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次の日の朝、私は後ろから声を掛けられた。タキチだった。腫れた瞼をあまり見られたくなくて、避けるようにおはようと返した。蝉が鳴いている。木がざわざわと騒ぎ、それに負けないくらい元気よく高校生たちが坂を上がっていく。
「ロケットのこと気にしてくれてんだな」
タキチが言った。その声は、高揚しても沈んでもいない、いつものタキチの声だった。私はそう、と思ったけれどそれは黒沢さんのことも含め説明が難しい気持ちで、何も言えなかった。
「大丈夫。ロケットは作り直すから」
私はタキチを見た。タキチはガリガリの胸を張ってもう一度言った。
「ロケットは作り直せる。ペットボトルがこの世の中に何兆本あると思ってんだ馬鹿野郎」
私は笑った。なんか、かっこいいけどかっこ悪い、主に顔が。でも、かっこいい。
「その前にやることはやらなきゃな」
タキチはそうも言った。
「やること? 」
タキチはそれ以上答えなかった。その意味が分かるのは、昼休みに入ってからだった。
その時、私はいつものようにヨコヤマと向かい合ってお弁当を食べていた。教室の中は皆のおかずの匂いが混じり合っていて、どれも良い匂いで、少しだけ緩やかな気持ちになれる。その時、クラスメイトの津川君が走って教室に入って来た。この子も理科部だったかもしれない。
「タキチが坂下に文句言いに行くぞ!あいつ殺される!」
それは校庭の隅っこ、いつも坂下君たちが屯している場所で起こっていた。ひょろひょろの男が、地べたに座っている数人の男に睨まれながら、その真ん中、坂下君に何か言っている。坂下君の周りにいた手下達が立ち上がって、不良漫画のワンシーンみたいになった。
私はもう泣いていた。全然、ギャングと変わらないよ。暴力を手段にしている人達は。やっぱり怖い。タキチ、やめなよ。
坂下君が立ち上がった。蹴った。タキチのお腹を蹴った。私達は走っていた。やめてよ。暴力を受ける側はそれしか言えない。いつだって、やめてよ、と言う他ない。そしてそれは大抵の場合、受け入れられることはなく、道路に落ちた紙パックのジュースのように、踏みつぶされてしまう。
「寄ってくんな! 」
私達は、手下に足止めされる。先生が職員室から走ってくる。ヒデヨだ。
「謝れよ! 」
タキチは叫んでいた。坂下君がもう一度お腹を蹴る。顔を殴る。殴る。タキチの口の中が切れたみたいで、血の混じった唾が飛び、坂下君の白いベストに赤い点々ができた。
「俺の後輩たちに謝れよ! 」
タキチは反撃しなかった。出来なかったのかもしれないが、とにかくそれしか言わなかった。タキチはそれだけ言いたかったのだ。痛くても。怖くても。
そこで先生達が間に入った。ヒデヨに抑えつけられても坂下君はまだタキチに向かおうとしていたけど、もう二人男との先生が加わると、さすがに動けなくなった。私は目の前にいた、名前も知らない手下君の頬を張った。手下君はやり返してこなかった。頬を摩りながら、驚いた目で私を見ていた。
「なんで来たんだよ」
腫れている右目を氷で冷やしながら、タキチは言った。
「それかっこいいな。ガリガリのくせして」
ヨコヤマが言う。なんで来たんだよ、と真似をすると保健の先生もつい笑ってしまった。
「原田みたいだなタッチの」
「あ、全部読んだ? やっぱ原田だよなー」
分からない。私に分からない会話は止めて欲しいと思った。なんだろう、この感じ。
ひとしきり笑ってからタキチは言った。
「どうしてもあれだけ言っとかないとと思ってさ、後輩の手前。ちなみに職員室に先生呼びに行かせたのも俺。だからまぁ、そこまでやられないかなって」
「また壊されるかもよ」
私は言った。それが心配だった。
「また壊されたらまた作る」
タキチは答える。
「それだけじゃなくて、いじめとか」
私はそれの方がもっと心配だ。
「いじめしてるのは見たことないよ、坂下達が。悪いことはしてるけど、良いところもあるんだよ」
「私、その言葉嫌いなんだよ。どんな人だって悪いことばっかりじゃないけど、それじゃ善悪の基準なんて測れないじゃん」
「善悪の基準?」
