<影>の危険
全員がその場で凍りついた。その声は老人のようにも、幼い子供のようにも、そのどちらでもないようにも聞こえた。
嬉し 嬉しや
嬉し 嬉しや
怒り 妬み 恐れ 憎しみ
喰ろうてやろうか 喰ろうてやろうぞ
フィレイが悲鳴に近い声を上げ、テナルの後ろの壁を指差した。白い大理石の壁が一か所、墨でもぶちまけたかのように真っ黒になっていた。単なる汚れなどではない印に、それはうねうねと動いていた。
テナルの傍にいたアルフが弾かれたように壁から遠ざかった。テナルも離れようとしたが、足がもつれたのか、その場に転んだ。
「トレヴァー! ぼんやりしていないで、これを何とかしろ!」
トレヴァーは動かなかった。もう悲鳴を上げてはいないが、放心したように空を見つめている。
黒いモノ――<影>は、裂け目にしか見えない口で、ニンマリと笑った。テナルが叫び声を上げる。
<影>がテナルの身体と重なり、溶けるように消えた。
テナルがゆっくりと振り向いた。生気の消えた顔。虚ろな瞳。
「そいつを助けるのか? そんなやつ、放っておいてもいいじゃないか!」
アルフがフィレイをかばいつつ、水月に叫んだ。水月は無視して懐から<祓い札>を取り出した。
<影憑き>となったテナルが笑う。笑い声、とは名ばかりの、聞く者が不快になる響き。
笑っている間に、水月は札をテナルに貼り付け、手を叩いた。笑い声が止んだ。少しの間様子を見て、祓えたことを確認する。
それからようやく水月はアルフに向き直り、彼の頬を思い切り張った。
「<影>がどんなモノか、貴方も一応は<影祓い>なら分かっているでしょう。人を選んで祓いをするつもりなら、すぐに<影祓い>をやめて、家に帰りなさい」
踵を返し、水月は屋敷を去った。宿には戻らず、あえてゆっくりとした歩調で街中を歩き回る。
アルフの言うことも分からない訳ではない。水月自身、テナルを許していない。それでも<影>を祓ったのは、<影>が危険なモノだから、というだけではない。<影憑き>となったテナルが、屋敷の人間全員に危害を加える恐れもあった。
辺りがすっかり暗くなっても、水月は街中を歩き回っていた。さすがに足が疲れたので、広場のベンチに座って夜空を見上げた。
灰色の雲で覆われた空。星どころか、月すら見えない。自分の気持ちと同じだと、水月は苦笑を浮かべた。
そのまま物思いにふける。
もしこの目がなかったならば、どれほど楽に生きられただろうか。どれほど平和に生きられただろうか。
(やめよう。考えても仕方がないことだもの)
軽く頭を振って、気持ちを切り替える。
(さて、そろそろ宿に戻ろうかしらね)
ぐ、と一つ伸びをして、水月はベンチから立ち上がった。
後ろから、足音が聞こえた。
「水月、やっと見つけた」
振り向くと、息を切らせたアルフが立っていた。
「ああ、アルフ。ちょうど良かった」
首を傾げたアルフに向かって、水月は薄く笑ってみせた。




