第九章④ ルキフェル
ブレスト城の外壁沿いに、一隻の帆船が音もなく横付けされていた。見張りの姿はない。誰もが内側で起きている騒ぎへ意識を奪われている。甲板に立つルキフェルは、剣帯に差したカットラスへ視線を落とした。
「……ついにきた」
武器の手入れをしているサミュエルとロザリー、その傍らで城を睨むニールとジャスパーの横を、ルキフェルはすり抜けてレオンのもとへ辿り着く。
「ルキフェル……生きて帰りなさい。自分の命を粗末にするな」
レオンが声を震わせて言うと、ルキフェルは目を細めて言う。
「安心しろ。……必ずアントワーヌを止めて、お前と再会させる」
レオンがルキフェルに抱きつく。ルキフェルは面食らもすぐに腕を回して抱き返し、すぐに離れると背を向けて歩き出す。途中、ニコラが駆け寄ってきた。顔には明確な不安が浮かんでいる。ルキフェルは足を止めず、ニコラの肩に手を置いた。
「俺たちが降りたら速やかに船を動かせ。離れろ」
「え……?」
「ここにいれば全員巻き込まれる。ブレスト港は分かるな? あそこへ向かえ。……舵を握るのはお前にかかってる」
「……はい」
ニコラが力強く頷いて引き下がると、ルキフェルは船縁に目を向けてカットラスを引き抜いた。刃がわずかに光を返し、ルキフェルが一歩踏み込むと助走をつけて縁を蹴った。身体が宙へ放たれ、彼の背後でレオンの声が響いた気がしたが、ルキフェルは草地に着地した瞬間に衝撃を殺して駆け出す。松明に照らされた石畳の坂道、騒ぎの中心へ向かって一直線に。ニールが甲板城で足を踏み下ろした。海風が青い髪紐で結ばれた髪を煽り、松明の光が鋭い影を刻む。彼の背後でサミュエルとロザリーは城を見据えていた。ニールが二人を振り返る。
「……君たちも、戦うんだろう?」
「ああ。お前たちに尽力しよう」
「なら……安心だ」
次の瞬間、ニールが船縁を蹴って闇へ飛び出した。
「行くよ!」
サミュエルとロザリーも即座に続き、三つの影が夜を裂いて同じ坂道を駆け上がっていった。
「おし、あとは頼んだ!」
ジャスパーは声を響せると振り返ることなく船縁から飛んだ。軽やかな紅い閃光が帆船を離れ、地へ落ちる。ニコラは船尾へ駆け出して操舵輪を掴み、腕に力を込めるが、船はすぐには応じない。
「これ、思ったより重い……!」
「貸せ!」
ティエンが駆け込み、二人で舵を押さえ込むと重さが分散され、ようやく船が向きを変えた。
「帆を引け! 風を逃すな!」
甲板ではマルクが声を張り上げ、東洋の船員たちが即座に応じる。ロープが走り、帆が鳴る。帆船が徐々に外壁から離れ、進路をブレスト港へと変えていく。喧騒の中でポーランが不安げに呟く。
「この混乱……どうなっちゃうんすか」
「わからん。彼らを信じるしかない」
ワンは視線を城から外さず囁き、イヴォンは遠ざかるブレスト城を見上げていた。
「……マクシミリアン・ブーケ、どこで道を違えたんだ」
まっすぐなはずの部隊長が復讐者だったという事実、まだ受け入れきれていない。船は離れていく、戦場は背後に残されていった。
石畳の長い坂道を、ルキフェルは駆け上がっていった。呼吸は荒く肺が焼けるように痛むが、足は止まらない。視線はただ一点、炎の向こうへ。やがて坂の頂が近づくと視界が開け、中庭では松明の光に照らされ、鋼と影が入り乱れている。怒号、金属音、血の匂いがルキフェルの中に潜む感覚を鋭くさせた。
——間に合え。
ルキフェルが門のアーチへ飛び込んだ瞬間、数人の海軍兵が一斉に振り返った。
「——誰だ!」
「お前……まさか……五鬼衆の——ルキフェルか!?」
ルキフェルは足を止めて声を石壁に反響させる。
「通してくれ! お前たちに用はない、その先にいる奴に会わせろ!」
「黙れ、海賊が!」
「ここを通れると思うな、邪魔するなら容赦しない!」
