、ですよね」


「現地人です」


 それから、別の端末の前にいた女が、透明な医療ポッドを見た。


 中では、セラが眠っている。


 医療用の液体に全身を浸され、衣服も鎧も外されていた。

 呼吸補助の細い管と、いくつもの計測光だけが、彼女の身体を静かに囲んでいる。


 騎士だと聞いていた。


 だが、その身体つきは、リシアたちを守って剣を振るっていた者の印象とは少し違っていた。

 妙に筋肉量が少ない。

 鍛えられていないわけではない。必要な芯はある。

 けれど、長年剣を振り続けた騎士にありがちな硬さや厚みが、ほとんど見えない。


 むしろ、貴族の令嬢と言われた方がまだ納得できるほど、線はなめらかで、女性的だった。


 そして何より。


 傷がない。


 古傷が、ないのだ。


 女性騎士として活動していたなら、細かな傷跡のひとつやふたつはあって当然だった。

 剣の稽古。鎧擦れ。魔獣との戦闘。野外行軍。転倒。火傷。矢傷。


 その痕跡が、どこにもない。


 右肩口から胸元へ抜けた深い傷だけが、今そこにある。

 それ以外の肌は、まるで傷ついたことなど一度もない貴族令嬢のように綺麗だった。


「……騎士、ですよね」


「記録上は」


「この身体で?」


「この身体で、です」


 右肩口から胸元へ抜けた傷は、すでに危険域を脱していた。

 組織の再生は進み、神経接続も安定し始めている。


「対象三、再生速度さらに上昇。標準個体比、五・七」


「五・七?」


「補助出力を下げていますよね」


「下げています」


「下げて、これ?」


「下げて、これです」


 灰白色の女たちの目が、少しだけ輝いた。


「細胞サンプル、もう少し欲しいですね」


「血液も。再生開始直後と安定後で比較したいです」


「筋組織も見たいです」


「神経組織も」


「可能なら臓器反応も」


「いっそ、全身を――」


「おやめなさい」


 優しい声だった。


 だが、その一言で医療集中管理室の空気が止まった。


 医療グループ全体を指揮するメディナが、操作していた機器から手を離し、ゆっくりと後ろを振り返っていた。


 淡い灰白色の長衣。

 袖口には医療班長を示す銀の細線。

 柔らかな目元。

 穏やかな声。


 だが、誰もその声に逆らおうとはしなかった。


「患者を解剖するなんて」


 メディナは微笑んでいる。


 微笑んでいるのに、目が笑っていない。


「いけません」


 誰かが、小さく喉を鳴らした。


「まだ、とは申し上げておりません」


「メディナ主任」


「はい」


「今、まだ、と」


「言っていません」


「言いました」


「聞き間違いです」


 メディナはにっこりと微笑んだ。


「聞き間違いです」


 二度目は、確認ではなかった。


 命令だった。


「無駄口を叩いていないで、仕事に戻りなさい。対象三は患者です。研究対象ではありません」


 そこで一拍置く。


「少なくとも、本人の同意を得るまでは」


 また沈黙。


「主任」


「何ですか」


「その言い方ですと、同意を得ればよろしいように聞こえます」


「同意を得た上で、倫理審査を通し、殿下と副司令の承認を得て、本人がいつでも拒否できる条件を整えた場合に限ります」


「つまり、可能性はありますね」


「仕事に戻りなさい」


「はい」


 医療班の女たちは、それぞれの端末へ戻っていく。


「ちぇー」


「聞こえています」


「はい」


「やはり興味深い……」


「聞こえています」


「はい」


「対象三の細胞活性、論文三本分はありますね」


「聞こえています」


「独り言です」


「独り言はもう少し小さく」


「はい」


 メディナは小さく息を吐き、機器へ向き直った。


 透明な医療ポッドの中で、セラは静かに眠っている。


 患者。


 そう、患者だ。


 助けるべき人間であり、守るべき生命であり、決して勝手に切り開いてよいものではない。


 メディナは端末に指を滑らせる。


 対象三。

 セラ。

 自己修復反応、標準個体比五・七。

 細胞活性化能力、想定外。

 強化因子、古い規格に近似。

 母系譜因子、ファーランド分岐系統。


「……それにしても」


 メディナは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「やはり、セラという対象三の細胞活性化能力は凄いわね」


 運ばれてきた時点では、対象三はレッドだった。


 だが、医療ポッド投入直前に心拍が消失した瞬間、メディナは判断を切り替えた。


 トリアージ、ブラック。


 冷たい判断だった。

 だが、医師として間違った判断ではなかった。


 右肩口から胸元へ抜けた深創。

 大量出血。

 呼吸停止寸前。

 搬送時点の血圧低下。

 そして、医療ポッド投入直前の心拍消失。


 むしろ、あの状態でまだ温かかったことの方がおかしい。

 もっと早い段階で冷たくなっていても不思議ではなかった。


 だから、心拍が戻るとは思わなかった。


 正式記録には、循環律動再同期処置と残る。


 だが、現場でそんな長い名を呼ぶ者はいない。

 あの瞬間、メディナが口にしたのも、ただ一言だった。


 通電。


 一回目は反応なし。

 二回目で再捕捉。


 そこから先は、メディナの知る死にかけの人間の反応ではなかった。


 組織が、粘った。

 細胞が、崩壊を拒んだ。

 補助剤に反応し、医療ポッドの出力に追いつき、やがてそれを追い越し始めた。


 何が起きているのか。


 知りたい。


 医師として。

 研究者として。

 そして、二度と同じものを見逃さないために。


 端末の片隅に、小さな画像が開いていた。


 光学顕微画像。


 救命処置の合間に採取した、ごく微量の細胞片だった。

 そこへ、急ごしらえの試薬を加えている。


 本来なら、こんな短時間で反応を見るようなものではない。

 試薬も、安定性を確認してから使うべきものだった。


 だが、メディナは作った。

 作ってしまった。


 細胞の反応を、一刻でも早く見たかったからだ。


 画像の中で、細胞が淡く光る。

 壊れかけた組織が、周囲の因子に反応し、わずかに形を取り戻していく。


 メディナの瞳に、薄い光が映った。


 柔らかい目元。

 穏やかな横顔。


 けれど、その奥にほんの少しだけ、熱があった。


 医師の慈愛ではない。

 研究者の喜びでもない。


 未知を見つけてしまった者の、危うい光だった。


「……本当に、凄い」


 倫理は守る。

 守るが、観察はする。


 端末の隅には、すでに三名分の検体記録が並んでいた。


 リシア。

 ステファニア。

 セラ。


 血液。

 皮膚細胞。

 毛根。

 唾液。

 魔力反応残滓。


 救命処置に必要な範囲で採取された、最低限のサンプル。


 最低限。


 少なくとも、書類上はそうだった。


 メディナは記録項目をひとつ追加する。


 比較培養。

 再生反応追跡。

 補助剤反応差分。


 それから、何事もなかったように画面を閉じた。


「対象三の神経接続を再確認。出力はもう一段下げます。対象一、対象二の補助剤反応も継続観察。過剰回復で負荷が出ないように」


「了解」


「それと」


 メディナは、医療班を振り返らずに言った。


「解剖という言葉は、患者の意識がある場所では絶対に使わないように」


「患者の意識がない場所では?」


「私の耳に届かない場所で」


「主任、それは許可ですか」


「仕事に戻りなさい」


「はい」


 医療集中管理室に、再び機器の低い駆動音が満ちる。


 優しく。

 正確で。

 少しだけ危ない。


 それが、アークライト医療班だった。


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