第5話 一人でやる必要はもうない
暖炉が、いつの間にか温かくなっていた。
◇◇◇
冬が近い。
王都の空気が乾き始めると、流行病の季節が来る。昨年はオルテ領で二十人以上の患者が出た。その時の予防薬を作ったのは──私だ。レナートの名前で出荷されたけれど。
「既存の予防薬では、今年の変異株には対応できない」
クラウスが調合台の向かいに座っている。ギルド長が研究室に来ること自体が異例だと、後で知ることになる。
「薬草の配合比率を根本から見直す必要がある。──やれるか」
「やります」
共同研究が始まった。
基剤の選定から始める。十二種類の薬草の中から、変異株に効果があるものを絞り込む。私は五年間の経験から、直感的に三つの候補を選んだ。
「この三つなら、相乗効果で効能は一・五倍に──」
試作を始めた。配合を終え、蒸留し、冷却──
薬が変色した。
淡い緑色のはずが、濁った茶色に。魔力安定工程を飛ばして、薬草の魔力反応が制御を失ったのだ。
「……っ」
失敗。五年間、一人で調合してきた方法では──通用しなかった。
「基礎の魔力安定工程を飛ばした」
クラウスの声。責めるでもなく、慰めるでもない。ただの事実。
「伯爵邸では少量生産だったから、薬草自体の魔力が不安定でも瓶の中で収まっていた。ギルドの精製度の高い薬草は、魔力反応が鋭い。安定工程は飛ばせない」
正しい。分かっている。分かっているのに──
「五年間、この方法でやってきました」
声が、少し固くなった。自分でも分かる。
「一人で何もかもやらなければいけなかったから。工程を省いて、時間を節約して──それで三つの領地分を一人で回していたんです」
クラウスが黙った。数秒。
「一人でやる必要はもうない」
低い声だった。短い。でも──言い切る強さがあった。
反論しようとして、やめた。ここは伯爵邸の薬草室ではない。一人で全てを抱える必要は──もう、ないのだ。
たぶん。
「……やり直します」
調合台を片付けた。汚れた試作薬を処分して、最初からやり直す。今度は魔力安定工程を入れて──クラウスの指摘通りに。
悔しくないと言えば嘘になる。でも、悔しさよりも先に──正しい配合への好奇心が勝った。
◇◇◇
研究は深夜に及んだ。
やり直した配合は、途中まで順調だった。魔力安定工程を加えたことで、薬草の反応が格段に安定する。──なるほど、これが正しい手順か。五年間、知らなかった工程が一つ加わるだけで、薬の精度がここまで変わるとは。
時計を見ると、日付が変わっていた。
ふと気づく。暖炉の火が、いつの間にか足されている。
さっき口論──いや、意見が対立した後なのに。
(……誰が?)
暖炉のそばに人影はない。クラウスは調合台の向こう側で、別の薬草の分類をしている。何事もなかったように。
気のせいだろう。建物の管理者が巡回しているのかもしれない。
そう思いながらも、暖炉の温かさが──さっきまでの空気より、少しだけ柔らかかった。
廊下で、副長のエルヴィンが独り言を呟いていたことを、私は知らない。
「ギルド長があんなに長く研究室にいるのは……初めてだ」
◇◇◇
翌朝。
ギルドの受付に、一通の陳情書が届いた。差出人──ヴァイス伯爵領の住民代表。
「領地の診療所が機能していない。薬の供給が止まっている。ギルドから薬師を派遣してほしい」
クラウスが陳情書を私に見せたのは、昼過ぎのことだった。何も言わずに、ただ差し出した。
読んでいる間、胸が痛んだ。
あの三つの領地──オルテ領、ヴェーゲ領、メッサー領。私が五年間、毎月薬を届けていた人たちだ。今頃、在庫が尽きかけている頃だろう。今月分は離縁前に調合済みだったから、一〜二ヶ月は持つはずだったが──もう三ヶ月目に入る。
「……この人たちは、何も悪くないのに」
「そうだ」
クラウスが短く答えた。
「お前はどうする」
どうするか。派遣を受けて、もう一度あの領地に薬を届けるか。それとも──
「私が去ったのではなく──あの方が、私を必要としなかったのです」
声は平らだった。でも、その一言を出すのに、呼吸を一つ整える必要があった。
「あの領地に薬を届ける責任は、ヴァイス伯爵にあります。ギルド長が派遣するかどうかは、ギルドの判断です。私の問題ではありません」
クラウスは何も言わなかった。
ただ──ほんの少しだけ、頷いた。彼女の判断を尊重するように。
◇◇◇
その夜。
研究室で、配合のやり直しに成功した。
魔力安定工程を加えた新しい処方は、既存のものより効能が二割高い。試作薬は澄んだ緑色──完璧な仕上がりだった。
クラウスの言葉が響いている。
──一人でやる必要はもうない。
五年間のやり方に固執していた自分に気づく。一人でやらなければいけなかったから、省略した工程。一人で全部抱えていたから、見えなかった改良の余地。
ここには、指摘してくれる人がいる。
調合台を片付けていると、暖炉がまた温かくなっていた。さっきまで研究室にいたのはクラウスと私だけだ。
管理者の巡回は──さすがに、深夜はないだろう。
考えないことにした。
窓の外を見る。暗くなった空の向こうに、王都の灯りが揺れている。
研究はうまくいった。でも──レナートがこのまま黙っているはずがない。
暖炉がまた温かくなっていた。