きょとんとした顔で、タキチは私を見る。それから擦り傷で包帯を巻かれた右腕をじっと見た。そして呟くように言った。
「そんなの測れなくて当然だろ。神様じゃないんだから。他人のことなんて分からないよ。でも、こいつはどこまでやって、何はやらないかっていうのは、接してみれば分かるよ」
私はなんだか、呆然とした気分だった。タキチは私よりずっと大人なのかもしれないと思った。善悪の基準がどう、なんてどうでも良くて、一人一人の人間を知って、何が怖くて、何が怖くないかを判断している。私は世界のことを考えているふりをしながらその実世界と本気で向き合おうとしていなかったのだ。世界とは私が今生きている、この場所のはずなのに。でも、この人は、ちゃんとその中で生きている。
帰り道、私はヨコヤマと並んで歩いていた。
「今日のタキチさ、」私が言う。
「大人だったよね」
「大人?」ヨコヤマは眉根を寄せる。
「私みたいにぷかぷか浮かんでるんじゃなくて、ちゃんと地に足つけてる」
ふーん、とヨコヤマは言った。何か考えてる顔だった。片手に紙袋に入ったタッチを持って。
「ねぇ、それって今日返しちゃうの? 」
「そうだな」
「私も、読みたいな」
タキチと楽しそうに話していたさっきのヨコヤマが浮かんでくる。もやもやとしていた。
「読みたい」
「つってもなぁ」
そこで閃いた。
「ヨコヤマ、今日うちに泊まり来てよ! 」
「は? そんなの迷惑だからいいよ」
「うち大丈夫だから! 」
私はその場で電話をする。お母さんは少し戸惑った様子だったけれど、了解してくれた。
ただいまと言って玄関を入るとお母さんが珍しく玄関で出迎えてくれた。
「お帰りなさい。横矢さん? 初めまして。いつもうちの子がお世話になって」
「いえ、こちらこそ。ていうか済みません。いいんですか? 」
「いいのよ。びっくりしたけど、麻衣が友達泊めるなんて初めてだからお母さんなんか嬉しくて」
そう言ってお母さんはスーパーの袋をごそごそと漁り、
「パジャマ買っちゃったの。麻衣と色違い」
私は笑った。ヨコヤマは、いいですジャージ持ってますから、と必死だった。
夕食はまたしてもカレーだった。お母さんの得意料理はカレーなのかもしれない、と私は思う。お母さんには話していたけれど、お父さんは、初めての私の友達、しかもギャルみたいなメイクの子を見て、明らかにどぎまぎしていて面白かった。え、じゃあいただきます。
「麻衣、いつものあれやっちゃだめよ」
お母さんに先手を打たれたが、私は夕食の前から、ヨコヤマに最初はルーを一杯掬って飲むことをお勧めしていた。それを聞いたヨコヤマはラーメン屋みてーだなと言って笑っていた。早速それをやる。
「ああ、もう横矢さんまで」
お母さんはそう言うが、割と楽しそうだ。
「うめー!」
ヨコヤマが言ってからしまったという顔をして、あ、旨いです。と言い直したが、私はそこは美味しいです、でしょと思って笑った。お父さんお母さんも笑いを堪えていた。私も一口掬う。うめー。
順番にお風呂に入り、私の部屋へあがる。ヨコヤマは結局、私と色違いのパジャマを半ば強引に着せられた。横矢さん、すっぴんでも美人ねぇ。お母さんが正直な感想を漏らしていた。
私のベッドの上で二人寝転んでいるとヨコヤマは喋った。
「カミヤマの母ちゃんて美人だな」
「そんなことないよ」
「なんか、地味に美人だよ」
ヨコヤマには本気でそう見えるらしい。そうだろうか。でも世界の見え方は人それぞれだ。
「ヨコヤマの今のお母さんはどんな人? 」
ヨコヤマは少し言い辛そうに考えていたが、答える。
「雰囲気」
「雰囲気」
私はオウム返ししながら、まだ見ぬ、ヨコヤマの義母さんを思い浮かべてみる。網戸の向こうから、バイクの走る音が聞こえて来る。
「でも今日のタキチが言ってたの聞いて、明日は家に帰ろうと思って」
「タキチの? 」
「接してみなけりゃ、分かんないよな」あの言葉はヨコヤマにも響いていた。タキチはあんなひょろひょろで、前歯も少し出ていているのに良いことを言った。
「ヨコヤマって、タキチのこと好きなの? 」
私は訊いた。内心、ドキドキしていて、こんなの中学の修学旅行以来だなと思った。
「タキチ? 」
ヨコヤマは笑った。
「タキチは、無い」
「どうして? 」
