第八章③ ルキフェル
集落に戻った三人はレオンのもとへ向かった。テントの修繕作業の手を止めたレオンが顔を上げると、ルキフェルは背筋を伸ばして言う。
「レオン……俺、アントワーヌを止めてくる。必ずあいつを引き戻す」
レオンはしばらくルキフェルを見つめた。
「……ルキフェル、あの子は頑固だ。君の言葉を素直に聞くとは思えないが、伝えてほしい。俺たちはフランス海軍を警戒はしているが……憎んではいない。もう俺たちのために戦わなくていい、と」
レオンは一度言葉を切って俯いた後、ルキフェルの肩を掴んで見据える。
「……俺も行くよ。あの子に会いたい」
ルキフェルは一瞬言葉を失うも肩に乗ったレオンの手を包ながら言う。
「レオン……彼女さんと島のみんなは?」
レオンが振り返ると、少し離れたところで見守っていた連れ合いと目が合う。彼女はこくりと頷くと、レオンも頷き返して再びルキフェルを見る。
「心配するな。みんな、君より島での暮らしは長い。寂しい思いをさせるのは申し訳ないが……今のあの子を自分の目で見たい」
ルキフェルは目を潤わせて包んでいた手を強く握った。
「わかった、医者が一人でもいれば心強い。また船に乗ろう」
二人は引き寄せるように抱き合い、レオンの連れ合いが口元に柔らかな笑みを浮かべた。その時、桟橋の方からペネロペの甲高い声が飛んできた。
「接近する船影あり! 小型ガレオンがこっちに向かってるよぉ!」
ルキフェルがレオンから身を離して反射的に身構えるが、すぐそばでニールが声を弾ませながら桟橋へ駆け出した。
「あ、待って! それ、たぶん妹と弟!」
やがて、アーシャ海賊団の船がアランの帆船と並ぶように滑り込むと、一隻の小舟が集落の桟橋に接岸し、アーシャとフェリスが立ち上がって大きく手を振る。
「おーい!」
ルキフェルとコリンが遠めから手を振り返し、ニールが桟橋に着くなり二人に笑いかける。
「ゆっくり過ごせたー?」
「今それどころじゃない! 人が……漂流した人がいるの!」
アーシャの声が甲高く割り込み、フェリスと水夫がそれぞれ漂流者を肩に担いで桟橋に足を踏み入れた瞬間、ニールが息を呑んだ。
「あ……あの双子だ! ダラス家の!!」
ルキフェルが目を見開いた途端、レオンが即座に叫ぶ。
「火を用意してくれ!」
周囲が一斉に動き、レオンが地面に敷物を引くと、フェリスと水夫が双子を敷物の上に横たわらせた。ルキフェルとコリンとニールが双子の顔を交互に覗き込んでいるとアーシャが早口に言う。
「今朝、うちの船に流れ着いてきたの」
「残念ながら、一人は来る途中で亡くなった。すごく冷たくて……きっと、ものすごく寒かったと思う」
フェリスが額の汗を拭いながら言うと、次々と薪が運ばれてきた。コリンが指を鳴らして薪に近づけると、仄かな木の香りが生まれ、炎がすぐに広がる。ルキフェルが眉を顰めているとアーシャが手のひらを差し出した。
「これ……この人たちのどっちかが持ってた」
シトリンの腕輪が濡れて鈍く光り、ニールが受け取って見つめる。コリンは双子の片割れの側にしゃがみ込んだ。息のない方、衣服が捲れた腹には鱗の肌。
——こっち、ピエールか。
コリンの目が見開いてすぐにもう一方、ダミアンへ移る。ダミアンは青ざめているが、コリンが彼の口元に手を翳すと呼吸があった。コリンは彼の濡れたシャツの襟元を捲って目視したあと、ダミアンの両手を取って自分の手の温もりを分けた。
「あとはこの人次第」
ニールはレオンのテントへ入ると、隅に置かれたダミアンの肩掛け鞄を躊躇なく開け、シトリンの腕輪を鞄の奥へ滑り込ませて口を閉じるとテントを出た。外では火が上がり、人の声が交錯している。
「布を! 温めろ、急げ!」
レオンを中心に島の民は総出で救命に当たっていた渦の外で、ルキフェルはアーシャとフェリスの元へ向かった。
「事情は分かった。俺たち、フランスに戻る」
アーシャは頷き、フェリスは目を細める。
「なら、急いだ方がいいね」
次にルキフェルはヤンの元へ向かった。彼は帳面を閉じたルキフェルを一瞥する。
「航路を選びましたか」
「選んだ」
