第12話 損切り
家に帰るとすぐにスマホが鳴った。ちらりとも見ずに沙耶さんが渡してくる。
「僕にですか?」
「私宛に電話が来たことなんて一度もないもん」
前場が始まる時間だ。トレード部屋に入った沙耶さんの邪魔にならないよう、小さな声で電話に出る。
「専務、朝からすみません。清水です」
「ああ。おはよう。どうしましたか?」
「昨日、専務からお預かりした名刺先に連絡したんですが……」
嫌な予感しかしない。
「これまでの輸入価格の二倍を超える額の見積りがきまして……」
「二倍?そんなはずじゃ」
言いかけて止める。麗子の仕業か。
「ちょっと確認してこちらから連絡する」
「はい。お手数をおかけします」
急いで麗子に電話をかける。
「なあに?」
「話が違うじゃないか」
「それは私のセリフよぉ。虎太郎がさっさと入籍してくれれば『私たちの会社』は全て上手くいくわ」
「だから何度も言ってるじゃないか、それは広尾フロンティアの経営が持ち直したら必ず……」
「後でも先でも同じよ。どうしたの虎太郎。いつになく往生際が悪いじゃない」
麗子とは幼少のころから同じ私立の一貫校で育った。中国籍だった麗子の父は、日本で商売を始め、一代でかなりの財を成した強者だ。広尾フロンティアは父で三代目になる。父は老舗の輸入商社の後継者にしては商売下手で、アースブレンドの王社長には何度か痛い目に合わされている。
そんな王社長に英才教育を仕込まれた麗子に、良くも悪くもぼんぼん育ちの自分が敵うはずがない。麗子の言いなりになってきたつもりはないが、まともに言い返したことが無いのだから下に見られても文句は言えない。
「悪いが電話を切らせてもらう」
「っちょ……」
情けないが沙耶さんに相談したい。とりあえず、お昼ご飯の下ごしらえと洗濯掃除だ。
「おぉ!良い匂い!ヒモオ、一人で作ったの?」
「はい。何となくコツが掴めてきました。すみません。沙耶さん昨日の夕食と被ってしまって……」
「いーよ、いーよ。焼きうどん好きだし。人が作ってくれたのって嬉しいし」
笑顔の沙耶さんに癒される。
「どうした?ヒモオ、なんか困ってる?」
どうして分かってしまうんだ。
「その……ご相談したいことがあって。ただ、込み入った話なので、後場が終わってからで構いません」
「そう?」
ほっぺを膨らませて焼きうどんを頬張っている。なんて愛らしい姿なんだ……
「今日のデイトレ終ってるから、午後はやめようかなー」
「そうなんですか?」
「うん。今日は全然だめ。読みが外れて負けが越してるの。これ以上ムキになってやってもいいことない」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫なんじゃない?勝つことも負けることもあるもん。今日は調子悪いけど、明日になれば変わるかもだし。勝ち続けることはないのと同じで、負け続けることもないでしょ。今日はもう止めとけって、相場の神様のお告げなのかも」
あっさりと割り切った考え方が出来るんだな。このメンタルが相場で戦い続けるには必要なのだろう。
「それでは、あの……」
沙耶さんにベトナムでのこと、広尾フロンティアとアースブレンドの交わした約束について、カフェの再開に際しその約束が反故にされた事を話した。
「それで全部?」
「はい」
麗子との婚約のことは話せなかった。「ヒモオが結婚しちゃえば問題解決じゃん」って沙耶さんに言われそうな気がして、どういう訳か、どうしてもその言葉は聞きたくなかった。
「損切りしかないね」
「損切りですか……」
「知ってる?今、売ったら損が出るって分かってる時に、思い切って売っちゃうの」
「意味は知ってますが、その心がいまいち理解できません。損が出るなら、損しなくなるまで待てばいいじゃないですか」
「まあ、普通、そう思うよね。でも、待ってると取り返しがつかない事になるかもでしょ?だから期待の範囲内で損失を確定させる。そうすることで、致命傷を防ぐの。『期待』ってのはいい意味だけで使うんじゃなくて、悪い意味でも、うーん、言い換えれば『想定の範囲内』って事だけど、カバーできる金額のうちに涙を呑む」
「な、なるほど」
ずいぶんと痛みを伴う選択を日々繰り返してるんだな。
「広尾フロンティアの場合、アースブレンドから二倍でコーヒー豆を仕入れたとしても、今後更に上げてくる可能性があるよね。同じ農場の豆はそこからしか買えないんでしょ?」
「はい」
「だから相手の言い値で買い続けるのか、アースブレンドからの仕入れを諦めるかを選ぶ。この場合、後者が損切り」
「なるほど」
「あの美味しいコーヒーがもう飲めなくなるのは寂しいけど、今なら他の仕入れ先を探してやり直せるんじゃない?このままアースブレンドの言い値で商売してたら、先が無さそうだし」
「そうですね」
沙耶さんは食べ終わった焼きうどんの皿をキッチンに片付けた。
「だけど……もし、この取引に別の条件が加わっていたら話は変わるよ」
「え?」
「ヒモオは私に何かを隠してるみたいだから、嫌なら無理に言う必要はないけど、第三の方法があるんじゃない?」
天性のものなのか、トレードを重ねるうちに身に付いたスキルなのか、沙耶さんに隠し事は通用しなそうだ。
「ヒモオにはもっといい方法が思い付いてるんじゃないの?」
何も言えなかった。そうだ。会社を守りたいなら麗子と結婚すればいいだけのこと。だけど、そうしたら沙耶さんの近くにいる資格を失ってしまう。どうしようもなく沙耶さんに引かれている自分に、そんな事が出来るとは思えない。170万円を借りてるからとか、ボディーガードを引き受けたからとか、そんな事はどうでもよくて、ただ沙耶さんの傍にいたかった。
「危うく、間違った選択をするとこでした」
「ふっ。なんの事か分かんないけど、馬鹿な選択しないで済んでよかったね」
「はい。沙耶さんのお陰です」
人生初の損切りをする時がきた。




