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空に浮かぶプール  作者: 野足夏南
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 空に赤が混じり始める頃、私とヨコヤマは帰る。制服を着ると途端に夏が圧し掛かってくる。国道はこの時間になると少し混むけれど、それでも大した渋滞にはならず、色とりどりの車が私たちの横を走り抜けていく。栗江川という生活排水色した川が国道に沿って流れていて、水中には魚影が見える。空ではひょろろと声をあげながら、鳶が丸く弧を描いていた。

「あっちー」

ヨコヤマが胸元をパタパタしながら言う。

「あっちーね」

私も額の汗を拭う。ヨコヤマの制服姿は、金髪の頭と相まっていわゆるギャルみたいで、その上、最近プール部にいるせいで日に焼けてきている。一昔前の渋谷にいる女子高生みたいだ。そのことを言うとヨコヤマは、

「カミヤマはいいね、焼けなくて」

私は日に焼けると赤くなり、黒く残りにくい。それでもこの夏は、少しは黒くなっているはずだ。歩いている私たちをバスが追い越していく。バスは陽炎の中に突っ込んでいき、ゆらゆらと揺れる。

「ヨコヤマ、今日帰るの」

「帰るよ。四日振り」

ヨコヤマは、家出少女だ。家にいる日より、友達の家に泊まる日の方が多い。私の家には来たことがないが、そういう時に泊めてくれる友達が、ヨコヤマにはいるらしい。ヨコヤマの家にはお父さんと、義理のお母さんがいる。私に会わせてはくれないが、全然悪い人ではないらしい。なのに、どうしてか、ヨコヤマは外泊を繰り返す。

「帰るとさ、泣きそうな顔するんだよな、ヨシコさん。マジあれがきついわ」

ヨシコさんはお母さんの名前だ。ヨコヤマが顔をしかめる。あちーと言いながらまた胸元をパタパタする。その胸元からは私より大きめの胸が包まれた、ピンクの下着がチラチラと見えて、私は何故か少しどきっとする。

「今日は、泣きそうな顔しないといいね」

私はヨコヤマの胸元から目を逸らして言う。そう願いたいわマジで、とヨコヤマが言った。


私の家はバスで15分のところにある二階建ての一軒家で、小さな庭があって、そこでお母さんがゴーヤを育てている。門を開けて、そのゴーヤの青臭い匂いを嗅ぎながら玄関に入る。ただいま、と言うと台所から母のお帰り、が返ってくる。二階の自分の部屋に鞄だけ置いて、私は台所に行く。

「お帰り。赤いねぇ、顔」

お母さんが言う。カレーのいい香りがする。

「プール部やってきたからね」

「そのネーミング。なんかプールの水質検査とかしそうね」

それは理科部の遊び、とは言わない。

「じゃあ眠くなっちゃう前に、勉強しちゃいなさい」

お母さんは教育熱心というほどではないが、勉強しなさいが口癖だ。私は他の子ときっと同じように、それがちょっと嫌で聞こえないふりをして、冷蔵庫から麦茶の瓶を取り出す。リビングで、ガラスのコップで飲む。テレビが点いていて、またテロがあって5人が死んだと言っている。それから、線路沿いの雑居ビルが火事になり、電車も止まったというニュース。

「やだ、お父さんの乗ってるやつじゃない」

お母さんは電車のニュースに反応して、濡れた手を拭いて、携帯でメールを打ち始める。。私はなんとなく、汗を掻いたガラスのコップ越しに、窓の外を覗いてみる。私の視界が茶色掛かって、フィルム写真のネガのようだ。小さい頃、現像された写真よりも、ネガフィルムを見るのが好きだったことを思い出す。そこには小さな小さな私や風景が映っていて、異次元の世界に閉じ込められている自分がそこに残されているみたいで、不思議だった。

