case10・泥人形
その古書店にたどり着いたのは、一年ほど前のことだった。レポート課題に必要な資料が絶版本で、大手の古本屋やネットを探しても見つからなかった。
古書店が集まる神保町を巡り、最後の一軒にも目当ての本がなくて店主さんの前だと言うのにあからさまに落胆してしまう。
そんな私を哀れんだのか店主さんは新宿にある古書店を教えてくれた。
『この店は望む本が必ず置いてあると言われているんだ』
半信半疑で件の店……『Limbo』を訪れることに。歌舞伎町の裏路地を進んだ奥に目当ての古書店はあった。
店主は20代後半のひょろりとした長身で温和そうな男性で、矢代司という名前だそう。諦め半分で探している本について尋ねると、当然のように彼はありますよと頷いた。
無造作に積み上げられた本の山から矢代さんが抜き取ったのが、正に私が探していた本で……。おかげでレポートは満足のいくものができた。
それ以来、私は月に何度か『Limbo』に足を運んでいる。神保町の店主さんが言っていた『望む本が必ず置いてある』と言うのが誇張や嘘ではないのが分かった。
本当にどんな本でも置いてあるんだ。しかも、信じられないほど格安で売られている。
これでは儲けなんて出ないんじゃないのかと矢代さんに聞いたことがあった。
「ああ、構いませんよ。趣味みたいなものですから」
そういって彼はとても柔らかく微笑んだ。
とても物腰柔らかで、優しい矢代さんとの会話が楽しくていつしか本よりも彼と話すことが目的になっていった。
そうして、季節が一巡して今に至る。
今日も今日とて、私は『Limbo』にやってきている。
引き戸を開けた私を見た矢代さんは、意外そうな表情で出迎えた。店内に一歩足を踏み入れると、沈んでいた気持ちが少し軽くなる。
「おや、ヒバリさんいらっしゃいませ。二日ぶりですね。レポートが煮詰まってらっしゃいます?」
もしかしてと、しなやかな指を口元に添えて彼は私が来た理由を推測する。
確かにレポートが煮詰まるとここにきて矢代さんと議論を重ねるけれど……。
「今日は違うわ」
「それは失礼いたしました。……お茶飲まれますよね?」
軽く頭を下げた矢代さんはふわりとエプロンと癖毛を揺らし、カウンターの奥へと姿を消した。私はいつものようにカウンターの前に置かれた椅子に腰かける。
店内に充満する古本の匂いが心地いい。この店は不思議と居心地がよくてついつい長居してしまう。
目を閉じると矢代さんがお茶の準備をしている音が聞こえる。お湯がポットに注がれる音と共に、ふわりと紅茶の香りが広がってきた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
柔らかく微笑みながら矢代さんはマグカップを差し出してくる。白地に小鳥が描かれたマグカップは私専用にするために買ってくれたらしい。矢代さん本人は黒無地のモノを使っているから、可愛らしいチョイスは意外だったのを覚えている。
というより、矢代さんが私用のマグカップを用意してくれたことに心底驚いたんだっけな。
ありがたくマグカップを受け取って、一口お茶を飲む。
「ん……相変わらずおいしい。お店出せるんじゃない?」
「お茶しか淹れられないので、お店は無理ですねぇ」
ほのぼのと笑う矢代さんと美味しいお茶のおかげでようやく肩の力が抜けていく。
「それで……どうされたんですか?」
「え?何が?」
「顔色が悪いですよ……なにかありましたね?」
微かに眉を顰めた矢代さんがじっと私を見つめてくる。……見つめられてるんだよね?矢代さんは細目だからよくわからないや。
ただ、心配してくれているのだけはわかる。
……矢代さんになら話してもいいのかもしれない。ぎゅっとマグカップを掴んで息を吐き出す。
「最近大学で変な噂を流されているんです」
「噂、ですか?」
「ええ……根も葉もない下世話な噂が一部の学生の間で流れてるらしくて……」
あえて下世話という濁した言葉を使った私に、矢代さんは噂の内容が分かったようだ。穏やかな表情がほんの少し剣呑なものに変化する。
一か月ほど前から知らない男子生徒たちから性的な揶揄いを投げかけられることが増えた。
身に覚えのない内容だから、無視をしていたら彼らはそれを肯定だと決めつけ、さも事実のように言いふらし始めた。
