第8話:決別と勝利宣言
翌朝。俺は清々しい気分で目を覚ました。
窓用エアコンの電源を切り、薄っぺらい万年床から立ち上がる。部屋の中には、俺の脱ぎ捨てた服やスロット雑誌が散乱していたが、片付ける気など毛頭なかった。どうせ今日でこの豚小屋ともおさらばだ。立つ鳥跡を濁さずなどという美しいことわざは、俺のような高貴な人間から不当に搾取していた悪徳業者には適用されない。
俺はスポーツバッグに最低限の着替えだけを詰め込んだ。
背中に背負うと、まるで魔王の城から生還した勇者のような、誇らしい気分になった。
部屋を出て、ギシギシと鳴る鉄骨の階段を降りる。
一階にあるNPO法人『レッツ』の事務所の前を通ると、中からひっきりなしに電話の鳴る音が聞こえてきた。
「はい、ですからそれは誤解で……ええ、ネットの書き込みは事実無根でして……」
スタッフが電話口で必死に弁明している声が漏れ聞こえる。
俺のネットの信者たちが、朝から晩まで休むことなく「正義の鉄槌」を下してくれているのだ。自分の手は一切汚さず、大衆を動かして巨悪を追い詰める。まさに天才的な軍師の所業と言えるだろう。
俺はドアノブを回し、ズカズカと事務所に足を踏み入れた。
「おい、東田はいるか」
俺が声をかけると、電話対応に追われていたスタッフたちが一斉にこちらを恨めしそうに睨んだ。だが、俺はそんな底辺の視線など意に介さない。
奥のデスクから、東田が立ち上がった。
目の下にはくっきりとクマができ、髪はボサボサ。たった一晩で、急に老け込んだように見えた。俺の放ったネットの炎上が、どれほどこいつらを精神的に追い詰めたかがよくわかる。いい気味だ。
「……にいちゃん。どういうつもりだ」
東田は低い声で這うように近づいてきた。
「どういうつもりも何も、見ての通りですよ。こんなタコ部屋、今日限りで出て行ってやります。俺はアンタらの奴隷じゃないんでね」
「出ていくって……お前、行く当てもないのにどうする気だ。それに、今の状態でここを出たら、生活保護はどうなるか分かってるのか?」
「知ったことか。俺を脅そうとしても無駄ですよ」
俺は鼻で笑い飛ばした。
「アンタが俺をこの施設に縛り付けて、生活保護費を中抜きしようとしてたことなんて、ネットのみんなはお見通しなんだよ。俺からこれ以上、金を吸い取れると思うな」
俺の言葉に、東田は深いため息をつき、頭を抱えた。
「にいちゃん、本当にいい加減にしてくれ。お前、自分がネットでどれだけデタラメを拡散してるか分かってるのか? うちの支援者はな、みんな善意で寄付してくれたり、安く食材を提供してくれたりしてるんだ。お前のその身勝手な嘘のせいで、何人もの善良な人たちが傷ついてるんだぞ」
東田の奴、まだそんな白々しい嘘をつくか。
善良な人たち? 善意の寄付? 笑わせる。お前らみたいな貧困ビジネスの連中が、そんな綺麗な言葉で身を飾ろうとしたって、俺の優れた洞察力の目をごまかせるはずがない。俺の正当な権利を奪っておきながら、自分たちこそが被害者だと言わんばかりのその態度。反吐が出る。
「もう芝居はいいですよ、東田さん。俺は真実を知ってしまったんだ。お前らは俺の金をむしり取るだけの寄生虫だ」
俺は東田を真っ直ぐに指差して、堂々と宣言した。
「さあ、俺の通帳とキャッシュカード、それに印鑑を返してもらおうか。俺が役所から受け取るべき全額、11万を俺自身で管理する。お前らにはもう一円たりとも渡さない」
俺の要求に、事務所の空気が凍りついた。
東田は俺を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。その目は、まるで言葉の通じない宇宙人か何かを見るような、酷く冷たく、そして諦めを含んだ色をしていた。
「……わかったよ」
やがて、東田は力なく呟いた。
「どうやら、俺の力じゃお前を救えなかったらしい」
「救う? ふざけるな、俺を地獄に突き落としておいて。お前が俺から手を引くだけの話だ」
東田は鍵のかかった引き出しを開け、俺の名前が書かれた封筒を取り出した。中には俺の銀行の通帳とカード、そして印鑑が入っている。
「ほら、お前の通帳だ。確認しろ」
東田から封筒をひったくるように受け取り、俺は中身を確かめた。間違いなく俺の口座のものだ。
これだ。これさえあれば、毎月11万という大金が俺の自由になる。この金を軍資金にして、俺の完璧なスロットの理論を駆使すれば、あっという間に何百万、何千万と増やすことができるのだ。
「にいちゃん。最後にもう一度だけ忠告しておく」
東田が、静かに口を開いた。
「うちの施設を出るなら、役所に居住地の変更手続きをしないと保護費の支給が止まるぞ。それに、その金を持ってまたパチンコ屋に入り浸るようなら、遅かれ早かれお前は完全に身を滅ぼす。……ギャンブルの借金で親に見放されたことを、もう一度よく思い出せ」
「うるさい!!」
俺は怒鳴り声を上げた。
「最後まで偉そうに説教垂れてんじゃねえぞ! お前みたいな底辺の詐欺師に、俺の才能の何が分かるんだ! 俺は親に見放されたんじゃない、俺が親を切り捨てたんだ! スロットだって、お前らみたいな凡人には理解できない『投資』なんだよ!」
唾を飛ばしてまくし立てる俺から、東田はスッと視線を外した。
「……そうか。じゃあ、もう二度とここには来るな。勝手にしろ」
東田は背を向け、再び鳴り始めた電話の受話器を取った。
俺は完全に勝利したのだ。
口うるさい偽善者の言葉を論破し、俺の自由と財産を奪還した。
「二度と来るかよ、こんな豚小屋。精々、警察に捕まらないように震えて眠るんだな!」
捨て台詞を吐き、俺は事務所を後にした。
建物の外に出ると、札幌の冷たい空気が心地よく肺を満たした。空は高く澄み渡り、まるで俺の門出を祝福しているかのようだ。
「あっははは……! ざまあみろ!」
アパートを背にして歩き出しながら、俺は通帳を握りしめた。
これで俺は自由だ。
誰にも指図されず、誰にも金をピンハネされず、俺の類まれなる才能を存分に発揮できる日々が始まる。
ネットの信者たちには、後で『無事に悪の施設から脱出し、自由を勝ち取った』と報告してやろう。奴らはまた俺を褒め称え、俺の勇気を称賛するに違いない。
足取りは羽が生えたように軽かった。
向かう先は、もちろんパチンコ屋だ。今日こそ、俺の計算通りの波が来るはずだ。東田という厄介な呪縛から解き放たれた今の俺なら、絶対に勝てる。
勝利の女神は、俺のような選ばれた天才にこそ微笑むのだ。
そう確信しながら、俺は希望に満ちた足取りで、ネオンの輝く繁華街へと向かって歩き出した。
これが俺の、輝かしい大逆転劇の幕開けになるはずだった。