剣が抜かれ、数人が同時に踏み込んだ。斬撃が来る。速いが、遅い。ルキフェルの身体が滑るように軌道を外し、最小の動きで刃を躱す。踏み込みの力を殺さず横へ流し、兵の懐にカットラスの柄を振り抜く。鈍い音と共に一人が崩れ、別角度から別兵の剣が振り下ろされる。ルキフェルは半歩踏み込み、肩を入れて力を受け流すと同時に、兵の手首を返した。太極拳の動きで相手の重心が崩れ、ルキフェルは柄で兵の顎を打つ。すぐにルキフェルの背後から気配がするも、ルキフェルは振り返らず肘を後方へ走らせ、兵の鳩尾を正確に打ち抜く。さらに二人が突っ込んでくると、ルキフェルは相手の間合いの内側へ、片手で剣の軌道を逸らし、もう片方で首元を打ち、続けざまに足払いをした。倒れた兵たちを振り返ることなく、ルキフェルはアーチを抜けると松明の光が一気に視界へ流れ込んだ。石畳を踏み抜くたび、衝撃が脚から背へと駆け上がる。
——近い。
草地が広がる中庭に足を踏み入れると熱が押し寄せた。火、血、鉄。ルキフェルの視界の端で刃が交わり、怒号が弾け、誰かが倒れ、ルキフェルの足はすべてを横切っていく。
「——来たぞ!」
「五鬼衆が来たぞ!!」
海軍兵の声が音として流れていく。
——関係ない。
正面から剣が来きて、ルキフェルは体を半歩ずらすと刃が空を切った。ルキフェルは相手の懐に向かって柄で打ち、相手は肋骨に鈍い感触を受けて崩れる。次、横から突きがくるとルキフェルは腕を絡めて軌道を逸らす。返す動きで相手の手首を制す。落ちる剣は拾わない、踏み越える。また一人前に出ると重心をずらし、太極の流れで押し戻す。相手の足がもつれる隙に、喉元へ柄を叩き込む。沈む。流れる。止まらない。誰かが叫ぶ。
「おい、あいつだ……!」
「ルキフェルが来たぞー!!」
ルキフェルの視界はすでに中庭の中央へ絞られていた。
——いた。
火の中で刃が回る二振り、異国の装束、灰色の髪。動きは鋭く重く、狂気じみている。斬るたびに空間が歪むような錯覚がした。
——アントワーヌだ。
ルキフェルの心臓が一拍強く打った瞬間、周囲の音が完全に消えて視界が狭まる。
——間に合え。
ルキフェルは草地を蹴った。前を塞ぐ兵が二人をまとめて視界から外し、低く潜ると一人の膝裏を払い、崩れた身体を盾にしてもう一人の刃を弾く。身体を捻り、柄で側頭部を打つ。兵が倒れて道が開くとルキフェルは足をさらに加速させて距離を縮めていく。あと少し、あと数歩。その時、マクシムは一人の兵を斬り伏せた。血が弧を描き、呼吸を整える間もなく次へ向かおうとし、別の気配が割り込んでくる。
——そこにいた、一直線に突っ込んでくる影。翡翠の双眸、傷だらけの顔を認識した瞬間、マクシムの胸の奥が跳ねた。
「……来た!」
マクシムの口元が緩む。約束は果たされた。あの男は来た。だが次の瞬間、マクシムの笑みが揺らぐ。様子がおかしい。速いが、それだけじゃない。ルキフィエルの視線が異様に細い、周囲を一切見ていない。まっすぐすぎる。
——焦っている? 違う。もっと切迫した何か。
マクシムは目を細めた。来てほしかった男が目の前にいるが、同時に違和感が胸の奥で小さく軋んだ。ルキフェルが踏み込んだ瞬間にカットラスが降りかかり、マクシムは反射で構えた双剣を掲げた。鋼が噛み合って火花が弾け、二人の視線がぶつかって互いの息がかかる。鍔迫り合いで互いに引かず、マクシムは歯を食いしばりながら言う。
「……約束と違います。僕が必ず、大元帥を殺します。それまで……控えてください」
ここで終わらせる。この一撃、この一夜で、自分が何者かを証明する。他の道は最初からなかった。勝てなかったものがいくつもある。選ばれなかったことも、比べられ続けたことも、すべてここへ押し込んできた。だから——終わらせる。その先は、もう決めてある。エリオットを斬る、そのあとに残るものは一つだけだ。目の前の男、ラウル、ルキフェル。越えられなかった対象、最後に残る証明の相手。その順番を崩されるわけにはいかない。
マクシムは刃にかかる力をさらに一点に集めて押し込むが、ぶつかっているはずの力が読めない。ルキフェルは力を逃してはいるが、揺れている。呼吸が荒い、視線が狭い。周囲を見ていない。目の前だけを見ている。マクシムは思わず眉を顰めた。
