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<影祓い>  作者: 文月 郁
ラルグラード編
16/36

<影>の危険

 全員がその場で凍りついた。その声は老人のようにも、幼い子供のようにも、そのどちらでもないようにも聞こえた。


嬉し 嬉しや

嬉し 嬉しや

怒り 妬み 恐れ 憎しみ

喰ろうてやろうか 喰ろうてやろうぞ


 フィレイが悲鳴に近い声を上げ、テナルの後ろの壁を指差した。白い大理石の壁が一か所、墨でもぶちまけたかのように真っ黒になっていた。単なる汚れなどではない印に、それはうねうねと動いていた。

 テナルの傍にいたアルフが弾かれたように壁から遠ざかった。テナルも離れようとしたが、足がもつれたのか、その場に転んだ。

「トレヴァー! ぼんやりしていないで、これを何とかしろ!」

 トレヴァーは動かなかった。もう悲鳴を上げてはいないが、放心したように空を見つめている。

 黒いモノ――<影>は、裂け目にしか見えない口で、ニンマリと笑った。テナルが叫び声を上げる。

 <影>がテナルの身体と重なり、溶けるように消えた。

 テナルがゆっくりと振り向いた。生気の消えた顔。虚ろな瞳。

「そいつを助けるのか? そんなやつ、放っておいてもいいじゃないか!」

 アルフがフィレイをかばいつつ、水月に叫んだ。水月は無視して懐から<祓い札>を取り出した。

 <影憑き>となったテナルが笑う。笑い声、とは名ばかりの、聞く者が不快になる響き。

 笑っている間に、水月は札をテナルに貼り付け、手を叩いた。笑い声が止んだ。少しの間様子を見て、祓えたことを確認する。

 それからようやく水月はアルフに向き直り、彼の頬を思い切り張った。

「<影>がどんなモノか、貴方も一応は<影祓い>なら分かっているでしょう。人を選んで祓いをするつもりなら、すぐに<影祓い>をやめて、家に帰りなさい」

 踵を返し、水月は屋敷を去った。宿には戻らず、あえてゆっくりとした歩調で街中を歩き回る。

 アルフの言うことも分からない訳ではない。水月自身、テナルを許していない。それでも<影>を祓ったのは、<影>が危険なモノだから、というだけではない。<影憑き>となったテナルが、屋敷の人間全員に危害を加える恐れもあった。

 辺りがすっかり暗くなっても、水月は街中を歩き回っていた。さすがに足が疲れたので、広場のベンチに座って夜空を見上げた。

 灰色の雲で覆われた空。星どころか、月すら見えない。自分の気持ちと同じだと、水月は苦笑を浮かべた。

 そのまま物思いにふける。

 もしこの目がなかったならば、どれほど楽に生きられただろうか。どれほど平和に生きられただろうか。

(やめよう。考えても仕方がないことだもの)

 軽く頭を振って、気持ちを切り替える。

(さて、そろそろ宿に戻ろうかしらね)

 ぐ、と一つ伸びをして、水月はベンチから立ち上がった。

 後ろから、足音が聞こえた。

「水月、やっと見つけた」

振り向くと、息を切らせたアルフが立っていた。

「ああ、アルフ。ちょうど良かった」

 首を傾げたアルフに向かって、水月は薄く笑ってみせた。

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