第九章② ブレストへ向けて
翌朝、まだ空気が冷たい時間帯にルキフェルは起きていた。外は淡い光に満ち始めている。彼はニールと並んで簡単な図を地面に描き、航路と日数、補給地点を指でなぞって言葉を重ねる。
「ここは風を読む必要がある」
「この距離なら二十五日前後だね」
無理はないか、見落としはないか。互いに確認し合って修正を加え、やがてニールが頷いた。
「……いける」
ルキフェルは即座にテントを飛び出し、アーシャとフェリスのもとへ向かう。二人はすでに起きていて、桟橋でのんびりしているところをルキフェルが切り出す。
「頼みがある。物資の分配とトルチュ島への渡航だ」
ルキフェルが要点だけを告げると、アーシャは一瞬目を見開いたが快活に笑った。
「トルチュ島? いいよ。物資も持ってきな」
ルキフェルは礼を言い、その場を離れる。ニールは彼らのやり取りを見守っていたが、ルキフェルが去るとアーシャとフェリスに歩み寄った。
「大丈夫? 無理はしていない?」
「任せて、兄さん! 私たち、そんな簡単に死なないって」
アーシャはぱっと顔を上げて笑い、フェリスもこくりと頷く。ニールは一瞬だけ言葉を失うも、手を伸ばして二人を抱き寄せた。アーシャが「えっ」と小さく声を上げ、フェリスも少し驚いたように目を瞬かせるが、すぐにニールの腕の中で力を抜いた。ニールの手がわずかに震えている。
「……必ず生きて、また会おう」
ニールが声を落として呟くと、アーシャは一瞬黙り込んで微笑む。
「うん、約束」
ルキフェルは三人の抱き合う様子を眺めた後、急ぎ小船を出して海上を進んで行った。やがて、東洋組の船に着くなりディッキーとカルロータのところへ向かった。ルキフェルは自分の出自を明かし、トルチュ島の長老への報告の旨を伝えると、二人は話を聞いた瞬間に固まった。
「……え? いや、ちょっと待って……あなたが、あの——」
ディッキーが口をパクパクさせ、カルロータが大きく息を吐いた。
「はあ、昔から借りは返す主義なんで。今回もそれでいっか」
その後、海上が一気に動き出して海賊船の甲板でアーシャが声を張る。
「物資の三分の一、東洋の船に回す!」
「はあ!? 三分の一!?」
「減らしすぎだろ!」
船員達は当然の反発だったが、フェリスが「アゾレスで補給しよう」と告げると彼らは顔を見合わせた。
「……まあ、あそこなら何とかなるか」
「補給ポイントとしては悪くねえしな」
アーシャ海賊団特有の緩さ、深刻になりきらない空気の中でアーシャが檄を飛ばす。
「よし、動け動け!」
誰かが箱を持ち上げ、樽を転がし、縄が軋む。次々と物資が木板を渡って、東洋組の帆船に運び出されていく。東洋組の甲板の上ではルキフェルが指示を飛ばしていた。
「その樽は後ろだ、重心が偏る。布は濡らすな、上に積め。ロープ締め直せ、航海中に崩れる」
一方、レオンのテント。外の喧騒とは切り離されたように静かだった。コリンは寝台の傍に座り、まだ目を覚まさないダミアンの側で布越しに呼吸を確かめている。浅くはない、安定している。顔色も昨日よりは明らかに戻っていた。そこへ、テントの外からジャスパーが顔を出し、肩に荷を担ぎながら息を吐く。
「ちゃんと生きてんの」
「うん。だいぶ、顔色も戻ってきた。……連れてっていいかな、ダミアン」
「まあ、この島に残す理由もねえし。てか、よく分かるな。ダミアンって」
コリンは肩をすくめた。
「まあ……見分け方があったんだよ。それに、顔が同じなだけで中身はまるきり違うしね」
「なるほどな」
ジャスパーはいまだ眠るダミアンの顔を眺めながら頷く。コリンは立ち上がると、ダミアンの鞄を掴んでジャスパーへ押しつけた。
「これも積んどいて」
「はいはい」
ジャスパーは鞄を受け取ると踵を返して外へ出た。コリンはもう一度ダミアンの呼吸と体温、反応を確かめて息を吐いた。
出航準備は驚くほど早く整った。前日の喧騒が嘘のように、翌朝にはすべてが所定の位置に収まっている。樽は縛られ、帆は点検され、航路も固まった。
——いよいよ、出発だ。
先にアーシャ海賊団が動き、帆が風を孕んで船体が軋む。出発の直前、ルキフェルは東洋組の船、その甲板上からアーシャとフェリスが立つ船に向かって声を飛ばす。
「ひとつ、頼みがある。トルチュ島から帰還するときは、マルセイユへ向かえ。モンレザール家を訪れるといい」