——こんな戦い方をする男だったか。
ルキフェルは押し合いの中で呼吸を詰めていた。肺が足りない、鼓動が速い。視界が狭いが、絶対に離さない。離した瞬間、こぼれる。ここまで来た意味が失われる。ルキフェルの喉の奥で言葉が擦れた。
「……違う。俺は……お前を止めに来たんだ」
ルキフェルが押し返すと刃同士が軋み、火花が細かく散る。マクシムの目が一瞬細くなり、ルキフェルは瞬きを減らして掠れた声で吐き出す。
「約束は……間違っていた」
その瞬間、マクシムの思考が止まって音が消える。圧も重さも距離も一瞬だけ意味を失い、言葉の意味が遅れて追いつく。約束、交わしたものを否定した。目の前の男が。双剣の刃にかかる力がブレて、ルキフェルの瞳が松明の火より眩しくて突き刺さる。
「俺は止める。全てを終わらせるために」
再び力が噛み合って鋼と鋼が擦れ、火花が散る。
夜の喧騒が遅れて二人の周囲へ戻ってくるが、もう同じ戦場ではなかった。互いに向けているものが違う。同じ場所に立ちながら、見ている終わりが食い違っている。中庭の端で影が三つ、同時に地を蹴った。ニールが先頭を走り、彼の後ろにサミュエルとロザリーが駆けてくる。速度は落とさない。正面から兵が割って入り、剣が振り下ろされる。ニールは半身をずらして刃を紙一重で外し、そのまま踏み込んで相手の懐へ入ると短い振りで腕を弾き、剣を逸らす。次の一歩、別の兵の突きが来る。今度は刃で受ける。刃と刃が擦れ、火花が散るが押し切れない。間合いが詰まりきらない。横からもう一撃。ニールは避けきれずに浅く斬られ、布が裂けて血が滲んだ。
「……っ」
さらにもう一人が迫る。振り上げられた剣が落ちる前に、サミュエルが割り込んで片腕で相手の刃を受け止めた。
「退け」
サミュエルが低く言って体ごと押し返すと、兵の体勢が崩れると踏み込んで拳を走らせた。鎧越しでも関係ない、鈍い衝撃音とともに兵が吹き飛ぶ。ニールは傷口を押さえていると、ロザリーがすぐ横についてニールの死角に入った兵の刃を弾く。
「無理しないで」
ニールは呼吸を整え直した。痛みはあるが動ける。少し遅れてジャスパーが中庭へ足を踏み入れ、視界に広がる光景を一瞥する。
「……ひでぇな」
「おい! ニール・セイルハートとジャスパーも現れたぞ!」
誰かの叫びで周囲の兵が騒つき、数人が一斉に動いてジャスパーを囲んで間合いを詰めるが、ジャスパーは笑って最初の一撃を紙のように躱すと体を捻り、相手の軌道を外して喉元に肘を入れた。一人が崩れ、ジャスパーは二人目の剣を掴むように受け流して足を払い、石畳に叩きつける。三人目、ジャスパーは振り上げられた刃を滑らせ、背後へ回ると首筋へ一撃をお見舞いして沈ませた。今度は三人同時に突っ込んでくる。ジャスパーは腰に帯びていた連結剣を手に取って軽く振った。
「これ返すわ」
ジャスパーは連結剣を横薙ぎで振ると鎖と剣先が遅れて連動し、三人の兵士に蟠を巻いて転ばせた。囲みは数秒で崩れ、ジャスパーは連結権を手放すと倒れた兵たちを跨いで駆ける。ニールたちは押し込むように進み、ジャスパーはカットラスを抜いて別の軌道で切り裂く。シャルルの剣が止まり、振り抜くはずだった軌道が宙で固まる。
「……え? あ、サミュエルとロザリー……」
シャルルが言葉を溢した時、見覚えのある金髪の青年もいることにやっと気づいた。
「……え? あ……あいつ、五鬼衆の……?」
サミュエルの声が空気を裂くような一撃で叩きつけられた。
「——マクシム! グウェナエル! 今すぐ剣を下ろせ!!」
刹那、全体の動きが鈍って誰もが判断を遅らせ、マクシムもルキフェルの肩越しにサミュエル達の姿を見つけた。
「……なんだって?」
「ここまで来て裏切る気か!! 今さら中立気取りか!? 血迷ったのか!!」
グウェナエルの怒声が割り込むが、サミュエルは剣を振りかぶって騒ぎの中心へ突っ込んでくる。
