第8話 広尾フロンティア株式会社
約20%下げてのストップ安……何があったんだろう……いわゆる『ショック』は起きていない。つまり、この会社にだけ起きたネガティブ要因があるはずだ。
お昼休みは返上でIR情報を見返す。今月末の決算前に業績予測の下方修正が行われている。これか。コーヒー豆を輸入している農場の人件費高騰により、売り上げの下方修正ね。
「そんなに珍しいことじゃないと思うけど」
たまたま投げが投げをを呼んで加速した?
狼狽売りで一時的に急降下したってこと?
おばあちゃんが嫁入り道具だと言っていた箪笥から日誌を引っ張り出す。
おばあちゃんは、その銘柄を買うとき、どうして気に入ったかのメモをここに残している。
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広尾フロンティア株式会社
専務の虎太郎さんのインタビュー。今後、新興国からの仕入れ価格は相応に上げるべきとの意見に賛同。安く買い叩くだけの商売では未来は明るくない。直営店に沙耶を連れていき、味に納得。
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フェアトレード。なるほどね。専務の企業理念に賛同したと……おばあちゃんらしい。
だけど、これが書かれたのはもう5年も前だ。今更どうして株価に影響するほどの売上の下方修正が行われたのかが解せない。
後場が始まってしまうので、キッチンに行ってパンをかじる。
パンと牛乳があれば、私は無敵になれる気がする。あと、チョコレートも必須アイテム。
糖分を補給してデスクに戻る。
スキャルピングは勝ったり負けたりだけど、手を動かし続けることが大事だ。数をこなすことで自然と上達するはずだから。
デイトレと中長期保有する銘柄を私は分けて考えている。広尾フロンティアの株価は比較的安定していて、いわゆる『ボラティリティが低い』銘柄だから、デイトレには向かない。
ボラの高い銘柄を信用取引を使って、何度も売り買いする。ワンクリックで数千円から数万円のプラスマイナスが行ったり来たり。ロジックがどうのこうのとかの意識もないままに、反射でトレードを繰り返す。ギャンブルのように言われがちなデイトレだけど、私はそうは思わない。知識と経験を要するスキルなのだ。
クルクルと変わる板を読みながら、無心にクリックを繰り返す。
私が売り買いする裏で、逆の動きをしている人がいるということ。
その心理を探りながら、次の流れを読む。読めなくても、読もうと努力する。
神経がすり減って、もうこれ以上続けられない……そう思って時計を見るといつも15時になる少し手前だ。株式相場が24時間空いていたら、たぶん、私は死んじゃう。
「ほぉ~」
お腹の底から溜め息が漏れて、今日のトレードを終了した。
「マジで疲れた」
私には自分で定めた収益マイルールがある。
1、デイトレに使う資金は生活費を兼ねる。
2、一定の収益があった場合、それは個別株を保有する資金に回す。
3、長期で保有する個別株は株価の暴落時に狙って買う。
4、デイトレ資金がショートしたら個別株を売って資金を移す。
おばあちゃんが死んでから、手持ちの資金で生活していく為に編み出した技だから、正しいかどうかは分からない。でも、たぶん、私に合ったやり方だと思う。今のところデイトレ資金がショートしたことはない。
170万円をヒモオの借金返済に遣っちゃったから、デイトレの資金が少し減った。ヒモオの日用品を買ったりで、大した額ではないけど生活費も上がった。稼がなきゃならない理由が私にはある。なのに、肝心の個別株がストップ安……想定外の出来事に私の心が追い付かない。
「ヒモオ……」
会いたくなっちゃった。
孤独が私を攻めてきてるよ。
守ってくれるんでしょ?早く帰ってきて。
ソファに寝そべってとろけてたら、ガチャって音がした。
「お帰り!」
玄関に走って、ヒモオに抱き付く。
きっと私の前世はコアラで、ヒモオはユーカリの木だったんだと思う。
「沙耶さん?」
両腕、両足を縛り付けるように私にハグされたヒモオは困ったように下を見て、私に苦笑いしている。
「ヒモオ~」
ヒモオの脇の下に鼻を押し付けて匂いを嗅ぐ。ここが一番、匂いが強い。
「やめてください!」
ゲラゲラと笑いながらヒモオが体を捩る。
「やだぁ」
クンクンクンクン
「もう、いい加減にしてください!」
ヒモオが私の横腹を掴んでこちょこちょしてきた。
「や~っ!」
くすぐったくて手を放してしまった。尻もちを着いた私にヒモオが手を差し伸べてくれる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
「やり過ぎました。ごめんなさい」
「キスしてくれたら許してあげる」
そう言って目を瞑った。所詮、小心者のヒモオの事だ『そんな事は出来ません』とか言ってくるって分かってる。どうせ、私じゃ勃たないんだし……
あれ?
唇がふわって押されて、体にビビッて電気が走ったみたい。
口の中に生暖かいとろける物体が入ってきて、目を開けたらヒモオの睫毛が見えた。
「これで許してもらえますか?」
赤い顔したヒモオに心臓がギューッてなって死ぬかと思った。
「なにしたの?」
「なにって、キスです」
「キスで人は死なないよ」
「はい。キスで人は死にません」
「じゃ、なんで私、今、死ぬって思ったの?」
「それは……僕には嬉しい報告です」
「私が死んだら、ヒモオ、嬉しいの?」
「そうじゃありません。沙耶さんの心を動かすことが出来たのなら嬉しいって意味です」
そう言われてみれば、ヒモオと知り合ってから、私の心は忙しく動き続けている。
「どうして?どうしてヒモオは、そんな事が嬉しいって思うの」
「どうしてでしょうね」
玄関でのやり取りはこれでお終いっていう風に、ヒモオはスリッパを履いてキッチンに移動した。
「今日はお買い物はどうします?」
「今日はあるもんでいい。なんか疲れちゃった」
「そうですか」
「ヒモオ、お昼食べた?」
「はい。外で済ませました」
そんなお金どこにあったの?って気になったけど言わなかった。
きっと誰かに会ってたに違いない。その人にご馳走になったんだ。
私にヒモオが必要なみたいに、ヒモオにも私が必要になればいいのに。
「沙耶さん、なにか悪いこと考えてますか?」
「まさか。なんで?」
「そんな顔してましたよ。今」
「そそそそ、そう?」
「はい」
どうしてこんなにドキドキしてしまうの。心拍数もチャートのように上がり下がりしているんだろう。ちゃんと目に見えればいいのに。理由の分からないことが嫌い。説明の出来ないことが苦手。全ての事をグラフで見られたらいいのにって思う。
「また鍋でいい?」
「最高です」
あるものを切って入れるだけ。鍋で失敗なんてあり得ない。
「あ、でも……」
「どうした?」
「アレルギーとかじゃないんですけど……」
「なになに?」
モジモジするヒモオをいじめたくなっちゃう。
「ちょっと、沙耶さん、そんな目で見ないでください」
「言ってごらん。苦手な物があるんだね?」
「はい。まあ、あの……」
ニヤニヤが止まらない。恥ずかしがってる大きな熊の腕にぶら下がる。
「何が食べられないの?」
「……キノコ類が……」
「はは。熊みたいな体して、キノコが駄目なんだぁ」
「お恥ずかしいんですが」
恥ずかしがってるヒモオをずっと見ていたい。大事な大事な私のボディーガード。ずっと傍に置いておきたい。