また会おうという約束を、言葉にしない形で置かれた。アーシャは親指を立ててニカっと笑う。
「了解」
フェリスも頷くと甲板全体を見渡しながら号令が飛ばした。
「帆、上げろ!」
アーシャ海賊団の船が水面を裂いて離れていく。甲板ではアーシャとフェリス、カルロータとディッキーが島に手を振っていた。集落の者たちは黙って見送り、ルキフェルたちも遠ざかる船影が小さくなって海の向こうへ溶けていくのを祈るように見つめていた。
次は自分たちの番だ。
東洋組の船で荷が再び動き、残された物資を確認して配置を見直す。ダミアンの身体が小船によって運ばれ、慎重に船内へと移されていく。最終調整の合間に、五人は集落を回った。世話になった者たちへ一人ずつ言葉を交わす途中、一人の少女がニールの前に立ち止まると、耳を真っ赤にして小さな手を差し出す。彼女の掌に乗っていたのは青く編まれた髪紐だった。拙い編み目だが、丁寧に結ばれている。ニールは膝をついて少女と同じ高さに目線を合わせる。
「貰っていいの?」
少女がこくりと頷くと、ニールは柔らかな笑顔でそっと受け取る。
「ありがとう」
少し離れたところでマテオとジャスパーとコリンが見ていた。
「……兄ちゃんやってんな」
マテオが呟くとジャスパーが肩を揺らして笑う。
「板についてきた」
コリンが鼻を鳴らして目を細める一方、ルキフェルは別の光景を見ていた。レオンの背中、彼が連れ合いと抱き合っている。
——この道を決めたのは自分だ。巻き込んだのも自分だ。だから、全員を帰す。必ず、それぞれが帰るべき場所へ。
ルキフェルは残していく者たちへ、最後の手当てとして物資の一部を多民族の集団へ分け与えた。食料、布、必要なもの。受け取る側は深く頭を下げる。
「乗り込め!」
ルキフェルの号令が響くと、ひとりまたひとりと仲間たちが小船へと乗り込んでいく。縄が解かれ、ジャスパーが櫂を漕ぐと桟橋から離れ、距離が生まれる。残された者たちが手を振り、ルキフェルたちも応えた。エル・イエロ島が次第に遠ざかる。木々の緑が一つの塊になり、海の青に溶けていく。帆船は彼らと、それぞれの覚悟を乗せて進む。
——いざ、フランスへ。
出航から幾つも日が過ぎた。帆船は北を目指して進み、海流を避け、風を拾い、緩やかな弧を描くように航路を取る。見慣れない海の色が続き、同じようで違う波が昼も夜も船体を揺らした。甲板には塩の匂いが染みついている。
ある日、操舵輪の前でジャスパーが大きく息を吐いた。
「……疲れた」
彼が舵輪に体重を預けて背中を丸くすると、彼の背後からサミュエルが足音が近づいてきた。
「代わろうか」
「マジ? ……じゃあ、頼むわ」
ジャスパーがあっさりと手を離して場所を空け、サミュエルが操舵輪に手をかけると緩やかに回した。船の向きがわずかに変わり、波の受け方が変わる。ジャスパーは舵輪の横で腕を組んでサミュエルの横顔を眺めた。
「へえ、悪くないじゃん」
「マクシミリアン隊では操舵もやる」
サミュエルは肩で息を整えながら軽く笑う。言い方は簡素だったが、手元は安定してた。風を読む間も波に合わせる感覚も、体に入っている。ジャスパーはしばらく黙っていたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「自分とこの隊長、裏切ってるわけだろ。平気なのかよ」
サミュエルは視線を前に置いたまま舵をわずかに切る。帆が鳴る。それから口を開く。
「僕は美しいものに惹かれる。ルキフェルのやり方が、隊長の復讐よりも整って見えた。ロザリーとペネロペも似たようなものだろう。立場で選ぶ連中じゃない」
「……大人だね」
「年だけは重ねている」
舵が一定のリズムで回り、船は同じ方向へ進み続ける。船内の一角、低い天井に揺れる灯り木の卓を囲んで、四人が向かい合っていた。ニコラ、ティエン、ロザリー、ペネロペ。彼らの手元にはトランプが配られている。
「はいはい、そこ引いたら負けるやつ」
「分かってるって」
ニコラが笑いながら言い、ティエンがカードを指で弾いて躊躇いなく一枚引き、ペネロペが肩をすくめる。
「顔に出てるのよ、ティエン」
「出してるつもりはないんだけどなあ」
甲板の軋みが遠くで鳴り、やがてティエンの手が止まって視線がカードから離れる。
「……アランさんのこと、まだ引きずってるんだよね」
ロザリーがカードを整えながら言う。
「慣れていくものよ、その人がいない世界に。乗り越える必要はない、抱えたまま生きればいい」