「元々言いふらしていた人は誰かわかっているんですか?」
「半年くらい前から付きまとい行為をしてくる男子学生みたいで……」
「付きまとい……ストーカーということですか?」
「う~ん……あくまでも大学内限定だから……」
「それでも立派なストーカーですよ」
「特に実害がなかったから放っておいたんだけど……それがダメだったのね……」
いつしか彼……佐藤君は私が交際相手だと周囲に言いふらすようになった。
あまりにもひどいため、学生課とお互いのゼミの教授に相談して佐藤君に注意をしてもらった。本人も反省しているように見えたんだけど……。
「結果は反省はパフォーマンスだったと……」
「ええ……『俺に微笑んで優しくして弄んだビッチ』って言われたけど……なんのことだかさっぱりなのよ」
「……自分に好意があると勘違いしたんでしょうね。情けないことにそういう男性は一定数います」
「好意を向けてくれるのは嬉しいけれど」
正直そんな独りよがりな好意は迷惑の何物でもないのだけれど。小さく嘆息した私の目の前に洋菓子が置かれた。
視線を上げると、矢代さんがいつもの穏やかな微笑みを浮かべながら洋菓子が乗ったお皿を差し出しているのが見えた。
「甘いものを食べて元気を出してください」
「あら、私ってそんなに単純そうに見える?」
「いいえ。でも、このお菓子好きでしたよね?」
柔らかな声は私を案じて、元気づけたいことがわかる。なら、その気持ちはありがたく受け取りましょう。
「……ええ、大好きよ。ありがたくいただくわ」
「ヒバリさん」
「なぁに矢代さん」
「……相手は何をやるかわからないので、気をつけてくださいね」
「わかったわ。心配してくれてありがとう」
この時私は何もわかっていなかった。まさかあんなことになるなって、夢にも思っていなかったのだから……。
ヒバリが矢代に学内でのトラブルについて相談してから約一か月後。
あの後もヒバリは定期的に『Limbo』を訪れていた。そして、トラブルが今どうなっているかを矢代に共有していた。
何事もなく騒ぎも収束するかと、矢代も楽観的に考えていた……そんなある日のこと。
矢代はカウンター奥で頬杖をついてぼんやりしていた。近頃は古書店だけでなく、副業の方も閑古鳥が鳴いており、矢代はとてつもなく暇を持てあましている。
そろそろ副業の方でお客さんが来ないだろうか、などと物騒なことを考えている矢代の鼻腔が冷たく饐えた匂いを捉えた。
彼はこの匂いを嫌というほど知っている。これは、恨みのニオイだ。
「恨みを抱えた子羊がやってきたようですね」
穏やかに呟きながら矢代は笑みを深め、カウンターから立ち上がり入口に向かった。
開けられた引き戸から差し込む光を背に受け、人影が佇んでいる。すらりとしたスタイルの良いそのシルエットに矢代は心当たりがあった。
それは古書店『Limbo』唯一の常連、ヒバリだった。俯いたままで店内に入ってこようとしないヒバリから、濃い恨みのニオイが漂っている。
「ヒバリさん?どうされました?」
「矢代さん……私……私……」
とても弱弱しく震える声でヒバリは矢代の名前を呼んだ。いつもハキハキ喋る彼女からは想像できない声に泣いていると、矢代は本能で感じ取る。
「とりあえず中へ……」
気遣うような矢代の声に反応したヒバリがゆっくりと顔を上げた。元から色白だった肌は、血色悪くなりまるで死人の様。それよりも目を引くのは頬に張られたガーゼだろう。その下は明らかに腫れあがっていて、青く変色しているのがガーゼの隙間から見えた。
唇の端も切れていて痛々しい。その姿は明らかに暴行を受けたことを物語っていて、流石の矢代も顔色を変える。
「いったい何が……」
矢代の顔を見たことで緊張の糸が切れたのか、ヒバリは切れ長の瞳から大粒の涙があふれだした。声もなく泣き出したヒバリの肩に矢代は触れ、抱き寄せる。
泣いている女性にはこうするモノだと、矢代は理解していた。ヒバリは一瞬体を強張らせたが、矢代のいつもと変わらぬ優し気な声に力を抜く。
すすり泣く声を聴きながら矢代は引き戸を閉め、さりげなく結界を張った。ヒバリが落ち着くまで矢代は何も言わず寄り添い続けていた。
「落ち着かれましたか?」
「おかげさまで……急に泣いてごめんなさい」
「いえ、仕方ありませんよ。とりあえず、こちらに」
