第4話 名前を呼ばれるということ
薬草を潰す匂いが指先に染みる。──二週間ぶりの、この匂い。
◇◇◇
宮廷薬師ギルドの研究室は、伯爵邸の薬草室より三倍は広かった。
天井が高い。窓が多い。何より、他の薬師がいる。薬草を乾燥させる者、蒸留器を管理する者、配合記録を整理する者──一人で全てをこなしていた五年間が嘘のように、ここでは分業が当たり前だった。
「本当に伯爵夫人が?」
背後でギルド員が囁く。聞こえているが、聞こえないふりをする。伯爵夫人ではない。もう、ルーヴェンだ。
調合台の前に立った。今日が、ギルドでの初めての調合。
冬に向けた一般的な風邪薬の改良版。処方箋は私が書いた。配合比率を記す手が、少しだけ強張る。
(……通用するだろうか)
五年間、フィードバックは何もなかった。薬は全てレナートの名前で出荷されて、「伯爵の薬は素晴らしい」と褒められて──でも、それは私への評価ではなかった。
自分の腕前が、どこに位置しているのか分からない。
薬草を量る。手が覚えている。迷わない。
配合を始めると、不安は消えた。薬草と向き合えば、余計なことを考える隙がない。六つの工程を経て、最後の瓶に蓋をする。
──完璧だ、と思った。思ったが、それを自分で判断するのが怖い。
「見せろ」
クラウスが来ていた。いつの間に。足音が全く聞こえなかった。
瓶を差し出す。クラウスは受け取ると──自分でそれを、口に含んだ。
……試飲?
「完璧だ」
二文字。短すぎる。けれど声の重さが、その二文字を何倍にもしていた。
後で知ったことだが──クラウスは他の薬師の薬は自ら試飲しない。部下の検査官に任せている。私はそれを、ずっとあとまで知らなかった。
◇◇◇
その夜、急使が来た。
カタリーナ侯爵夫人の孫が高熱を出した。既存の解熱薬では効かない。宮廷侍医が匙を投げかけている、とのことだった。
「対応できるか」
クラウスが私に訊いた。他の薬師に、ではなく。
「処方を確認します。……症状を教えてください」
急使から聞き取った情報を元に、すぐに処方を決めた。高熱、発疹、呼吸の乱れ──季節の変わり目に出る感染症の一種だろう。薬草の組み合わせは四通り考えられるが、子供の体格と年齢を加味すると、二番目の処方が最も安全で効果が高い。
夜通しで調合した。
朝方、侯爵邸に薬を届けた。
◇◇◇
二日後。カタリーナ侯爵夫人から連絡が入った。
孫の熱が下がった。発疹も引いている。完全回復の見通し。
侯爵夫人はギルドを訪れ、クラウスに面会を求めた。
「──この薬を作ったのは、どなた?」
私はギルド長室の隣室で、壁越しに声を聞いていた。入る気はなかった。侯爵夫人という高位の貴族の前に出る立場ではないと思ったし、薬がきちんと効いたのなら──それで十分だ。
クラウスの声が聞こえた。
「セレスティア・ルーヴェン」
自分の名前ではなく。ギルド長の名義でもなく。
「我がギルドの薬師だ」
壁に背をつけたまま、動けなかった。
名前を呼ばれた。自分の名前で。自分の薬が、自分の名前で紹介された。
五年間、一度もなかったことだ。
(ああ──こういうことだったのか。名前を呼ばれるというのは)
レナートとの無意識の比較が走る。あの人は私の薬を自分の名前に変えた。この人は、私の名前をそのまま伝えた。
ただ、それだけのこと。
それだけのことが──こんなにも違う。
研究室に戻ると、ギルド員の一人がカタリーナ侯爵夫人の処方記録を見ていた。
「……これを一人で? 夜通しで?」
驚嘆の声。六時間で完成させた処方は、通常なら三人がかりで二日はかかるものだったらしい。
「五年間、毎日やっていたことですから」
答えながら、少しだけ笑えた。
◇◇◇
その翌週。
セレスティア名義の処方箋が、初めて宮廷に正式に納入された。
後で知ったことだが──宮廷の薬品管理官が、この処方箋を受領した際に何かに気づき、記録に注記を残したらしい。それがどんな意味を持つのか、この時の私にはまだ分からなかった。
今の私には──王都の市場で、自分の名前の薬が売れ始めたという話が、マリアから伝わってきただけだった。
「元ヴァイス伯爵夫人が薬師に」
その噂がレナートの耳に届く頃には、もう私の知るところではない。




