#2
アイリスが通うスクールは親のシビルスコアとは関係無く、あらゆる階級の子供達を受け入れるパノプティコでは異色の学校だ。
シビルスコアの高低が人生を左右するパノプティコでは、基本的に高スコアの者は高スコア者が集う学校へ子供を入れたがる。だがマナはアイリスに多くの価値観を学んで欲しいと考え、あえて低スコア者のいる学校を選択した。
母親に似て――そして名の由来である『英雄』にも似て――聡明な少女であったアイリスは母の意図を理解し、階級の垣根を越えて多くの友達を作った。
だが、その日「ロワーズ」と呼ばれている、市民生活を維持できる最低レベルのスコアしか持たない両親の元で産まれ育った友達が「ヨタ(Yield Over Trust Assessment)」と呼ばれる信用査定逸脱者、すなわち市民登録を抹消される存在へと転落したのだ。
「ヨタ……?資料では見たことがあったけど、このパノプティコで本当にそんな事が……?」
マナもヨタの存在について知識としては知っていた。
だがマナがパノプティコへ移住した年からヨタの認知件数は急激に減少しており、マナが市民調和局で働くようになってからはヨタは過去の存在として注意を払われることすらなくなっていたのだ。
それなのに、何故?
疑問に思ったマナはアイリスのお友達の両親がどのような理由でヨタに転落したのかを調査した。
結果は、不幸な事故。
ビークルの運転を生業としていた父親が歩行者の飛び出しによる事故を起こし、結果として父親はスコアを喪失した。
そのことに抗議した母親もまた、事故処理を担当した市民調和局の職員と口論になり、スコアを失った。
スクールに通う子供のスコアは両親のスコアに連動する。従って、子供もまた市民としての資格を喪失したのだ。
一連の経緯を確認したマナは、上司であるフレディにそのような事がありうるのかと質問したが、彼の答えはシンプルだった。
「不幸な事だが、それは希に起こりうることだ」
フレディはかつて市民調和局に勤務していた元友人、レーンが同じような事故を経て「良き市民」からヨタへと転落し、星外へと去ったことを語った。
マナは理想社会だと思っていたパノプティコでそのような事が起こりうることに驚き、そしてヨタを救済する為の仕組みを作ったのがアイリス――娘ではなく恩人の方――だと知ってさらに驚いた。
そしてその時、別れ際にアイリスが言った言葉を思い出した。
『ね、最後にもう1度だけ確認するけど、本当にここでいいの?』
マナは長らくアイリスが何故そのような事を言ったのか、理解出来できずにいた。
パノプティコは自助努力を絶やさなければ幸せになれる星なのに、どうしてアイリスはこの星を忌避したのか、と。
だがフレディが語ったレーンという人物の末路と、娘であるアイリスのお友達が辿った転落。
……それはすなわち、この星では1度転落した者には救済の手が差し伸べられず、またどん底まで落ちてしまえば2度と元の場所に戻る事が出来ないという、社会システムの欠陥を意味していたことに他ならない。
アイリスはそのことを知り、パノプティコの制度を壊さずにヨタ達を救済する制度をつくることで多くのヨタを星外へ逃がし、結果として彼らを救ったのだとマナは理解した。
「おともだちがいなくなった」と泣きじゃくる娘を抱き抱えながら、マナは考える。
自分や娘の悲しみや不安の根本は、社会の安心を担保するためのシステム、シビルスコアに起因するものなのだと。
だが、マナは外部からこの星を訪れ、そして星に救われた人間だ。
いかに「良き市民」であっても……いや、良き市民だからこそ、自分にはこの星の制度を改変する資格はないとマナは思った。
だが、それでも……。
マナは娘の涙を拭いながら、夫にも内緒である事を心に決めた。
その後、マナは第二子にも恵まれたが、市民調和局での仕事も精力的にこなし続けた。
一時はあまりにも仕事に打ち込みすぎて夫婦仲が悪くなりかけた事もあったが、2人の娘達のとりなしもあって2人は和解した。主に夫がマナに対して折れる形ではあったが。
私生活では小さなトラブルがあったが、マナは学生時代から継続していたボランティアだけでなく、周囲を巻き込んだ規律ある生活のためのキャンペーンなども開催し、パノプティコに潜む不安の払拭を試みる。
活動を続けるマナに対して周囲からの称賛が集まるが、そんな時にマナが返す言葉はいつも決まっていた。
「私は、パノプティコに恩返しをしないといけないから」
やがて娘アイリスも成長し、スクールを卒業するとマナと同じようにアカデミーへと通うようになった。
名前の由来となった『英雄』とは違い、アイリスは本を片手に一人物思いにふける物静かな女性に育ったが、やがてそんなアイリスもまた魅力的な男性と出会い、恋に落ちることになった。
