第1話:俺にふさわしくない場所
冷たい風が、公園のベンチで横たわる俺の頬を撫でた。
薄っぺらい上着を引き寄せながら、俺は舌打ちをする。なんで俺が、こんな目に遭わなきゃならないんだ。
札幌の夜は、時期によっては平気で人を殺しにかかってくる。今はまだ凍死するほどの寒さではないが、それでもコンクリートと木材で出来たベンチは、俺の体温を容赦なく奪っていった。背中が痛い。こんな硬い場所で寝るなんて、人間の尊厳に関わる問題だ。
視線を少し動かすと、公園の奥の方で、段ボールやブルーシートに包まった薄汚い連中が身を寄せ合っているのが見えた。ホームレスたちだ。鼻をつくような臭いを漂わせ、社会の底辺にへばりついて生きている連中。
「……一緒にすんなよ」
俺はポツリと呟き、そっぽを向いた。
あいつらと俺は違う。俺はあんな、最初から人生を投げ出したようなゴミ屑じゃない。たまたま、ほんの少し運が悪くて、周囲の人間が俺の価値を理解できなかったから、一時的にここにいるだけだ。俺は選ばれた側の人間であり、いずれはふさわしい場所に戻る。いや、戻らなければならない存在なのだ。
そもそも、俺の人生は順風満帆だった。
札幌市内の、ごく一般的な中流階級の家庭。父は名の知れた企業の中堅社員で、母は専業主婦。衣食住に困ったことなんて一度もなかったし、高校までは成績だって悪くなかった。「普通」よりは少し上、やればできる子だとずっと言われて育ってきた。
両親の教育方針は「本人の意志を尊重する」という、耳障りの良いものだった。
だが、今思えばそれが全ての元凶だったのだ。あいつらは、単に俺と向き合うのを放棄していただけだ。「お前の好きなようにしなさい」なんて言うのは、親としての責任逃れでしかない。
その証拠に、俺が大学受験に失敗した時、あいつらは適切なサポートをしてくれなかった。
二年も浪人したんだ。俺だって辛かった。毎日毎日、机に向かって暗記を繰り返すなんて、俺のクリエイティブな才能をすり減らすだけの無駄な時間だった。だから、息抜きが必要だったのだ。
パチンコやスロットは、決して「ギャンブル」じゃない。あれは疲弊した精神を回復させるための、正当なレクリエーションだ。
それに、俺にはパチスロの才能があった。確率を計算し、波を読む。俺の優れた頭脳なら、いずれパチスロだけで生活費を稼ぎ出し、親に頼らずとも自立できるはずだった。
だが、世の中は理不尽だ。
遠隔操作か何かは知らないが、俺が座る台に限って、あり得ない確率でハマりが続いた。俺の計算が間違っていたわけじゃない。店側が、いや、社会のシステムそのものが、才能ある若者を潰そうと牙を剥いたのだ。
気付けば、消費者金融からの借金が膨れ上がっていた。
でも、たかだか数百万だ。親父の退職金や貯金からすれば、大した額じゃない。「ごめんな、ちょっと運が悪かったんだ。立て替えてくれよ」と頭を下げてやったのに、あいつらは信じられない行動に出た。
『もう、お前にはついていけない。家を出ていきなさい』
実の息子に向かって、そんな冷酷な言葉を投げつけたのだ。
俺の意志を尊重すると言っていたくせに、俺が少し羽目を外しただけで、あっさりと切り捨てる。寛容な親を演じていた裏側で、俺の借金を背負うのが嫌だっただけの、薄情な人間たち。それが俺の親の正体だった。
親から勘当された俺は、手持ちの現金を持って家を飛び出した。あんな冷血漢どもの家、こっちから願い下げだ。
最初は漫画喫茶で寝泊まりしていた。
狭いが個室だし、ドリンクは飲み放題、ネットも使い放題。悪くない環境だった。ここで態勢を立て直し、俺の才能を活かせる仕事を見つければ、すぐにでも逆転できる。そう思っていた。
だが、社会は俺に対してどこまでも冷たかった。
面接に行っても、面接官の見る目がないせいで不採用が続く。「二浪して、その間何をしていたんですか?」だと? くだらない。お前らみたいな歯車には分からない高尚な思索に耽っていたんだよ、と喉まで出かかったが、大人な俺はグッと堪えてやった。それなのに、どいつもこいつも俺を落としやがった。
そうこうしているうちに、無情にも現金は底をついた。
日雇いのバイトも考えたが、俺みたいな知的な人間が、汗水垂らして肉体労働をするなんて間違っている。そんなことをすれば、俺の価値が下がってしまう。
結果として、俺はこの公園に辿り着いた。
「腹減ったな……」
最後にまともな飯を食ったのは、いつだったか。昨日の昼に、コンビニの裏に捨てられていた賞味期限切れのパンを拾ってかじったのが最後だ。
週末になれば、この公園の近くでボランティア団体が炊き出しをやっているらしい。ブルーシートの住人たちが、嬉々として行列を作っているのを見たことがある。
だが、俺は絶対にあの列には並ばない。
あんな、乞食みたいな真似ができるか。豚の餌みたいな雑炊を恵んでもらって、ペコペコ頭を下げるなんて、俺のプライドが許さない。俺は中流階級の人間だ。あいつらとは生きる次元が違う。
それに、俺には確信があった。
俺ほどの人間が、こんな所で野垂れ死ぬはずがない。
必ず誰かが、俺の特別な価値に気がついて、救いの手を差し伸べてくれるはずだ。
「君のような若者が、こんな所にいるべきじゃない」と、立派な身なりの大人が迎えに来る。そして、俺にふさわしい地位と環境を与えてくれる。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。
だから俺は、ここで待っていればいいのだ。
俺を不当に扱った社会が、俺に謝罪し、正当な対価を支払いに来るのを。
冷たい風が再び吹き抜け、俺は身を縮こまらせた。
遠くで、ブルーシートの連中が下品な笑い声を上げている。馬鹿な奴らだ。あいつらは一生、這い上がることはできない。
俺は違う。俺は絶対に、あいつらとは違う。
ベンチの硬さに耐えながら、俺は目を閉じた。
腹の虫が鳴るのを無視し、ただひたすらに、俺を救い出す「誰か」が現れるのを待ち続けた。




