第6話 対応いたしかねます
ギルド長宛の書状が、朝の郵便に紛れていた。差出人──ヴァイス伯爵。
◇◇◇
クラウスはその書状を、私の前で開いた。
「読め」
差し出された便箋。レナートの筆跡──丁寧で、流れるように美しい。社交界の人間が書く、完璧な手紙。
『ギルド長殿。先日離縁した妻セレスティアがギルドに在籍しているとのこと。彼女は当家の名誉に関わる事情がございます。速やかに引き渡していただきたく──』
最後まで読んだ。便箋を返す。
「……引き渡し、ですか」
物のように言われることには、もう慣れている。
クラウスが書状を机に置いた。
「ギルド規約第十四条。ギルドに所属する薬師の身柄は、ギルド長の管轄下にある。外部の要請で引き渡す規定はない」
暗記しているのだろう。書棚を見もせずに引用した。
「返書を出す。『規約に基づき対応いたしかねます。以上』」
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
クラウスはペンを取り、実際にその二行だけの返書を書いた。──この人の手紙は、いつもこうなのだろうか。レナートの流麗な便箋に比べると、素っ気ないにも程があるが──
必要なことだけ。余計なものは一切ない。
(この人は、前の夫とは──何もかも違う)
初めてそう思った。意識的に。
レナートは言葉で取り繕う人だった。「君は家にいてくれればいい」──優しい言葉で閉じ込めた。クラウスは言葉を削る人だ。「規約に基づき対応いたしかねます」──事務的で冷たい、けれど完全にこちらを守っている。
守られている、という感覚が──五年ぶりだった。
◇◇◇
同じ頃、王都の社交界では別の動きがあった。
リゼット・マルーアが、サロンで噂を流していた。
「ヴァイス伯爵夫人は夫を裏切って出て行った不貞の妻ですわ──ギルド長と関係があるとも聞いています」
巧妙だった。直接的な誹謗ではなく、「聞いた話では」という形で広める。扇の向こう側の笑顔は、計算され尽くしていた。
けれど──事実は、噂より強い。
カタリーナ侯爵夫人がサロンに現れたのは、その二日後のことだった。孫の回復が完了し、公の場に出る余裕ができたのだろう。
「あの薬師は素晴らしい方よ」
侯爵夫人の言葉は、短かった。けれど侯爵夫人という重みが、リゼットの噂を──紙切れのように吹き飛ばした。
「私の孫を救った薬を作ったのは、あの方です。不貞の噂? 私の孫の命を救った人に対する中傷は、私に対する侮辱ですわよ」
リゼットが青ざめたことを、私は後で伝え聞いた。直接見たわけではないが──噂が噂を上書きするのは、社交界の常だ。
セレスティアの薬は、事実として人を救った。リゼットの言葉は、事実として何も救わなかった。
ただ、それだけの差だった。
◇◇◇
夕方の研究室。
調合台で新薬の最終調整をしていると、クラウスが入ってきた。
「レナートの書状は却下した。侯爵夫人の件も片付いたそうだ」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。俺の仕事だ」
クラウスが報告書に目を落とす。私は調合に戻る。
──不思議な空間だった。二人きりの研究室で、仕事の話しかしない。それなのに居心地が悪くない。
「セレスティア」
名前を呼ばれた。
何か──違う。他の薬師を呼ぶ時と、声のトーンが違う。半音だけ低い。ギルド員の名前は事務的に呼ぶのに、私の名前だけ──わずかに、温度がある。
(……気のせいだ)
「はい、ギルド長」
「明日の納入分の検品は済んだか」
「はい。先ほど終えました」
仕事の確認。ただの業務連絡。──気のせいだ。
でも──気のせいだと流した後も、胸の奥にあの半音が残っていた。薬草室で聞く音とは違う、低くてかすかな振動。
考えないことにした。
今は──今は、薬のことだけを考えていればいい。
◇◇◇
噂工作が失敗したことで、リゼットは次の手を打つだろう。
そしてレナートは──クラウスに書状を退けられたことで、なりふり構わなくなるかもしれない。
社交界でクラウスとセレスティアの関係を「不貞」として訴える──そんな策を、リゼットが入れ知恵することは十分にあり得た。
窓の外が暗くなっていく。
研究室の暖炉が、また温かくなっていた。