「ここまでやめないなら……力ずくで止める!」
その瞬間、ダヴィットがサミュエルの前に立ちはだかって反射で受けた。サミュエルの刃の衝撃が腕を駆け上がり、骨に響く重さに押し返す力容赦なく食い込む。
「くっ……! サミュエル、本気か!?」
「本気だ!」
間合いが噛み合う。押し合いではない、潰し合いだ。ダヴィットの中で理解が追いつかないまま警戒だけが先に立つ。なぜこちらへ来る、なぜこの角度で斬り込む。問いは浮かぶが、刃が許さない。対するサミュエルは止めるために力を通す。彼らの横でロザリーの声が裂ける。
「お願い! 話を聞いて!!」
ロザリーが二人の間に言葉を差し込もうとするが、リラは剣を握り直して割り込んだ。
「邪魔するなら……容赦はしない」
「リラ……っ!」
「黙って!」
リラの斬撃が走る。迷いのない軌道をロザリーは受け、いなして流すが、距離は詰められる。リラの刃がロザリーの頬を掠め、ロザリーの胸に焦りが積もる。どうしてこうなる。言葉が届かない。少し離れた位置でシャルルが第八の兵を切り伏せながら叫ぶ。
「くそっ……何なんだよ、これ……! どいつが敵で……どいつが味方なんだ……!」
戦う相手の輪郭が曖昧になり、ジョルジュも剣を握る手を震わせた。
「やめてくださいよ……! こんなの……こんなの聞いてない……!」
戦場の外縁で、ニールは視線を巡らせ、同じ側にいたはずの者同士が斬り合っている光景に背筋を冷やす。アルフォンスも同じく外縁の後方で立ち尽くしていた。
「……副司令官。彼らに……何が?」
イザベルは目の前で起きている味方同士の殺し合いを見つめるしかない。ルソーは血に濡れた笑みを浮かべ、喉を鳴らすように叫んだ。
「さあ、もっと来い! 血の匂いが足りんぞ!」
彼の連結剣が松明の光を弾き、鋼の鎖が唸りを上げて宙を走る一瞬の隙を突かれ、グウェナエルの腕に鎖が絡みついた。
「くっ……!」
引き寄せられた腕に力が入らず、グウェナエルの身体が硬直する。マクシムはルキフェルの刃を受け止めた。圧が強い、押し切れる力はあるが、引けない。引いた瞬間にすべて崩れる。自分たちの周囲では味方同士がぶつかり、目の前では約束を否定した男が立っている。裏切られたという感覚が遅れて胸に刺さるが、それよりも厄介なのはどう動くべきかが定まらないこと。
「……このままじゃ、埒があきません!」
マクシムの声が思わず漏れる。ルキフェルも踏み込みきれないでいた。仲間が入ってきて戦場はさらに歪んだが、この距離が崩れない。引けば逃がす、押せば斬る。どちらも違う。ルキフェルは歯噛みした。時間が足りない、状況が悪い。それでも目の前の男から視線を外せない。このままでは終わらない、終わらせられない。一方、ジャスパーは迫り来る兵士たちに次々と峰打ちを喰らわせ、周囲に転がる影を一瞥した。
「……雑」
ジャスパーは耳を澄ました。中庭の中心、鋼の音がひときわ濃い、視線が音の方へ向く。
——あっちだ。
ルキフェルの位置はもう見えている。空気の流れで分かる、あそこだけ圧が違う。ジャスパーは倒れた兵の間を縫うように走り、躊躇なく踏み越えて速度を上げた。風が頬を裂き、戦場の喧騒が背後へ流れていく。一方、ダヴィットはサミュエルの刃を弾き返しながら城壁側の圧が薄れたのを察知した。
「城壁通路から人は消えた! 突破は目前だ!」
「——させるか!!」
中庭の縁を裂くように赤い影が飛び込んでくる。ジャスパーがマクシム目掛けてカットラスを振りかぶった。
「マクシミリアン・ブーケ!!」
刹那、マクシムの目つきが鋭くなった。
——来る。
ルキフェルはマクシムの肩越し、その先へ目を向けてしまった。中庭に流れ込んできた別の影。マテオとコリンとペネロペ、そして縄に縛られた三人の女。その中にいた長い銀髪、見間違えようのない輪郭を見つけてつい呼吸を忘れた。
——スザンヌ、なぜここに。
ルキフェルの思考が割れる。ここにいるはずがないと、どこかで決めていた。来てほしくない場所に来てしまった。ルキフェルの呼吸が乱れ、剣圧が緩んだ。
