第2話:うざったい救世主
公園での野宿生活は、控えめに言って地獄だった。
朝晩の冷え込みは容赦なく俺の体力を削り取り、常に鳴り続ける腹の虫は、俺の優れた思考力すらも鈍らせようとしていた。
三日目の朝。ベンチから身を起こした俺は、眩暈で視界が揺れるのを感じた。
立ち上がるのすら億劫だ。喉はカラカラで、口の中は砂でも噛んだようにザラザラしている。公園の水道の水を飲んで飢えを凌いでいたが、冷たい水道水はただ胃を冷やし、不快感を増長させるだけだった。
「クソ……社会がもっとまともに機能していれば、俺がこんな目に遭うことなんてないのに……」
虚空に向かって恨み言を吐き出しても、誰も聞いてはくれない。
ふと視線を向けると、遠くのブルーシートの周りでは、ホームレスどもが空き缶を集めたり、薄汚れたラジオの音に合わせて体操なんかをしている。
あいつらにはプライドというものがないのだろうか。社会の底辺に這いつくばって、ゴミを拾って生きながらえることに、なんの疑問も抱かないのか。俺みたいな高い知性を持つ人間には、到底理解できない生態だ。
俺はあいつらとは違う。今はたまたま運の巡り合わせが悪くて充電期間に入っているだけで、すぐにでも元の――いや、本来俺がいるべき高みへと昇っていく人間なんだ。
「にいちゃん。こんな所でずっと寝てたら、体壊すよ」
不意に、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。年齢は四十代後半から五十代といったところか。安いスーツの上に、これまた安っぽいウインドブレーカーを羽織った、どこにでもいそうな冴えない中年男だった。
「……誰だ、アンタ」
俺は警戒心を露わにして睨みつけた。俺を迎えに来る「立派な大人」像とは、あまりにもかけ離れたルックスだったからだ。
「俺は東田。『レッツ』っていうNPO法人の代表をやってる者だ。にいちゃん、ここ数日ずっとここにいるだろ? 見てて心配になったんだ。よかったら、うちの支援を受けてみないか?」
東田と名乗った男は、胡散臭い笑顔を浮かべて一枚のチラシを差し出してきた。
『NPO法人レッツ・居住支援と自立への第一歩』と、チープなフォントで書かれている。
俺は鼻で笑った。
NPO法人? 居住支援? 要するに、ホームレスを施設にぶち込んで、ピンハネでもして稼ごうっていう魂胆の連中だろう。ネットの知識で、そういう胡散臭い輩がいることは知っていた。
「結構です。俺はアンタらが相手にするような、そんじょそこらのホームレスとは違うんで。もうすぐ知り合いの社長が迎えに来ることになってるんです」
俺は咄嗟に嘘をつき、東田から顔を背けた。
こんな安っぽい男に助けられるなんて、俺のプライドが許さない。俺を救うのは、もっと俺の価値を正しく評価できる、洗練された人間でなければならないのだ。
「そうか? でも、お腹空いてるんじゃないのか? 遠慮しなくていいんだぞ。とりあえず、温かい弁当だけでも……」
「いらないって言ってんだろ! しっしっ、あっち行けよ!」
俺が声を荒らげると、東田は少し驚いたような顔をした後、「……わかった。また来るよ」とだけ言い残し、立ち去っていった。
ざまあみろ。俺はあんな見え透いた偽善に騙されるほど馬鹿じゃない。
だが、東田はしつこかった。
次の日も、その次の日も、東田は俺のベンチにやってきた。
「にいちゃん、おはよう。今日は少し冷えるな」
「……」
「顔色が悪いぞ。強がるのもいいけど、まずは体力を戻さないと。な?」
無視しても、悪態をついても、東田は一向に諦める気配を見せなかった。
最初はただの「うざったいオッサン」としか思っていなかったが、毎日毎日懲りずに通ってくるその姿を見ているうちに、俺の中で一つの推測が成り立った。
(……なるほど。こいつ、気付いたんだな)
俺がただのホームレスではないことに。
この公園でひときわ異彩を放つ、俺の知性とポテンシャルに。
だからこそ、あんなに必死になって俺を勧誘してくるのだ。自分のNPO法人に俺のような優秀な人材を引き入れれば、将来的に大きな見返りがあると踏んだのだろう。
そう考えると、東田のしつこさも納得がいく。先見の明だけは、少しばかりある男なのかもしれない。
野宿生活も一週間が過ぎようとしていた。
俺の体力は、いよいよ限界に近づいていた。立ち上がるだけで激しい立ち眩みに襲われ、胃袋は自己主張するのを通り越して、鈍い痛みを放ち続けている。
その日も、東田はやってきた。
手には、コンビニの袋を持っている。中からは、温められた弁当の強烈に食欲をそそる匂いが漂ってきた。
「にいちゃん。もう意地を張るのはやめにしよう。このままじゃ本当に死んじゃうぞ。今の生活から抜け出して、もう一度やり直さないか?」
東田はしゃがみ込み、俺と目線を合わせて真剣な声で言った。
その手には、ほかほかの唐揚げ弁当が握られている。
(……仕方ない)
俺は心の中で大きなため息をついた。
俺だって、こんな底辺の生活をいつまでも続けるつもりはなかった。それに、ここまで俺の才能を見込んで熱心に頭を下げてくるのだ。これ以上無碍に扱うのも、器の大きな人間としてはどうかと思う。
「……そこまで言うなら」
俺はかすれた声で答えた。
「そこまで俺を必要だっていうなら、アンタの支援を受けてやってもいい」
「! 本当か!」
東田はパッと顔を輝かせた。ほら見ろ、俺に承諾してもらえてよっぽど嬉しいらしい。
「ああ。ただし、勘違いしないでくれよ。俺はあっちのブルーシートにいるような連中とは違う。すぐに元の地位に戻るまでの、ほんの少しの間の充電期間として、アンタの施設を利用してやるだけだ」
「ああ、もちろんだ。ゆっくりでいい。まずは、温かい場所でご飯を食べて、体を休めよう」
東田は俺の言葉に深く頷き、唐揚げ弁当を差し出してきた。
俺はそれをひったくるように受け取ると、箸も使わずに手で唐揚げを口に放り込んだ。ジャンクでチープな味が口いっぱいに広がる。本当なら、もっと高級なステーキでも食べたいところだが、今の俺にはこの程度の餌でも我慢してやる寛大さがある。
「ゆっくり食えよ。喉詰まらせるな」
「……うるさい。俺に指図するな」
俺は唐揚げを咀嚼しながら、東田を睨みつけた。
こうして、俺は東田の懇願を受け入れ、NPO法人の支援とやらを受けてやることにしたのだ。
これが、のちに俺を苦しめる「悪魔の契約」だとは、この時の俺はまだ気付いていなかった。俺を利用して甘い汁を吸おうとする、極悪非道な貧困ビジネスの罠に、俺自ら足を踏み入れてしまったのだ。
だが、俺は被害者だ。
飢えと寒さで正常な判断力を奪い、甘い言葉で誘惑してきた東田の卑劣な手口の前に、騙されてしまった哀れな被害者なのだ。