ひとしきり泣いたことでヒバリは落ち着いたらしく、矢代の肩から顔を上げる。泣いたせいで目は赤くなっていて、化粧も落ちているがこちらの方が好ましいな、と矢代は場違いなことを考えていた。
雑談する時と同じようにカウンターを挟んで座った二人は顔をつき合わせる。ヒバリは何かを考えているようで、矢代と手元を交互に見る。矢代は気遣うような様子を見せつつ、内心は早く話してくれないかなぁと思っていた。
話すきっかけが欲しいなら与えましょうか。
「何があったんですか?」
「……大学での噂、あったじゃない?」
「ええ……ストーカーからの嫌がらせでしたよね」
「昨日、帰り道に男性数人に襲われたの」
「なんですって?」
「えっと……未遂で済んで、実行犯たちは捕まったのだけれど」
ヒバリがつっかえながらも、暴行の実行犯たちはストーカーの友人であることが判明していること。ストーカーに指示されたと自白しているが証拠がなく、実行犯たちが勝手にやったことだと言い逃れていることを矢代に教えた。
「……矢代さん、私、あいつが憎い」
ヒバリが唸るように低く呟いた。その途端、彼女が纏う恨みのニオイが強く濃いものに変化する。
黒い靄がヒバリの体を埋め尽くし、古書店内に広がっていく。上質な悪意に矢代は気づかれないようにほくそ笑んだ。
「噂で私を貶めるだけじゃあ足りないの?私がなにをしてのよ……!」
「ならば、僕がその恨みを晴らすお手伝い致しましょう」
「いったい何を言って……」
困惑するヒバリに矢代はにこりと微笑んだ。
「改めまして……僕は『Limbo』の店主……そして、怨み屋の矢代司です」
「怨み屋……?」
「祟り屋みたいなものだと思っていただいて構いません。さて……」
貴方に必要な『呪い』を授けましょう。
怨み屋という単語を発した瞬間、矢代の纏う空気が明確に変化した。温和で優し気な雰囲気は一気に霧散し、冷たく重い闇を纏った目の前の男性は誰だ?
本能的に恐怖を感じるヒバリの目の前に、白く骨ばった手が差し出される。この手を取ったら、彼は自分の恨みを晴らしてくれるのだろうか?
まるで何かに操られるかのようにヒバリは矢代の手を取った。その手は体温が無いのかと思うくらい、冷たかった。
それでも、ヒバリはこの手を離す気はなく力強く握り返す。
矢代はヒバリの手を引いて、本棚の迷宮を進んでいく。そして、たどり着いた応接スペースのソファにヒバリを座らせ、矢代は本棚から何かを探す。
「ねぇ矢代さん……」
「なんでしょう?」
「なんで私に手を貸してくれるの?」
「今回のことは僕も怒ってるんです。大事な常連さんにこんなことをした主犯がのうのうと生きてるなんて」
一冊の本を手に取った矢代はくるりと振り返った。ヒバリは彼の顔を見て息を飲む。いつも閉じられている目が開かれ、隠されていた真っ黒な瞳がヒバリを捉えた。なんの感情も写さない闇に見つめられヒバリの肌が粟立つ。
ですので、痛い目を見ていただきましょう。
にこりと穏やかな笑顔を浮かべながら矢代は冷たく言い放った。
「今回は『泥人形』という呪いを使います」
「泥人形?」
「泥と血を混ぜて人形を作り、その中に呪いたい相手の髪もしくは爪を入れて作ります」
「血は私のを使うってことよね?」
手を強く握るヒバリの言葉に、矢代はゆるりと首を振った。どこから出したのか矢代は植木鉢を手に持ち、テーブルに置く。
そして、ハーフアップに纏められている髪をほどき、眼鏡を取った。白い相貌に長い黒髪がかかり、一気に翳りのある雰囲気を醸し出す。
これが、怨み屋としての矢代司なのだろう。妖しくも美しい怨み屋にヒバリは目を奪われる。
そんなヒバリの眼前では着々と泥人形の準備が進められていた。
「今回使うのは僕の血にします」
「それはなんで?」
「そうしたら呪いが完璧に僕の制御下に入るからです。今回は急を要しますし、呪いたい相手の髪や爪なども手に入れることはできませんから」
淡々と説明しながら、矢代は事も無げに自分の左手首に嚙みつく。歯が骨に当たる鈍い音が響き、矢代の唇から血が溢れ出した。血をせき止める唇が離れたことにより、尋常ならざる量の赤が指先を伝って植木鉢の中に注がれる。
植木鉢の中で泥と血液を練り上げた人形が形作られていく。出来上がった人形を矢代はテーブルの上に置いた。
赤茶色の泥人形は禍々しく夢に出てきそう。