「……なるほどね」
ニコラが呟いた後、カードを切りながら言う。
「そういえば、ティエンの謎だけ残ってるよね」
ペネロペが顔を上げる。
「マルクから聞いた。アランのとこにいた人たち、それぞれ目的があったって」
「そうそう。その中でもティエンのやつは、昔の事件の真相を知るってやつ。スケールが国家レベルなんだよね」
ニコラがカードを配る手を止めずに言い、ティエンが肩をすくめる。
「いやまさか、フランス離れてあの島行くとは思わないじゃん。まあ、結局戻るんだけど」
「へえ、何の事件?」
ペネロペが身を乗り出すと、ティエンは少しだけ視線を泳がせてから言う。
「リュミエール家謀反事件」
ロザリーは持っていたカードを卓の上に伏せ、ティエンを見つめた。
「……それ。私、関係者」
「え」
ティエンが目を見開き、ペネロペとニコラも同時に動きを止める。ロザリーは少しだけ視線を落とす。
「リュミエール家の息子と婚約してたの。詳しい話は、あとで内密に教えてあげる」
ティエンは思わず背筋をシャキッと伸ばして声を一段高くした。
「はい、お願いします!」
その頃、船医室ではコリンとレオンが喋っていると、一つの寝台がモゾっと動いてダミアンが重い瞼を開けた。色素の薄い灰色の瞳が二人を捉えると、ダミアンの口から呻き声が漏れてレオンが真っ先に振り返る。
「目が覚めたか」
ダミアンが身を起こそうとするが、コリンが立ち上がって「まだ動いちゃダメ」と言いながら彼の顔面を布団で雑に覆った。
船長室。揺れる灯りの下、机に広げられた紙の上に簡素な線が引かれている。ブレスト周辺の海岸線、運河、城郭。ヤンの指先が地図の上を滑った。
「最後にブレストにいたときの話です。大元帥が倒れ、指揮はブレストに集約されたまま。体制は、あの戦の頃と大きく変わっていません」
「なら、まず城の様子を掴もう」
ルキフェルは地図から目を上げるとヤンが別の線をなぞる。
「城の近くに造船所があります。運河に面している。そこから街へ入るのが筋でしょう」
ニールがルキフェルの隣で口を挟む。
「風が続けば予定より前に着く、崩れれば当日だ」
「たとえ当日になろうが、やることは変わらん。まず間に合わせる。細かい手は近づいてからだ」
ルキフェルが顔を顰めて吐き捨てると、紙が畳まれて灯りが揺れた。
それからの航海は順調とは言えなかった。風が落ち、帆が弛むかと思えば横から叩くような突風に舵が重くなる。波頭が砕けて甲板に飛び、昼は距離が縮まらず、夜は針路が安定しない。時間だけが削れていく。
「……遅い」
帆を張り替え、角度を変え、重心を移すも地平に見えるはずの影が見えない。誰かしらの焦りが船内を巡り、動きが荒くなって指示が増え、呼吸が浅くなる。
——二月十八日、夜。
空は低く雲が走っていた。星が消えたり現れたりを繰り返す。前方に黒い帯が横たわって、ようやくブレスト海峡に辿り着いた。水の色が変わって流れがぶつかり、渦が生まれる。
「入るぞ」
ルキフェルの声と共にジャスパーが舵を切ると、皆の頭上で帆が鳴った。
「風、右から来る!」
ジャスパーが叫ぶと同時に舵が押し返され、腕に重さが乗る。
「ロープ締め直せ、前が持っていかれる!」
甲板で返事が飛び、足音が走り、縄が軋んで波が立つ。船首が持ち上がり、落ちると木が唸って水が叩きつけ、ただでさえ暗い視界の中で暗い木板が揺れ動く。
「角度、あと少し!」
ニールの声が遠くで飛び、ルキフェルはジャスパーの隣で舵輪に手を添えた。舵が動いて進路が紙一重で変わり、左手に岩礁の暗い輪郭との距離が近くなる。
「——そのまま」
風が抜けて帆が一度だらりと落ちる隙に、流れが船体を横へ押す。
「来るぞ!」
ジャスパーが叫んだ瞬間、横から風が叩いて帆が膨らみ、船が前へ跳ねる。舵が暴れ、二人の腕が軋む。ロープが鳴って甲板城で誰かが滑り、別の誰かが支える。波が割れ、水しぶきが顔を打つ。塩の味に目が細くなるも前を見る。黒い帯の中に細い抜け道が見えた。流れが緩む筋、そこへ合わせる。
「今だ」
ルキフェルの呟きと同時に、舵が入って帆が応える。船が渦の縁をなぞるように抜け、抵抗が急に軽くなる。波が整い、音が変わり、船の背後で海が唸る。ブレストの外海、遠くに灯が点る。街の灯りだ。皆の肩の力がようやく落ち、息を吐く音があちこちで重なる。船は進む。暗い海を割って、その先へ。