あんなに楽しそうにプールサイドで話すのに。
「だって、あいつカミヤマのこと好きだよ」
天地がひっくり返ったのかと思った。私は天井に叩きつけられてまたベッドに戻った。
「そんなわけないじゃん」
「いやいやいや、見てりゃ分かるよ。だからあいつ頑張ったんだよ、坂下相手に」
「嘘だよ」
私の心臓はお風呂で潜った時みたいにどきどきしているが、これは命の危険が無いタイプのどきどきに思えた。恋をして死んだやつはいない。私は架空の名言を吐く。心の中で。
カミヤマはどうなの、とは聞かれなかった。ばれている。完全に。
「そ、それよりさ。ヨコヤマ進路希望の紙、出した? 」
私は話題を変える為に聞いた。
「出したよ」
天地は二度ひっくり返った。嘘でしょ。
「え、え、嘘でしょ」
「本当」
なんで、なんで。
「なんて書いたの? 大学? 」
「いや専門。保育士なるから」
ヨコヤマの顔が赤くなる。
「保育士なるの? 保育士って、子供を育てる、あの保育士? 」
「育てる……まぁその保育士しか無いよな」
私は少し焦る。
「そんなのいつの間に決めてたの」
「小学生の頃から」
そんな頃からなりたいものがあったなんて凄い。私は、小学生の時何してたんだろう。
「うち弟とかいるから。子供好きなんだよねー、ほら、バカで」
それは頷ける。子供はバカで壮大で自由で、可愛い。私達はまだ子供だろうか、大人なのだろうか。クーラーの風が心地よくあたる。まだ壮大で自由でバカでいいんじゃないだろうか。
「私も探す」
口に出して言ってみた。
「探しな。カミヤマ面白いから、何にだってなれるよ」
なんだか泣きそうになる。私はヨコヤマに抱きついた。ヨコヤマの体は、私よりだいぶ大人だ。なんだよやめろよ、と言いながらヨコヤマは笑っている。
「今度またもし、逃げたくなったらうちにおいでよ」
私は言う。
「なんでうちに泊めてって言ってくれないのかちょっと気にしてたんだから」
何を言ってるんだろう。
「やばいやばい。カミヤマ、今恋人みたいな会話になってる」
私は、ヨコヤマといつも一緒にいるけれど、こんなに本心を打ち明けるのは初めてだと思った。でもありがとう、と照れた様子でヨコヤマは言って、それから話題を変えた。
「夏休みは海行こう」
「海かぁ。なんか怖いな」
「いいじゃん、タキチも連れてさ。あ、カミヤマ、ビキニな。よし今度ビキニ買いに行こう」
「ビキニ!嫌だよ」
夏休み。胸が再び高鳴る。砂浜の熱さ。ビキニ。風の熱さ。宿題。太陽の熱さ。貝殻。タキチ。押し寄せる波。押し寄せるタキチ。
私達は、今年最後のプール部の活動をしていた。夏休みに入るとプールは一般に開放されるからだ。私は水に浮かんでさっきからラッコが貝を割る真似をしていて、ヨコヤマはまた新しい漫画を読んでいる。
「ヨコヤマ、私も進路希望のやつ、出したよ」
ヨコヤマは生返事を返す。聞いていない。私は進路希望の紙に大きく『これから探します』と書いたのだった。
「ラッコみたいに貝割るのって難しいね。力入ると体沈んじゃうもん」
「ラッコってすげーな」
これは聞いてるんだ。
その時、どこかで声がした。プール部ー。タキチの声。私もヨコヤマも気付いて探す。校庭からだった。
校庭の真ん中にタキチや、おそらく理科部の面々がいる。そしてチューブのついたロケット。そこはまるで四角く切り取られた、あのネガフィルムの世界のようだ。だが、閉じ込められているわけではなく、今この瞬間を、生きている。
私達はフェンス越しに見下ろしながら、手を振る。いくぞぉ、とタキチの声が響く。そしてポンプを押し始める。10秒前!タキチの声。私達は幸せだ。7秒前!私達以外の誰かの不幸を想像しながらも、幸せの中にいる。5秒前!でも願わくば、願わくば世界中のミサイルやロケットが、3!ペットボトルでできたそれならば。2!そんなリアリティの無い想像をして悪いけど、1!ブシュウ!
水の弾ける音がして、ロケットは飛んだ。私達のプールの高さを越えて、まだまだ上がる。
願わくば、本当の平穏が訪れますように。
ロケットは、水色の空へ浮かんで、徐々にその速度を落とす。
一瞬止まって、空に浮かんでいるように見えた。
私は、ロケットに切り裂かれた空気を吸い込むように、深呼吸をする。




