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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第九章「お前は、命散らすために生まれてきたんじゃないッ!!」
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第九章① ルキフェルとマテオ

 脇道は思った以上に急だった。ルキフェルは足を滑らせるも踏みとどまって、もう一歩、さらに一歩と足裏が砂利を噛むたび心臓が跳ねた。転べば、そのまま転がり落ちるだろう。


 ——構わない。もっと速くいけるなら、そっちを選ぶ。


 やがて傾斜が途切れ、踏み出した足が平らな地面を捉えた瞬間、ルキフェルは我に返ったように見渡して思わず息を呑んだ。

 

 下った先に広がる光景は、火山岩で作られた洞窟の入江だ。波の音がすぐ近くで解け、押して返して、また寄せる。単調なはずの繰り返しが不思議と耳に心地よい。夜だというのに、浅瀬は淡く青緑色の光を抱いている。星を映しているのか、まず砂が白いのか、どちらにせよ神秘的だ。


 ルキフェルは歩きながら洞窟内を細かく視線を巡らせた。波打ち際、岩陰、伸びた影、どこにもいないと思いかけた時、マテオの姿を見つけた。彼は入江から突き出た岩場の先に、一人腰を下ろしている。片足を浅瀬の水面ぎりぎりまで投げ出し、もう片方は岩場に引っ掛けて、顎を膝の上に乗せている。水面の反射がゆらゆらと揺れ、マテオの横顔を淡く浮かび上がらせていた。


 ——綺麗だ。


 マテオの表情は憂いを帯びているようにも見えたが、何を考えているのかまでは読み取れない。どこか遠い、手を伸ばせば届きそうなのに距離がある。ルキフェルは意を決して一歩踏み出して岩場との距離を縮めて見上げた。すると、マテオが顎を上げてルキフェルを見下ろし、ルキフェルは彼の空色の瞳に捉われると思わず息を止めた。マテオが口元を緩めて片手で招く。


「とりあえず、こっち来い」


 ルキフェルは足元の岩を見下ろした。滑れば落ちる高さではないが、簡単に上がれるような足場でもない。ルキフェルは一瞬躊躇するも岩に足をかけ、指先に力を込め、靴底で岩の縁を探りながら少しずつ身体を引き上げていく。さっきまでの疾走の余熱が残っていて呼吸が荒い。心臓の音がやけに近い。ルキフェルが登る間、マテオは洞窟内の隙間から海を眺めていた。やがてルキフェルは岩場の上に辿り着くと、息が切れて整わないまま言葉を探し、マテオの横顔を見つめる。


「……すまなかった、何もかも。お前の言ってたことが全部だ。全部、俺のせいだ……お前がいないと、俺はいつも間違った方へ行く。どうか、戻ってきてくれないか」


 マテオの肩が震えると、ルキフェルを見上げて力の抜けた声で囁く。


「ばーか。……あの約束してから七年の付き合いだぞ、今更離れる奴がいるか。たった数刻前の出来事だけで、オレは居なくならねえよ。……オレの方こそ、悪かった」


 ルキフェルは息を呑むと、マテオは入江に目を向けた。


「お前もちゃんと謝った、これでおあいこな。……座れよ。ここ、綺麗だぜ」


 マテオが顎で隣を示し、ルキフェルは一瞬躊躇したが、何も言わずに隣へ腰を下ろした。岩は夜気を含んで冷んやりとしている。二人の間に触れそうで触れない距離が残り、しばらく入江の水面を堪能していた。浅瀬は揺れ、洞窟の向こうでは寄せては返す波が光を砕いてまた繋ぎ直す。マテオは海に目を向けたまま口を開く。


「……初めて会った時のこと、覚えてるか」


 ルキフェルは目を細めて隣を見た。マテオの左腕、義手に触れそうになって、触れないまま止まる。


「ああ……怪我してた。いつの間にか船に転がり込んで、何日も目が覚めなかった」


 あの時の血の匂い、呼吸の浅さ。生きているのかどうかも分からない、あの状態。マテオは顔を伏せ、すぐ立ち上がって背を向けた。ルキフェルは言葉を失い、夜風が二人のあいだを通り抜ける中でマテオが振り返らず問いかける。