「——今だ」
マクシムは全身の力を一点へ集めて押し、ルキフェルの刃を強引に弾いて火花を散らした。鍔迫り合いが崩れる瞬間、マクシムは地面に吸い付くように身体を沈め、ジャスパーのカットラスが彼の頭上で唸りを上げて空を切る。
「なっ——!」
マクシムは前転して滑るように立ち上がり、双剣を構え直した。彼の視界に入るのは二人。正面、ルキフェル。側面、ジャスパー。挟まれたが、恐れはない。むしろ望んだ形に近い。ルキフェルは一瞬の遅れを自覚していた。見てしまった。あの姿を、余計なものが入り込んだ。舌打ちが喉まで出かかるが、もう遅い。距離が開いて状況が変わった。ジャスパーがルキフェルの脇を通り過ぎ、マクシムとの間合いを詰める。
「悪いな、邪魔するぞ」
ルキフェルも遅れを取り戻すために動く。三人の距離が交差して刃が閃き、気づいた時には足元が赤かった。踏み出した靴底にぬめりが絡み、乾ききらない血が石の目地に沈み、松明の火を鈍く返している。どこで倒れたのかも分からない兵の腕が割れた槍の下から半分だけ覗いていた。中庭に足を踏み入れたマテオは思わず立ち止まって息を吸う。肺に入るのは鉄の匂いと焦げた油の気配。
——こんなはずじゃなかった。
斬り結ぶ音がまだ奥で鳴っている。マテオの横でコリンの肩が震えた。
「……なに、これ……」
ペネロペは口を開かず戦場を見ていた。ここに至るまでの選択、その先にあるのがこの光景だとようやく理解が追いつく。
——あたしたちが、連れてきた。
止めるために来たはずの足が戦場を増やした。言い訳はどこにも置けない。三人の背後で縄がきしみ、アニータが歯を食いしばっていた。彼女の視線は中庭の中心へ釘付けになっている。さっきまでの怒りが形を失っていく代わりに、別のものが胸に溜まる。
——戻れない。
リゼーヌは息が浅く、焦点が定まらない目で中庭を見ている。
「……どうして……」
マテオは振り返って三人を前に押し出すと、喉を裂くような声を張り上げた。
「——全員、手を止めろ!!」
金属音が途切れ、誰もがマテオたちを振り返った。マクシムの瞳がはっきりと揺れ、刃先がわずかに下がる。
「……っ! そんな……!?」
マテオは冷たい目でマクシミリアン隊を見据えて告げる。
「これ以上、動くな。次に刃を振った瞬間、この三人がどうなるか分かるな?」
コリンがマテオの一歩後ろで息を呑む。自分の手で縛った結び目がやけに固く見えた。解けないよう締めたものが今になって喉を締める。
「……もう、やめようよ! これ以上続けたら……本当にみんな死んじゃう! こんなの、誰も望んでいないでしょ!」
届いてほしい。誰でもいい、止まってくれ。スザンヌは赤く染まった草地を見下ろしていたが、恐る恐る顔を上げた。マクシムがいる向こう、戦場の中心にルキフェルがいて、スザンヌの呼吸が止まって音が消えた。世界が遠のく視界の中で、彼だけが異様に鮮明になって胸の奥が空白になる。ルキフェルも刃を構えたまま硬直した。スザンヌと絡んで視線が絡んで喉が急速に渇く。風が血の匂いを運ぶ中、ペネロペの声が遅れて落ちる。
「……お願い。もう、諦めて」
懇願なのか命令なのか自分でも分からないが、この場を止める言葉を絞り出す。ルキフェルは剣を下ろさず一歩踏み出すと、マクシムや彼の背に並ぶ隊員たちをまとめて射抜く。
「——今すぐ、武装解除しろ。こんな争い、無駄だ。誰も……望んでいないだろ」
言葉の端に掠れが混じり、ルキフェルは縄に縛られた三人を顎で示す。
「これ以上、あいつらを追い詰めるな」
沈黙が落ち、最初に崩れたのはシャルルだった。彼の視線が三人へ落ちると唇を噛み、肩が震えて握っていた剣が重くなる。
「……くそ……」
シャルルが吐き出すと指の力が抜け、金属が石を打つ音が中庭に広がる。
「降参だ。……これ以上は、無理だ」
ジョルジュがロザリーを見て視線を逸らし、胸の奥に引っかかっていたものが限界を越えて剣を持つ手が下がる。
