第10話(最終話):正義の復讐
札幌の夜明け前。気温は確実に氷点下を下回っていた。
舞い散る粉雪が、俺のボロボロの衣服に容赦なく降り積もり、体温を奪っていく。
手の中にある錆びた金属パイプだけが、今の俺に残された唯一の「希望」だった。その冷たい感触が、俺の頭を異様に冴え渡らせていた。
公園の街灯が、チカチカと不気味な瞬きを繰り返している。
俺はベンチの陰に身を潜め、じっと息を殺していた。
誰もいないはずの深夜の公園に、先ほどからザクッ、ザクッと、雪を踏みしめる足音が近づいてきていたからだ。
闇金の取り立てか? それとも、俺をこの底辺から排除しようとする社会の刺客か?
パイプを握る手に力がこもる。誰が来ようと、俺はもう逃げない。俺は選ばれた人間だ。俺の崇高な命を脅かす奴は、この「正義の剣」で返り討ちにしてやる。
足音が、俺の隠れているベンチのすぐそばで止まった。
「……にいちゃん? そこにいるのか?」
その声を聞いた瞬間、俺の心臓は激しく跳ね上がり、次いで、ドス黒い憎悪の炎が一気に燃え上がった。
間違いない。忘れるはずがない。
あの馴れ馴れしく、俺を心底見下していた薄っぺらい中年男の声。
俺の人生を徹底的に狂わせ、俺を地獄の底へと突き落とした悪魔の声だ。
俺はゆっくりと立ち上がり、街灯の光の下へと姿を現した。
そこには、分厚いダウンジャケットを着込んだ東田が立っていた。
2年前よりも白髪が増え、ひどく老け込んだように見える。その手には、コンビニの袋が握られていた。中からは、微かに温かい弁当の匂いが漂ってくる。
2年前、俺をあの『貧困ビジネス』の罠にハメた時と、全く同じ手口だ。
「にいちゃん……! やっぱりお前だったか! ああ、よかった、ずっと探してたんだぞ!」
俺の姿を認めた東田は、顔をくしゃくしゃにして駆け寄ってこようとした。
「来るな!!」
俺は金属パイプを構え、喉が裂けるほどの声で叫んだ。
東田はビクッと足を止め、俺の変わり果てた姿と、手に握られた鉄の棒を信じられないような目で見つめた。
「にいちゃん、そのパイプを下ろせ。俺だ、東田だ。お前の生活保護が切られてから、ずっと心配してたんだ。借金取りに追われてるって噂を聞いて、この辺りの公園を毎晩……」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れッ!」
俺は狂ったように首を振った。
心配していた? 探していた?
笑わせるな。お前が俺を役所に密告して、保護費を打ち切らせたんだろうが!
俺がネットでお前たちの悪事を暴いたから、その復讐として俺を社会から抹殺したくせに。今度は俺の臓器でも売るつもりか? それとも、またあのウォシュレットもない豚小屋に監禁して、俺を一生タダ働きさせる気か!
「にいちゃん、頼むから話を聞いてくれ。今の状態のお前を放っておけない。とりあえず、温かい飯を食って、それから一緒に……」
「……また、俺を騙すのか」
地を這うような低い声が、俺自身の口から漏れた。
「また俺から搾取する気か。俺の才能を、俺の輝かしい未来を、これ以上お前らの餌食にしてたまるか!」
「違う! 俺はただ、お前にもう一度やり直してほしくて……ッ!」
東田が一歩踏み出した瞬間、俺の中で張り詰めていた「理性の糸」が、プツンと音を立てて切れた。
「死ねえええええええッ!!」
俺は両手で金属パイプを振り被り、全力で東田に向かって飛びかかった。
「あっ」と東田が短く声を上げ、咄嗟に腕を交差させて頭を庇う。
ガキッ!!
鈍い音が響き、東田の腕の骨が折れる感触がパイプ越しに伝わってきた。
「ぐあッ……!」
悲鳴を上げてうずくまる東田。俺の心に、これまで感じたことのないような強烈な全能感が沸き起こった。
見ろ。俺を虐げてきた巨悪が、俺の足元で這いつくばっている。
これは暴力ではない。「正義の執行」だ。
社会が俺を守ってくれないなら、俺自身の手で、この悪の親玉を断罪するしかないのだ。
「これは、俺の家賃をピンハネした分だ!」
ドガッ! パイプが東田の背中を強打する。
「これは、俺に豚の餌みたいな飯を食わせた分!」
ゴスッ! 肩の関節に鉄の重みがめり込む。
「にい、ちゃん……やめ……」
「そしてこれは……俺の人生を狂わせた、お前への罰だッ!!」
振り下ろされたパイプが、東田の側頭部を捉えた。
メチャッ、という嫌な音とともに、東田の体が人形のようにバタッと雪の上に崩れ落ちた。
コンビニの袋が破れ、中から唐揚げ弁当が転がり出る。赤い血が、真っ白な雪をみるみるうちに黒く染めていった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
荒い息を吐きながら、俺は動かなくなった東田を見下ろした。
痙攣すらせず、完全に事切れている。
やった。
ついにやったのだ。
「あっはは……あははははははは!」
深夜の公園に、俺の高笑いが響き渡った。
俺は悪くない。
俺は騙され、搾取され、社会の底辺に突き落とされた哀れな被害者だ。
被害者が、自分を苦しめた加害者に復讐して、何が悪いというのか。これは防衛本能であり、悪徳NPOという社会のダニを駆除した、英雄的な行為なのだ。
ネットの連中に教えてやりたい。
お前たちが口先だけで叩いていた「貧困ビジネス」の親玉を、この俺が、たった一人で打ち倒したのだと。俺こそが、本当の正義を成し遂げた勝者なのだと。
手から滑り落ちた金属パイプが、カランと虚しい音を立てた。
冷たい風が吹き抜け、雪が激しさを増していく。
サイレンの音が遠くから聞こえてきたような気もしたが、今の俺にはどうでもよかった。
これでようやく、俺の邪魔をする奴はいなくなった。東田という呪縛から完全に解き放たれ、俺の素晴らしい才能が、ついに世界に認められる時が来たのだ。
「俺は……選ばれた人間なんだ……」
俺は血まみれの両手を広げ、天を仰いだ。
降り注ぐ冷たい雪が、俺の勝利を祝福してくれているように感じた。
これから、俺の本当の輝かしい人生が始まるのだ。俺の正しさは、必ず証明される。
薄れゆく意識の中で、俺は確かに、完全なハッピーエンドを迎えていた。