結局、アイリスはアカデミーを卒業する前にその男性と結ばれることになり、学問の道は途中で断念することになったが、それでもマナと夫は2人の前途を祝福した。
そして何年か後。アイリスが子供を産んだことでマナは祖母と呼ばれる立場となった。
そして、丁度その頃……市民調和局の幹部職員となっていたマナは、パノプティコという社会への奉仕を継続したことで史上初となるシビルスコア100の達成者である「模範市民」となった。
そう、それこそがマナが目指した「恩返し」の手段だったのだ。
――今までの半生を思い起こしながら、マナは語る。
この社会の安心の裏に潜む不安の存在について。
自分は今、幸せである。
だが、この幸せはある日突然に失われるかもしれない。
そして失われた幸せと安心は取り戻すことができない。
そのこと自体が、安心を損なう不安要素になっているのではないか、と。
「――ですから、私は思うのです。失ったスコアを取り戻す機会が与えられる社会。それこそが、パノプティコがより安心を享受できる社会になりうる鍵ではないか、と」
マナの語る転落への恐れは、パノプティコ市民の誰しもが抱える不安要素だった。
だがその不安を口にすること自体が安心を損なう要素になると誰もが考え、自らの不安を口にすることが出来なかった。
だが、あの模範市民はその不安を公然と口にしている。
彼女が口にするのは転落への不安だけでなく、転落からの再生という、これまでパノプティコの誰もが想像しなかった新しい「安心」の可能性だった。
「私の子供や孫達が。そして皆様のお子様やお孫様が。もしつまずいてしまったとき。もう一度立ち上がる機会が与えられる社会。そんなパノプティコを共に育てていきませんか?」
マナはそう話を締めくくり、静かに一礼した。
講話の時間はマナに与えられた10分きっかり。まさに模範市民らしい講話だった。
マナの問いかけは、パノプティコの社会に静かな波紋を呼び起こした。
もちろん、それは賛同だけでなく反発も呼んだ。
特に市民調和局の内部……つまり高スコアの既得権益者からは、マナの発言がリリーフシステムへの批判ではないかという声も上がった。
だが、不思議とリリーフシステムはマナのスコアを減じることはなかった。なぜならマナの言葉は人々の不安を煽るものではなく、より大きな安心をもたらすものだと判定されたからだ。
そして人々は自らの信じるリリーフシステムが完璧なものではないと、模範市民の口から改めて示されたことで、否応なくシビルスコア制度が孕む問題点を意識せざるを得なくなり……長い長い改革の道のりが始まった。
結局、マナが提唱したスコア回復の手段が実現するまでには多くの時間を要した。
それほど多くの時間が掛かった理由の1つには、提唱者であるマナ自身があえて制度改革には手出しも口出しもせず、ただ見守ったからだ。
件の講話の後、マナは市民調和局の仕事を引退。表舞台から身を引き、遅々として進まない議論を見守りながらも、マナの表情は穏やかだった。
そんなマナの様子を見て、娘のアイリスは不思議そうにどうしてママは議論に参加しないのかと問う。
その問いに対してマナは答えた。
「私のパノプティコに対する恩返しは、もう終わったから」
最終的に十数年の議論を経てパノプティコという社会に、救済の道が作られた。
そのことを見届けたマナは心から喜び……そして娘達や孫達に見送られて、安らかに逝った。
それから何世代もの時を経て、パノプティコの制度は少しずつ改革されていった。
最終的にシビルスコアは住民の全てを評価する絶対的な基準ではなくなり、補助的な――一般的な惑星でも利用されている信用スコアにまでその効力を減じた。
だが、それでもシビルスコアの理念はパノプティコに生き続けており、市民達はスコアという枷が無くとも自らを律し、社会の安全を重んじることを心がけ続けた。
そして遠い未来。
犯罪も少なく、子供が夜に出歩ける平和で安心に満ちた星であるパノプティコは――責任ある自由社会、後にエレウテリアと称される自治システムによって実現された、真の意味での理想国家として銀河に知られている。
その礎を築いた、滅びた星からの難民であった1人の女性の名前と共に。
デモクラス編、そしてパノプティコ編の最終エピソードとなる幕間をお届けしました。
次回更新からは、デモクラスでの一件で心身共に疲弊したアイリスが長期休暇を取るお話し「トリコロール・ナイト」をお届けします。
真面目で苦労人の彼女がちゃんと休暇を取れるのか、見守ってあげてください!
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