「……なんで怪我してたか、知りたいか」


 ルキフェルは目を見開き、彼が答えを探すより先にマテオが呼吸を乱して続ける。


「オレ……暗殺者だったんだ。……黒辰封儀教団の」

「……なに、言って——」


 ルキフェルは否定しかけて口を噤んだ。マテオの横顔は浅瀬を見ているが、焦点はどこにも合っていない。


「オレにも刻印があったけど……組織に背いたら潰された。ナイフで……命からがら逃げて、追われて……気づいたら港だ。適当に目をつけた船に……夢中で転がり込んだ」


 マテオは左腕、それも二の腕を押さえて、息を荒くして肩を震わせた。ルキフェルは思わず腰を浮かして声をかける。


「マテオ、無理して言わなくても——」

「いい。お前にだけ話したい」


 マテオは呼吸を整えながら声を落とす。


「……頼む、聞いてほしい」


 マテオの願いが洞窟内に反響し、ルキフェルは立ち上がると足元の岩が軋んだ。座ったままでは受け取れない、同じ高さで、同じ重さで向き合いたかった。マテオは彼に背を向けたまま語り出す。


「オレ、孤児院にいたんだ。すぐ出てったけど。だから孤児も同然だ。字も読めねえし、この口の利き方だろ。けど……盗みゃ、生きていけた。そんな毎日の中で、財布すった相手に気に入られた。裏の人間だった……教団のな。そんでオレは引き込まれた。アウレアってコードネームくれて、暗殺者の訓練を受けて……感情も削られて、影の中で生きるようになった」


 ルキフェルは目を伏せて唇を間でいると、マテオの声が低くなって冷たく言い放つ。


「何年かして単独任務が来た。別班がある家を襲って当主を始末したけど……もう一人逃したってさ。そいつを殺せ、忠誠の証にってオレが使いに出された。場所はスペインの辺境、フランスとの国境沿いにある屋敷だった。オレは字が読めねえ。……読めないままにされてた。潜り込むには都合がいいって理由でな」


 マテオは乾いた笑いを交えながら語る。


「だから、下働きで入った。料理人の雑用だ。ターゲットはお嬢さん。拍子抜けしたよ、わがままで自由で気分屋でな。料理人たちは毎日振り回されてた。妙に警戒心が強くて、近づける人間も限られてた。けど、オレを気に入った。それからは話し相手だの、専用の料理だの、面倒は増えたが任務としては都合が良かった。……マテオって呼ばれた。偶然だが、オレの昔の名前だ」


 ルキフェルの胸が締めつけられ、マテオは洞窟の天井を仰ぎながらを仰いだ。


「なんであいつが狙われてるのか、分からなかった。けど、考えてる暇もなくまた振り回されて、気づいたら情が湧いてた。いや、違うな。感情が戻ってきてた。一緒にいる時間が……楽しかった」


 マテオがルキフェルを振り返って、洞窟内の影が彼の顔半分に陰りを落とした。


「……けど、殺された。料理を持って部屋に行ったら、血だらけで倒れてた。教団の連中がいた。『遅えから、こっちでやった』って。意味が分からなかった。なんでって聞いたら……『気づかなかったのか』って言われた。『こいつは、お前の弟だ』って」


 ルキフェルが思わず喉を詰まらせると、マテオは左腕を押さえる手に筋が浮いた。


「スペイン王家の血が、オレとあいつに流れてるって……初めて聞いた。死んだあいつを見た瞬間、気づいたらナイフを向けてた。仲間に、教団の連中に暴れて捕まった。裏切り者だってな。封じてた感情が溢れたのも、全部理由にされて……刻印を潰された」


