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空に浮かぶプール  作者: 野足夏南
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 酸っぱい臭いがする。蛇の胃袋に飲み込まれたみたいに。私の体は胃酸の上にぷかぷかと浮いて、その内全部溶けてしまいそう。でも見えるのは胃壁ではなく、青空。梅雨明けからずっと続くこの青空は、全然ありがたみのないものになってきている。

「青空はもっと少なくていいよね」

私はプールサイドで鏡を見ながら化粧をしているヨコヤマに言う。

「なに? 」

ヨコヤマは全然聞いてなかったようで訊き返すが、私は独り言のように続きを言う。

「もっと、虹くらい貴重なものならいいのに」

「へへ、何の話」

ヨコヤマは化粧に戻る。ヨコヤマはいつもアイラインにこだわりがあって、念入りに念入りにそれを引く。上手く引かれた時のそれは朝陽を背負ったなだらかな稜線のようで、綺麗だ。でも大抵失敗して延々引き続ける。ヨコヤマはそのままでも美人だ。どうしてそんなに念入りにやるの、と訊いたこともあるが答えは無いみたいだ。

 一方、私は長袖の水着を着て、プールに浮かんでいる。上手に力を抜いて、口を半開きにして。浮力のついた私は、なんだか許された気分になれるから。

 それにしてもここは平穏だ。ミサイルが飛び交わない。この間、テレビでやっていたけれど、ブラジルじゃギャングと警察の抗争でロケットランチャーを使うらしい。ロケットランチャーって、死ぬだろう。たくさんの人が死ぬ。その人には、たとえばそれが警官のおじさん一人として、両親がいて、兄弟がいて、奥さんがいたりして、その間には多分あっちの国では2、3人の子供を産みそう。そういう人々の悲しみは、どれだけのものなんだろう。同時に存在しているはずのそういう感情を、冷静に、惚けて、他人事して考えている私は世界から遠くて、やっぱり、蛇みたいのに飲み込まれてるんじゃないだろうか、既に。インターネットやSNSで世界中と繋がっていられるのに、どんな事実とも繋がっていないような、そんな歯痒さを感じる。

「平穏だね」

私はヨコヤマに言う。ヨコヤマは本名を横矢舞と言うのだが、横谷さんという女子もいるから皆からもヨコヤマと呼ばれている。ちなみに私の本名は神谷麻衣で、誰とも被っていないんだけど、ヨコヤマは私をカミヤマと呼ぶ。連帯意識というやつだろうか。

「おん? 平和ってこと? 」

今度は聞いていたようだ。

「そうとも言う」

「そう? いるじゃん、不良の坂下らへんとか」

不良の坂下君はこの学校じゃ一番の不良で、昨日も授業中、窓ガラスを一枚割って、警報器を鳴らした。彼のすることは私には分からない。自分でも分かってないんじゃないかと、私は思う。校庭に2台消防車が入ってきて、騒ぐ子達を見ながら私は思った。分かってないけど、彼は不良だから窓ガラスを割らなくてはいけない。そして、分かってないけどクラスの皆は、彼は不良だから、と納得して遠巻きに眺めているんじゃないだろうか。

「不良とギャングは違うよ」

私は気持ちを込めて言う。坂下君は人を殺すことはない。将来的にはともかく。だが、ギャングは余裕で殺すのだ。今、この瞬間にも。

「ギャング? 何? どっから出てきたの」

「ブラジル」

「ブラジルからギャング来てんの? やべーじゃん日本」

そうじゃなくて。私は言わない。ヨコヤマは笑っている。その時、プールサイドのドアが開いた。

「あれ」

立木が顔を出す。彼は『たちき』という名字だが言いにくく、皆からタキチと呼ばれている。タキチは性質の良いネズミのような顔をしていて、私の知る限り、皆から親しまれている。

「神谷? とヨコヤマ? なんで使ってんの」

「知らねーの? プール部」ヨコヤマが答える。

「プール部? 」

タキチはドアから半身を出した状態のまま考えている。面白い顔をしながら。

 プール部はこの春、担任の宮本先生に頼んで作ってもらった私達の部活だ。一応顧問は宮本先生だけど、夏休みまでの間なら、放課後自由に使っていいという許可の下、天気のいい日はこうしてプールを使っているだけの部である。決して水泳部ではない。どうしてそんなに宮本先生が優しいかと言うと、私の心臓は弁に少し欠陥があって、激しい運動はなるべく控えなければいけなくて、でも運動したいですと私が訴えたからだ。プールでの運動は心臓への負担も軽くて済むんです、という情報が宮本先生を動かした。本当は別に運動する気はなくて、何故か一緒に許可されたヨコヤマは水着すら着ない。

この心臓の欠陥はお婆ちゃん譲りだとお母さんから聞いたけれど、お婆ちゃんはまだ元気に生きているので、両親もあまり気にしていない。

「……まぁわかんないけど、ちょっといい? 」

「いいよ」私は浮かんだまま答える。

タキチはようやくそのガリガリの全身を現した。アブラゼミの鳴き声が一段と大きくなる。

「何しに来たの?」

「いや俺、理科部じゃん」

「知らねーよ」ヨコヤマがツッコむ。

「理科部なのね。で、プールの水質検査、しに来たの」

タキチは手に試験管を持っていた。

「おーいいね。理科部っぽいね」

ヨコヤマが言う。

その試験管でタキチはプールの水を掬う。恐る恐ると言った感じでしゃがみこんで。

「え、そういうのって業者がするんじゃないんだ」

私は言う。

「いやいや、もちろん正式には業者がやるんだよ。お遊びみたいなもんよ」

「至上最もつまらない遊びだな」

「理科部の人間には楽しいんです」

ヨコヤマに反論するタキチ。少し出た前歯。プールに似合わない青白い肌。私は立ち泳ぎをしながらそのやり取りを眺めていた。両手に試験管を持って手を広げるタキチは、天秤か何かにも見える。タキチがこっちを見た。

「プール部って2人だけ? 」

「うん。ねぇ理科部って他に何するの? 」

「他? 理科の実験だね。水質調査とか」

「水質調査しかないじゃん」

「だけじゃないよ。あの、栗江川の水質調査とか、あとは、そうね、まぁ色々。じゃあ戻るから。行くよ」

誰も引き止めてねーし、と言ってヨコヤマが笑う。私も笑った。


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