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空に浮かぶプール  作者: 野足夏南
3/4

「あー落ち着く」

私は声に出す。キャップ越しに半分だけ浸った髪の毛が、毛細血管みたいに水分を吸い上げてくる気がする。その水分でまた私は生き返る。

「落ち着くか」

ヨコヤマはなにやら本を読みながら適当な相槌を打つ。人によってはこの落ち着く時間は退屈と呼べるものかもしれない。しかし、それでも私はこの時間ほど心が寛ぐ時間はないし、私の適当な言葉に、適当な返事を返すヨコヤマとの緩いラリーも、私の気持ちをほぐれさせる。

気が付くと私は何かに焦っていて、息が詰まっている。

「何読んでるの? 」

私はさっきから集中して本を読むヨコヤマに声を掛ける。

「タッチ」

表紙を私に向ける。それは漫画だった。カバーの白地がちょっと黄ばんでいて、時間の流れを感じさせる。

「面白いの? 」

「うん。青春だな、っていう感じ」

「青春ねぇ」

私はわざと老けたおばさん口調でそう呟く。そこでまた扉が開く。タキチだ。

「プール部、暇?」

「活動中だけど」

私は答えた、にも関わらずタキチは入ってきた。

「あっちー」

ヨコヤマがやるようにタキチが胸元をパタパタする。ワイシャツ越しに肌着が透けているが全然セクシーじゃなくて、私は真顔になる。

「活動中ですけど? 」

「いやいやいや」

謎の否定をしながらタキチはヨコヤマの近くに胡坐をかいて座った。ヨコヤマは今にも、うぜえ帰れよ、くらい言いそうだったが言わなかった。

「何読んでんのかなーってね」

「タッチ」

「今更!? それ超名作じゃん。今どの辺? 」

「うるせーよ」

「理科部はどうしたの?」

私は訊く。

「今工作中なんだけど、後輩たちに作らせてるから暇になっちゃって」

「暇なやつが集まるとこじゃねーんだよ」

漫画を片手に睨むヨコヤマは、説得力に欠けた。

「何作ってるの?」

「ん、ロケット」

「えっ? 」

私は浮かぶのを止める。

「ランチャー? 」

「はっ? いやペットボトルのやつだけど。見た事ない?テレビとかで」

何となく記憶がある。

「あの空気で飛ばすやつか」

「正確には空気と水ね。力っていうものには作用と反作用というのがあってね」

「うるせー読書の邪魔」

ヨコヤマが言う。

「とにかくそれの大きめのやつを作ってて。結構飛ぶよ。今度校庭で飛ばすんだ」

私は正直、少しわくわくした。そして、それを語るタキチが少し羨ましく映る。タキチには好きなことがある。

 

帰り道、今日は私達にタキチがくっついて来て、え、なんでいんの?とか言いながらもなんとなく三人で歩いていた。

真夏の日差しが雲に隠れて空気はちょっと優しくなり、代わりにどす黒い雲が現れたかと思うと、ぽつぽつ雨からすぐにどざぁと夕立に変わった。

私達は慌てて鞄を盾にして、雨の矢を避けながら雨宿り場所を探した。テラス席しかないかき氷屋さんがあって、でもそのお店本体の庇の下になんとか入れてもらった。ヨコヤマは抹茶あずき、私はミルク苺、タキチはみぞれをそれぞれ頼んで、並んで立ったまま食べた。シャリシャリシャリと、かき氷の崩れる小気味良い音が、庇を伝って落ちる雨水の音と重なる。私達は束の間、水の世界に浸った。

「夕立に、追われて食べる、みぞれかな」

タキチが俳句みたいに言う。

「かな、がムカつく」

とヨコヤマ。私もうなずく。でも、少し風流を感じてしまったのも事実だ。

「ていうかみぞれ好きなの? 私、一番頼まないやつ」

「なんか色ついてるの嫌なんだよな。氷って水になるだろ。だって緑色とか赤い雨降ってきたら怖いだろ」

「変なことを、言う君に、ムカつく」

「六五四で悪口を言うな」

私達は笑った。

「タキチは将来の夢とか、ある?」

ひとしきり笑った後で、私は訊く。雨はだいぶ小降りになって、もうすぐ通り過ぎそうだ。ヨコヤマが雨で崩れたメイクを直している。

「将来かぁ。理系で大学行くけど、その先はまだあんまり」

でも大学は決めているのか、と思うと私は一歩遅れていると痛感させられた。

「カミヤマは?」

いつの間にかタキチも私をカミヤマと呼んでいる。

「何にも。情けない話」

「情けなくはないだろ。そんなもんじゃね? まだ俺ら高2だし」

そういうタキチの横顔は、少し大人っぽい。雨のせいで前髪が額に張りついてはいるが。

「急いで勝手に範囲狭めちゃうのもな、結局また迷うことになるんじゃないか? 」

「そうかね」

私はそれでも、急いていた。なんだか体より先へ先へと、心ばかりが出ていきそうな気持で、雨が止むのを待っていた。


それからタキチはプールにちょくちょく顔を出すようになった。ヨコヤマも鬱陶しそうにしながらも、追い出したりはしなかった。タキチには不思議な力がある。なんていうかそれはパウダービーズのクッションみたいで、あんなにガリガリなのにそれみたいで、こっちが冷たくパンチを入れてもふわーっとゆっくり復元してしまって、なんだよこれ、と笑い出したくなるような、そんな空気を持っていた。