 二人の間に沈黙が落ち、波の音が彼らの眼下で繰り返される。やがて、マテオはルキフェルを血走った目で見据えた。


「……オレが裏切られて、人を信じられなくなった理由だ」


 マテオはルキフェルから洞窟の暗がりへ目を向け、声を震わせる。


「……教団のこと、ずっと言えなくて悪かった。けど……話すには、過去を明かさなきゃ」


 マテオの頬を塩が伝い、ひとつ、またひとつと溢れて喉が詰まる。


「オレは……昔のオレが憎い。気づけなかった、何一つ……気づいてやれなかった。守れなかった……あいつを、弟を……ずっと」


 マテオの声が堪えきれず崩れた。息が上手く吸えない、肩が震える。押し殺そうとしても、もう止まらない。マテオが咽び泣いていると、ルキフェルは手を伸ばしてマテオの肩をそっと抱いて引き寄せた。マテオの身体が揺れるも、ルキフェルに身を預けた。涙と一緒に言葉にならない音が夜に落ち、ルキフェルは唇を噛んだままマテオの震えを受け止める。やがて、マテオの嗚咽は細くなって呼吸が整い、肩の震えも少しずつ収まる。ルキフェルは腕を離さず力を緩めた。


「話してくれて、ありがとう」


 マテオは充血した目を伏せて息を吐き、ルキフェルは穏やかな声音で続ける。


「欠損を抱えた船乗りは船を降りる。けど、お前は降りなかった。ずっと隣にいた理由も……今なら分かる」


 マテオは重々しく頷き、ルキフェルは声を柔らげて言う。


「時々考えていたんだ。お前が……ちゃんと自分の人生を歩けてるのか、隣にいることが義務になっていないか、と。でも、違った。お前はいつだって本気で、隣にいるのが本音だった」


 ルキフェルはマテオの顔を覗き込みながら微笑んだ。


「また海に出ないか。——今度こそ、友だちとして側にいてほしい」


 マテオは目を細め、涙の名残を残したまま笑う。


「……言われなくても。オレいないと、お前ほんとダメだから」


 ルキフェルが渋い顔をするとマテオは海に目を向けた。


「でも、勘違いすんな。オレが側にいるのは、ただ一つ。間違った方に行かせないためだ。……これがオレの生き方、これから先も簡単には曲げねえ」


 ルキフェルはマテオの胸に拳を押し付け、二人で岩場を飛び降りる。二人は振り返って洞窟の入江を見つめてから肩を並べて歩き出した。波の鼓が遠く奏で、潮風が水面を揺らして青緑の光を瞬かせている。



 ルキフェルとマテオが入江を離れると、潮の匂いが少しずつ遠のいていった。湿った空気が抜けて夜の冷えが肌にまとわりつく。やがて坂を上り切って岬に出ると、風が強く吹き、ジャスパーが首を傾げてワインレッドに見える髪を揺らした。


「仲直りできた?」


 ルキフェルとマテオは一瞬だけ顔を見合わせて、ほぼ同時に「まあな」と言い、ジャスパーはそれが妙におかしくて目を細め、次にルキフェルに目を移した。


「で、これからフランスに戻るんだよな」

「ああ。マクシミリアンを止めなければ。ここから先は厳しい戦いになる。海軍の根城に飛び込むんだ。……俺も無事じゃ済まないだろう」


 ジャスパーとマテオも、ルキフェルの言葉を受け止めたように重々しく頷いた。ルキフェルは髪を耳にかけながら溜め息交じりに言う。


「帰ろうか。このままじゃ冷えまくって凍える」

「それな。風、強すぎ」


 ジャスパーがへラリと笑うと、マテオも鼻で笑う。三人は松明の灯りが揺れる方へ歩き出した。岬で風が吹く上空、夜は深く澄んでいた。高く遠く、紅い星と二つの蒼い星が三人を囲むように瞬いている。


 彼らが集落へ戻る頃、海上が何やら騒がしかった。夜だというのに甲板では灯りも最低限に東洋人たちが空を仰いでいるらしい。あちこちで声が上がり、指を差しては何かを言い交わしている。普段の静けさとは違う、どこか浮き立つような気配だった。ルキフェルは一瞬だけ海に目を向けるが、すぐに視線を外してサミュエルに言う。


「助かった、おやすみ」


 サミュエルは軽く片手を上げ、ロザリーは柔らかく微笑み、ペネロペは肩をすくめて見送る。三人と別れ、ルキフェルたちはレオンのテントへ向かう。中ではニールとコリンが待っていた。五人は円を作るように腰を下ろすと、明日の動きと役割の確認をさっさと済まして黙って横になる。彼らの身体に疲労が重くのしかかって、すぐに眠りが訪れた。

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