水月と董乃
薄暗い道場の中で、二人の男が向かい合っていた。一人は白髪頭の老人。もう一人は、やや白髪が混ざり始めた年配の男。
「まさか、親父殿が水月を行かせるとは思わなかった」
「あの娘が、一番適任じゃろうからな。ときに董乃。水月は明日、風穴に向かうが……。お前、何も言ってやらんのか」
刀也翁の言葉がつかめない董乃は、眉を寄せた。
「久志が<影憑き>となった原因の一端はお前にあること、忘れたとは言わせぬぞ。お前は水月が<死眼持ち>ゆえ、疎んでいるようじゃが……。考えてもみろ、あの娘が何か、不幸を呼んだことはあったか?」
董乃は黙ったまま、自身の父親を見ていた。
「<死眼持ち>は不幸を呼ぶ、など、単なる迷信に過ぎぬ。それに踊らされ、水月を妙な色眼鏡で見るなと言うのだ。好きで<死眼持ち>になったわけでない水月に、それ以上の重荷を負わせる必要などないわ」
座を立ち、出て行こうとする董乃の背に、刀也翁は言葉を投げかけた。
「お前は水月を疎んじておるようだが、水月はお前を嫌ってはおらぬ。そのことを覚えておくのだな」
一瞬董乃の足が止まり、それから、ぎこちない動きで道場を後にした。
道場を出た董乃は、自分の寝間ではなく、別の部屋に向かっていた。
「入るぞ」
障子の前で声をかけると、少し間があって「どうぞ」と声が返ってきた。
障子を開けると、部屋の中では、白い寝巻をきた水月が、一人、手酌で酒を飲んでいた。
「明日は死ぬかも知れないというのに、ずいぶんと呑気だな」
「これまで一度も私のところに顔を見せたことのなかった董乃さんが顔を見せるなんて。明日は嵐になりますかね」
開口一番嫌みの応酬。水月は言った後で肩をすくめた。
「少し前まで、冬也たちと飲んでいたのですけどね。一人になりたかったので。まあ、呑気なのは理解していますよ。でも、明日が終わったら、もう楽しむことができなくなっているかも知れないじゃないですか」
飲みますか、と水月は盃を差し出した。それを断り、座ってもいいかと尋ねると、水月はあっさりうなずいた。
「それで、どうしたんですか?」
「いや、その、お前に言うことがあってな。……昔のことを、お前、どこまで覚えている?」
「どこまで、と言われても。そうですね、十七年前のことは、おぼろげに覚えていますけど。それより昔となると、ほとんど覚えていませんね。それが何か?」
「そう、か。……お前の父親が<影>に憑かれたのは、俺が原因なんだ。俺が、久志に、お前のことで何度も意見したんだ。そのことが、久志を追い詰めていたんだ。それでも俺は止めなかった。……怖かったんだよ、お前が。お前のその目、死を見て、死を焼き付けた目が怖かったんだ」
水月の顔から表情が消えた。一口酒を含み、「そうですか」と答える。
董乃の首にひやりとしたものが触れた。殺されるのか、と思った瞬間、冷たいものは首筋から離れていた。
横を見ると、水月がまた酒を飲んでいた。傍には朱塗りの小刀が置かれていた。
「殺さない、のか?」
「今更、どうにもなりませんから。さっきのはちょっとした憂さ晴らしです。それに、冬也や夏乃に、同じような思いをさせたくないですしね」
「そうか。なあ、水月」
「何ですか、董乃さん」
「……死なずに、戻って来い」
難題だと分かっていた。それでも、姪に伝えた。
「死ぬつもりはありませんよ。そもそも、連れをほったらかして、そんな無責任なことができますか。意地でも帰ってきますから」
笑みを含んだ声。
水月の部屋を後にして、庭へと足を向けた董乃は、小山――水月の家族が眠る山――の方を向いて、心の中で祈った。
あの姪を、守ってやってくれと。
誰より水月を恐れていた男は、月明かりの中、水月のためにそう祈った。