「……やっぱり、ボクにはできない」
彼の隣でリラが首を振る。
「仲間に……剣を向けるなんて……できない」
二つの刃が続けて落ち、ダヴィットは歯を食いしばって肺に空気を入れるたび何かが削れていく。
「……ちくしょう、クソが……もう、いい……」
ダヴィットが吐き出すと、放るように手を離して剣が落ちる。ルキフェルは肩の力が少しだけ抜けた。届いた。胸の奥で小さな熱が灯る。安堵に近いものが広がるが、剣は下ろさない。まだ終わっていない。マクシムは動かなかった。ここで手を放すのか、刃を落とすのか。敗北ではない、もっと別のものだ。ここまでの時間、ここまでの選択。ここに立っている理由そのものを捨てるということ。
——それで、何が残る。
答えは浮かばない。浮かばないからこそ、握りが離れない。マクシムの伏せた瞳の奥で思考が固まっていく。ルキフェルはマクシムを見据え、距離を詰めながらカットラスを剣帯に収める。近づいてくる足音に、マクシムは反射的に顔を上げた。幼い頃から知っている顔だ。あの頃と同じ呼び方はしない、それでも同じ色の目を向けている。マクシムの中で記憶が勝手に解けた。
暖かで刺すような陽の光、風が運ぶ草木の匂い。
何も背負っていなかった頃、ラウルの眼差しが胸の奥に触れる、触れてほしくない場所に。
——やめろ、近づくな。苦しい、今の自分を、その目で見ないでくれ。
剣を握るマクシムの手の甲に筋が浮いた。ルキフェルはマクシムの目の前で立ち止まると、彼を頭からつま先まで目を凝らした。幼馴染、異国の服を纏って、復讐心に飲まれてここに立っている。
ルキフェルは喉に塊がある感じを抱えたまま、視界が滲んで声を押し殺して震わせた。
「……もう、やめよう。——復讐なんて……意味がない」
ここまで見てきた。奪われたものも、奪ってしまったものも。その先に何も残らないことを。だから、止めたい。だが、彼の言葉は別の意味で届く。マクシムの中で何かが切れた。乾いた音も予兆もない。線が断たれ、胸の奥に押し込めていたものが一気に反転する。
——お前が、お前が言うなッッ!
ここまで歩いてきた理由、選んできたすべてを、今この場で否定された。存在ごと踏み潰されたような錯覚。ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな。怒りと屈辱で頭が熱く腫れ上がるように痛い。次の瞬間、マクシムが一直線に距離を潰してきた。剣の柄がルキフェルの眉間へ叩き込まれて鈍い衝撃が走った。
「——ッ!」
ルキフェルの視界が弾け、白い光が散って音が遠のき、身体の軸が崩れる。マクシムはルキフェルの体を強く押すと、ルキフェルは後方へ弾かれて石畳を転がる。マクシムは迷いを振り切るように走り去り、ルキフェルは地に手をついた。指先が震える、頭が重い、世界が揺れる。何をされたのか、断片しか残らない。痛みだけがはっきりとある。目の前がまだ白いまま揺れていた。
「ルキフェル!!」
ジャスパーの声が近い、すぐ横で地面が鳴る。膝が打ちつけられる音と誰かが屈み込む気配。
「ルカ、大丈夫か!?」
マテオに肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。
「……不意打ちか、卑怯だ……!」
ニールの声が低く落ちる。彼らの側で刃が擦れる音が鳴っている。
「視界は!? 意識はある!?」
コリンが身を寄せてきた。ルキフェルは浅く呼吸を繰り返していた。熱い、喉が焼ける。頭の奥でまだ鈍い音が鳴り続けている。指先が石畳を掴むも力が入らない。世界が傾いたまま戻らない。ジャスパーがルキフェルの後ろに回って背を支え、倒れたままでも呼吸が通る位置に角度を変える。
「無理に動くな」
マテオが舌打ちし、ニールの視線が輪の外の動きを追っている。コリンはまだ目の前にいて視線を合わせようとするのに必死だ。ルキフェルの耳に騒ぎの断片が遅れて届く。
「おいおい、いったい……どうなってやがんだ」