「さて……これで準備が整いました」
「あの……矢代さん?」
「はい、なんでしょう?」
何か質問でも?と首を傾げる矢代の手首をヒバリは指差した。手首に何があるんだといった表情で矢代はそこに視線を向ける。白い手首からは相変わらず多量の血が流れ続けており、なるほどと合点がいった様子を矢代は見せた。
「ああ、そのうち塞がるので大丈夫です。とりあえず、儀式を進めます」
テーブルに滴り落ちる血液など気にせず、矢代は泥人形を手に取る。空いている方の手でヒバリの顎を掬い上げ、闇色の眼で彼女の瞳を覗き込んだ。
脳内を探られているような感覚にヒバリの背筋が震える。
「……や、矢代さんなにを……?」
「ターゲットがわかりました。佐藤という男ですね」
いつもと同じ優し気な微笑みのはずなのに、なんの感情も感じ取れなくてヒバリの背筋が凍った。そんなヒバリをよそに矢代はどこからか釘を取り出して、手中で弄ぶ。
「さて……どこを絶ちます?」
「はい……?」
「説明が漏れていましたね。これは泥人形を媒体にして呪いをかけるのですが……やり方は簡単。こうやって泥人形を釘で刺すだけです」
「そんなことで呪えるの?」
「呪えますよ。なんていったって、僕が直々に呪うんですから」
ひどく楽し気に言う矢代にヒバリはもう深く考えるのをやめ、流れに身を任せることに決めた。
「どうします?もうこんな悪さできないように性器を絶ちますか?ああ、それとこれ以上余計なことを囀らないようにするのもいいかもしれませんね」
どうします、と問うたくせに矢代はヒバリの返事を待たずに、嬉々として釘を泥人形に刺していく。ブスブスと泥人形の股間部分に何度も何度も執拗に釘をさす矢代は心底楽しそうに笑ってる。
「ふふ、久々に腕が鳴るなぁ……実行犯の人たちは僕の方で対処させていただきますね」
「え……ええ、お任せするわ」
「そうだ……そんなことはされないと思いますが……この事はどうかご内密に」
血がべったりとついた人差し指を口元にあてて矢代は、闇色の瞳を細めて囁いた。
その恐ろしい姿から逃げるように、ヒバリは応接スペースを飛び出す。あんなの、私の知ってる矢代さんじゃない、と何度も繰り返しながら。
歌舞伎町の裏路地を足早に歩く人影が一つ。その人影は『Limbo』の戸を勢い良く開けた。
「おや、ヒバリさんそんなに慌てていかがなさいました?」
本棚の前に置かれた脚立に腰掛けながら、読書にいそしんでいた矢代が慌ただしく入店した人影、ヒバリを不思議そうに出迎えた。
「あの呪い、本当だったのね……」
「ああ、なるほど。……思ったより時間がかかりましたねぇ……やはり媒体がないと時間がかかってしまうということでしょうか」
「……なにがあったか聞かないの?」
「大方、切り捨てられた実行犯と主犯が仲間割れを起こした結果、双方に甚大な被害が出て入院している……という形ではないですか?」
まるで見てきたのように告げる矢代にヒバリは頷いた。確かに実行犯と主犯は仲たがいから暴行事件に発展し、重傷を負って入院している。
実行犯の方は特筆すべきケガはないが、主犯の男は性器を重点的に攻撃され生殖機能を失った上に、喉も薬品か何かで焼けたという。
「佐藤君がね、喉が潰れたっていうのに『影が来る。たすけて、俺が悪かった』って譫言を言ってるらしいの」
「それは興味深いですねぇ」
そういってほのぼのと微笑む矢代は怨み屋の顔はしておらず、ヒバリがよく知る古書店の主のままだった。
目の前の男が恐ろしくないと言ったら噓になるが、助けてくれた恩もあるし、なにより、本について語り合う仲間がいなくなるのはとてもさみしい。
「矢代さん、助けてくれてありがとう」
「僕は自分にできる仕事をしたまでですよ」
「それでも、お礼を言わせて。おかげで怯えて暮らす必要もなくなったもの」
「……僕が手助けするのは今回だけですよ。貴女はこちら側に来てはいけません。いいですね?」
そういって微笑む矢代の瞳は、うっすらと開かれており底深い闇がヒバリの奥の奥まで覗いていた……。
「……おや、これは……」
ヒバリが帰った後、オカルトスレッドを見ていた矢代の目にとあるものが飛び込んできた。そこに書かれた体験談と文字列に、矢代の唇は吊り上げられる。
「……面白いものが見れそうですねぇ。ふふ、久々にコレクションも更新できそうだ」