 私達は色んな話をした。中東の戦争やテロのことや、味噌汁の味が化学調味料だけで作れることや、面白い本のことや漫画のこと。タキチは実はコロンビアがやばいとか、一番の独裁国家はエリトリアという国だとか、そういうことを私よりもよく知っていたし、ここから先は下級生じゃできないんだよとか言いながら、その場でロケットの部品を作ることもあった。その手さばきは細長い指を持つだけあって器用な物で、これが空を飛ぶと思うと、私も、きっとタッチを読みながらそれを見ていたヨコヤマも、わくわくしていたはずだった。

 そしてまたある日のこと。私は相変わらずプールに浮かんでいて、雲の一つ一つを動物に例えながら、動物園の功罪について考えていた。ヨコヤマは、タッチの最終巻を読んでおり、おもむろに本を閉じた。

「タッチ面白れー! 」

ヨコヤマは立ち上がった。

「そんなに? 」

私は笑って訊く。

「泣けるし笑えるしすげーよ」

「ヨコヤマ、泣くことあるんだ」

私がいたずらっぽく言うと、一瞬しまったという顔をしながら、

「泣きそうになった、ってこと」

とぶっきらぼうに言い直した。そこにタキチがいつものように入ってきた。けれど、その表情はいつもと違って、暗さと怒りのこもったものだった。

「どうしたの? 」

私は慌てて声を掛ける。タキチはうん、と言ったきりしばらく黙っていた。

私とヨコヤマは目を見合わせる。

「……壊された」

「え? 」

「ロケット、壊された」

「誰にだよ? 」

ヨコヤマの表情が気色ばむ。

「坂下たち。化学室から出てくるとこ、うちの部員が見てた」

ショックだった。なんだか、こんなこと言ったらタキチに悪いかもしれないけど、タキチ以上にショックを感じている気がした。

「持ってきた」

タキチはそう言って、後ろから何かを引っ張ってきた。それがペットボトルロケットだと分かるまでに時間が掛かった。ペットボトルにカッターで穴を開けられ、本体部分はバラバラにされ、空気を送るチューブは切り裂かれていた。

私もヨコヤマも声を発せなかった。私達は普段こうやってのんびりと時間を浪費して、特に何もしていないけれど、その時間を頑張っていた誰かの努力が水の泡になるのを目の前にして、掛ける言葉が見つからなかった。

 

その夜、私はお風呂に潜った。ドボォンと音がして、目の前はプールより白っぽくて当然温かい。その後シュワシュワと空気が上に昇っていく音がして、後は体の中の音だけになる。グググググと耳の中に音が反響する。胎内に戻りたい気分だった。それか、このままカプセルに入って200年くらい保存されて生き返れないだろうか、と思う。明日、タキチやヨコヤマの暗い表情を見るのが嫌だ。なんであんなことするんだろう。善悪で測ればそれは絶対に悪で、それもギャングに比べたら全然だよとか言ってたのに、私は今普通にショックを受けて沈んでいる。平穏は平穏の中に、やっぱり闇を抱えていて、誰かが傷ついている。例えば、黒沢さん。一年生で学校を辞めた黒沢さん。彼女はいじめられていた。それは聞いたところによればとても些細な理由で、朝の挨拶を返さなかったとかそういうことで、彼女は無視されるようになった。私は見て見ぬふりをしていたけれど、本当はちゃんと見ていて、助けてあげたいのに動かない自分を憎んでいた。私は黒沢さんが挨拶を返せなかった理由が分かる気がしていたのに。私達は善悪の基準が分からないから、目の前の人がどうであるか分からなくなることがあって、全てが怖くなって、そうすると挨拶程度のことすらできなかったりすることがある。きっとそのくらいの、誰にでもある小さい段差に、黒沢さんは躓いただけだったのに。手を伸ばせば救ってあげることができたはずなのに。そんなことを、私はいつの間にか忘れていたのか。

私は顔を上げる。心臓がどきどきしていた。

平穏だなんて口にするばっかりで、私はただ、自分ばかり安穏とした日向にいただけだった。最低だ。

その日はなかなか眠れなくて、鞄から進路希望の用紙を取り出して、夜中までそれと向かい合っていた。だけども、やっぱり何も書けなくて、机に突っ伏したまま、私は眠っていた。


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