誰かの声、少し離れた場所。低い、戸惑っている。鎖の音、金属が擦れて張っていたものが緩む瞬間、別声が鋭く空気を裂く。
「行くぞ!」
足音が二つ、強く地を打って何かが横を抜ける。追う影、追われる影、方向は城の内。理解が遅れてくる。
——逃げた。いや、追った。
どちらかが先に動いて止めきれなかった事実が遅れて胸に落ちる。ルキフェルの指先が震え、呼吸が浅くなる。
——しくじった。
止められたはずだった。あそこで、あの一瞬で。自分が切らせた。その時、イザベルの鋭い声が戦場全体を包んだ。
「海軍員に告げる! 目標はマクシミリアン・ブーケ隊および五鬼衆! 両方、必ず捕えよ! 城内へ急げ!」
命令が落ちた瞬間、空気が動いて石畳を叩く音が重なる。
「追え!」
「逃がすな!」
人影と音が波のように流れ、止まっていたはずの戦場が別の形で動き始める。ニールが顔を上げて目つきを視線が鋭くさせる。
「……来る」
マテオが周囲を睨んだ。選ぶ時間はない、ここで囲まれるか離脱するか。ジャスパーがルキフェルを支えたまま低く囁く。
「立てるか」
ルキフェルは息を吸う。まだ重いが、止まっていられない。その間にも周囲は変わった。剣を落とした者たちが最初に捕まる。シャルルの腕が後ろにねじられ、ダヴィットが歯を食いしばって押さえ込まれる。リラとジョルジュも同じ。第八の兵が容赦なく縄をかけ、次にサミュエルとロザリーが押さえつけられる。
「待て、違う——」
サミュエルが声を上げてロザリーも言葉を重ねるが、第八の手が回って自由が奪われる。ペネロペも同じだ。アニータとリゼーヌ、スザンヌの周囲に兵が集まって包囲が厚くなる。逃げ場が消える中で、スザンヌは兵の肩と肩のわずかな間に目を向けた。倒れている影、支える四つの影。ルキフェルはまだ起き上がれていない。スザンヌの胸の奥が強く脈打って息が詰まる。声を出せない、名を呼べない。マクシムとグウェナエルは城の闇の中へ消えていく。
ルキフェルは歯を食いしばって膝を伸ばした。ジャスパーの腕がルキフェルの背を支え、マテオが彼の肩を掴んで体勢を起こす。石畳の冷たさがルキフェルの足裏に戻り、立った瞬間に輪が見えた。剣の先端が同じ高さで自分たちに向けられている。ニールが半歩前に出て、コリンはルキフェルの隣で視線を走らせる。マテオは外側を睨み、ジャスパーは一歩だけ引いて全体の動きを読んでいた。ルキフェルが兵士たちを見渡しながら声を枯らす。
「待ってくれ……! 俺たちは、この戦いを終わらせに来たんだ! 無意味な殺し合いを——」
「聞く必要はない! ——もう十分聞いた!」
冷たい声に遮られ、剣が動いて一斉に踏み込まれる。
「……くそっ」
ルキフェルはカットラスの柄に手をかけて抜くと刃が光を拾う。同時に三つの影が動き、マテオが正面へ出る。ニールが右を受け、コリンが左の間合いをずらす。ジャスパーが一歩で間を詰め、最短で一人の手首を弾く。避けて、受けて、弾く。斬らないが、押し返す。その隙間に、ジャスパーの手が伸びてルキフェルの肩を掴んだ。
「ルキフェル! あいつらを追うぞ!」
ジャスパーの視線はすでに城内へ向いている。消えた背中、マクシムとグウェナエルを止めなければ間に合わない。ルキフェルの視線が横へ流れる。マテオ、ニール、コリン。置いていけない。ルキフェルが声をあげようとした瞬間、マテオが振り向きもせず言う。
「ここはオレたちが止める。先に行け」
ニールが視線だけを寄越して頷き、コリンも息を整えながら頷いて目が合う。ルキフェルの鼓動が大きく跳ね、ジャスパーの指がさらに力を込める。
「行くぞ!」
「……分かった!」
ルキフェルが頷くと、三人に目を向けてすぐ背を向けた。
「——お前ら、死んだら許さない」
ルキフェルはジャスパーと共に踏み出すと、兵士の剣が振り下ろされて即座に躱して踏み込み、柄で打ち払って間を割る。二人は開いた一瞬の隙間に滑り込むと城内の暗がりへ一目散に駆けて行った。マテオが剣を握り直し、ニールが彼と肩を並べ、コリンが後ろ半歩で間合いを取ると囲む剣が再び詰まった。