 お父さんは7時頃帰って来た。いや参ったよと言って、やっぱり火災の影響は受けたみたいだけど、いつもと時間はあまり変わらない。

皆揃って、夕食を食べ始める。私はまずカレーのルーだけ掬って口に運ぶ。美味しい。スパイスの香ばしさと野菜の甘さ、それから肉の旨味がつまっている気がする。

「またやってる」とお母さんが言う。

「あんたそれでルーばっか減っちゃって、ご飯残すんだからやめてよ」

少し怒られる。こんなことで怒られるなんて平穏。そういえばさっきのテロはインドだった、と思い出す。インドの人達はどんな気分で、今日のカレーを食べているのだろう。

「そういえば、あれ書いたの? 」

お母さんが訊く。今私が一番訊かれたくないことを、母親と言うのは的確に突いてくる。

「あれって? 」

私はわざととぼける。

「進路のやつ。紙出すんでしょ」

それは秋の三者面談で使うための、進路希望を書いて提出するやつだ。高校2年生の私にとって大事な紙。

「まだ書いてない」

私は正直に答えて、カレーを口に運ぶ。

「まだ大体でいいんだから、書いちゃいなさいよ。自分の成績で行けそうな大学書いて」

「大学行くかどうするかで悩んでるから、書けないんじゃない? 」

お父さんが言う。

「だって、大学行かないでどうするの。就職するの? 」

「いや別にやりたいことがあるんだったら、それもいいんじゃないか? 」

「でも高卒で就職厳しいじゃない、私達の頃とは違うんだから」

また始まった。私不在の私の将来についての議論。私はまたルーだけ掬って飲む。美味しい。このまま段々と、話は自分達の学生時代の話にすり替わっていくのがいつものパターン。

今すぐ何かなりたいものがあるわけではない。かといって、とりあえず大学とか専門学校というのを決めろと言われてもそれはそれで、エントリーしてないのに、ゲートに入れられる馬みたいで、気が進まず、その結果、私は何も書けずにいるのだ。

まぁとにかくゆっくり決めな、というお父さんの一言で、今日の議論は終わった。私は頷いて、ご飯を少し残してお母さんに、ほらーやっぱり、と怒られた。

部屋に戻って、ヨコヤマに連絡してみる。『どうだった?』と。しばらくして返事が来た。『いつも通り+オトンに怒られた』と。


 次の日の授業中、また坂下君が暴れた。私とヨコヤマのクラスは理科の授業中で、この理科の元木先生がとても良いトーンで元素記号について語るので、私達は目を瞑ってその声に耳を澄ませていたのだけれど、突然廊下からウオーンと音が響いて目を覚ました。

「坂下!」

学年主任の野口先生、通称ヒデヨの声が響く。でもヒデヨより先に現れたのは原付バイクだった。乗っているのは坂下君と、その手下みたいな名前の分からない男の子で、坂下君は私達2組の前でわざとバイクを止めて、ウオンウオンウオンと右手のハンドルのところを捻ると出るのであろう音を鳴らして、走り去る。それから数秒遅れてヒデヨが走っていく。元木先生が「ううん」と言って口をへの字に曲げているのが、なんだか子供みたいだと思った。こうなるとクラスの皆、授業そっちのけで立ち上がって校庭に出たバイクを見てしまう。校庭をぐるぐると原付バイクは走る。ヒデヨが追いかける。なんか、北野武の映画でこういうのなかったっけ、あれは自転車だったよと誰かの会話。怖ーい、という声、それから誰かが、坂下も良いとこあるんだけどなぁ、と分かってる風に言う。

 私は「良いところあるんだよ」的発言が苦手だ。そんなこと当たり前過ぎて、何の判断基準にもならないのだ。殺人犯だって、朝蜘蛛を殺さないで見逃すこともあるだろうし、池の鯉に餌をあげたりしたことだってあるでしょう。だから人の善悪の基準はどこか別のところにあるべきであって、でもそれが難しい。とりあえず坂下君について、私は怖いと言った誰かに賛成するけれど、ギャングや軍隊やテロリストに比べれば生易しいのだ。私達は本当の怖さすら知らないし、知ろうともしてない、そんな気がして目の奥がきゅーんとなって、体育館の上のプールを見る。あぁ、浮かびたい。早くあそこに浮かびたい。


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