「さて、どう相手してやろか」
マテオは笑みを浮かべ、一歩踏み込むと手首で返して相手の剣を弾く。乾いた金属音と共に弾かれた兵の腕が流れ、体勢が崩れる。
「下がれ!」
ニールが隙間へ滑り込み、横から入って柄で兵の肩口を叩く。急所は外し、意識だけを削る。コリンは視線が走らせ、次に来る刃の軌道を読む。
「右、来る!」
コリンの声に合わせてマテオが受け、ニールが裏へ回る。コリンが足払いで間を切った。囲みが狭まって剣先がじわりと距離を詰める時、低く豪快な声が割り込んだ。
「おい、そいつらはオレの獲物だ」
兵たちの動きが一瞬鈍り、ルソーが押し退けて前へ出る。ルソーの口角は上がっているが、目だけが冷たい。
「誰も邪魔するなよ!」
次の瞬間、鎖が鳴ってルソーの連結剣が円を描き、唸りを上げて空気を裂いてきた。
「——うおっ、あぶねっ!」
マテオが身を引くと鼻先を掠めて鎖が通り過ぎる。剣先が石畳に当たって火花が散り、ニールが思わず顔を強張らせて叫ぶ。
「あ、前にジャスパーが使ってたやつ!」
鎖が横薙ぎで再び走り、コリンは頭を下げて躱すと声を裏返す。
「リーチが長すぎて、無理だよぉ!!」
横薙ぎと縦落としの連続、マテオが剣で受けると衝撃が腕を伝った。重い、ただの間合い武器じゃない。振りそのものに力が乗っている。隙を突いて横から入ろうとするが、連結剣の軌道が変わって追ってくる。間合いを外しても戻ってくる。
「……面倒だな」
ルソーは鎖が鳴るたび笑みを深めた。ニールが舌打ちしていると軽やかな足音が耳に届いた。視界の端に白が入る、多数の紺の中で浮く色。ニールが振り返るとアルフォンスと目が合った。
「君、上の人間だね」
アルフォンスが踏み込むとニールは体を捻った。アルフォンスの刃がニールの頬の前を通り過ぎ、横を抜ける。すれ違いざま、ニールは口元だけで笑った。
「動きがトロいね。捕まえられるもんならこっちに来な」
ニールが踵を返して駆けるアルフォンスも後を追った。中庭の端、崩れた石の陰でニールが足を止めて振り返ると、間合いが詰まって金属音が弾け、二人の距離が一瞬で潰れて刃が噛み合う。アルフォンスは鋭い目つきで剣越しに訊ねる。
「君たちの目的はなんだ」
ニールは荒い息をつきながら苦く笑った。
「……何度も言ってるでしょ。終わらせに来ただけだよ。それだけなのに……誰も、聞かない」
その頃、中央では鎖がまだ唸っている。マテオがわざと間合いの外縁を駆け、ルソーが連結剣を振った隙にコリンが逆側から滑り込むが、連結剣の戻りが速く鎖が反転する。
「っ……! 来る!!」
コリンが叫ぶ。軌道が読めたと思った瞬間、鎖がしなって外へ逃げたはずの切先が弧を描いてマテオに戻ってくる。
「——っ!」
マテオは目を見開いて思わず足を止めた瞬間、義手の左腕を掲げた。木製の軸に打ち付けられた金属のガードが火花を散らし、衝撃が重く鈍い音が腕の奥まで響く。切先が滑り込んで金属の継ぎ目に食い込んだ。
「っ、クソ……!」
抜けない、鎖が張る、引かれる。マテオの体勢が崩れるとルソーの口元が歪んだ。マテオの背筋に冷たいものが走る。
——やべえ。
その刹那、コリンが動いて横から滑り込み、鎖を両手で掴むと躊躇なく全力で引く。
「マテオ! 今だ、離して!」
金属がきしみ、刺さった刃が軋みながら引き抜かれる。抜けた反動で鎖が跳ねた。マテオはすぐさま左腕を引いて間合いを取り直す。息が荒い、左腕の感覚が鈍い。ルソーはまだ笑っていや。余裕が崩れていないどころか楽しんでいる。マテオは思わず舌打ちした。
「……こいつ、バカみたいに強えな」
今の一撃で理解した。まともに受けたら持っていかれる。それでも退けない。コリンがマテオの隣で息を整える。指先がまだ震えている。それでも、鎖を掴んだ手は離していない。マテオとコリンは目を合わせた。
次、どうする。——そんなの、決まっている。まだ終わらせない。