「記録に値しますね」
次に、ルキフェルは小舟を使ってマルクたち協力者のもとへ向かった。ルキフェルが甲板上で状況を簡潔に伝えると、マルクが代表して頷きながら応える。
「手は貸す。アランが必死に守ったものを、今度はオレたちが支える」
最後に、ルキフェルはサミュエルとロザリーとペネロペの元へ向かった。彼は小舟を桟橋に接岸させると、浜辺で屯ろしていた三人の前に息も碌に整えずに頭を下げる。
「頼む。お前たちのリーダーがこれ以上壊れないように引き止めたい。それには……お前たちの言葉も必要なんだ」
ルキフェルの切羽詰まった声を聴き、サミュエルは薄目で彼を眺めて微笑みを浮かべた。
「美とは壊すことではなく、留めることに宿る。……今回はそちらが美しい」
「……今度こそ、メリッサの願いが届くのかも」
ペネロペが視線を落とすとロザリーは一歩前に出てルキフェルに一声かけて顔を上げさせた。
「私、ダラス家には個人的な恨みもあるの。だからこそ、終わらせたい。そのために、フランスへ戻る」
ルキフェルは口元を緩ませて息を吐いた。前に進むための人が揃う、もう一人ではない。
日が落ちかけ、集落の騒めきも静まり始めている。アランの船改め東洋組織の帆船、薄暗い船長室でルキフェルは帳簿を捲っていた。紙の擦れる音が規則正しく続き、やがて指が止まって計算を終わらせた。
——フランスまで、およそ二十五日。この時期、この風向き。誤差はあっても大きくは外れない。二月十八日、間に合うかどうかの境目。今、出なければ無理だ。
ルキフェルは帳簿の数字をなぞった。食料、水、火薬、帆布、どれも足りない。このまま出れば途中で尽きる。復讐を止めるどころか、ただの遭難だ。ルキフェルは帳簿を閉じて次の冊子を開く。アーシャ海賊団のものだ。ページを繰る、確認は早い。
——十分。水も食料も余裕がある。ひと月は持つ。ひと月、トルチュ島までの航海日数とほぼ同じだ。
その瞬間、ルキフェルの脳裏にトルチュ島の長老が蘇る。
——自分の正体が分かった時は、必ず知らせる。
フランソワの海賊帽を託したあの日、自分で言った言葉だ。ならば、最後まで通す。ルキフェルは顔を上げて帳簿を閉じた。
「……決まりだ。アーシャ海賊団の物資の一部を、東洋組織の船へ分配する。向こうはアゾレス諸島で補給を入れたあとトルチュ島へ、長老に報告してもらう。カルロータとディッキーのも、あちらに乗せる。俺たちは東洋組織の船で、フランスへ向かう。……ブレストへ」
ルキフェルの視線が背後の窓に向く。外はすっかり夕闇だ。ルキフェルは急ぎ船長室を出て、甲板上でニコラに労いの声をかけてから小舟で陸地へ戻った。やがて、桟橋に着いたルキフェルはその足でニールとコリンのもとへ向かう。
「よし、近日中に島を出るぞ。時間がない」
「……ジャスパーとマテオは?」
コリンが少し困った顔で言い、ルキフェルは思わず肩を振るわせた。ニールが集落を見渡して小声で言う。
「まだ戻ってないみたい。日も落ちるのに」
ルキフェルはしばらく黙り込むと力強く頷いて唸る。
「俺が探してくる」
「え」
コリンが素っ頓狂な声を上げ、ニールが何か言いかけるもルキフェルは被せる。
「謝ってくる。それから、今後のこと、決めたことを全部俺の口から話す。……俺が連れ戻すんだ」
ルキフェルが踵を返した瞬間、ガシッと両足が止まって思わず「うおっ!?」と声をあげて見下ろすと、コリンとニールがそれぞれ絡みついていた。
「待って待って待って!! 暗いよ!? 正気!?」
「今行く必要ないよねぇ!?」
「今じゃないと間に合わないだろ!!」
引っ張る、踏ん張る、言い合う。妙に騒がしくて島の民達が冷ややかな目を向けてくる。ルキフェルは二人を無理やり引き剥がしていると、笑いを含ませた優雅な声が差し込んだ。
「おやおや、どうやら人手が必要らしいな」
三人が同時に振り返ると、サミュエルが涼しい顔で意味ありげに立っていた。彼の背後でペネロペとロザリーがひょいと顔を出している。ルキフェルはコリンとニールの頭を鷲掴みに腕に筋を立てながら、サミュエルに向かって顔を顰めた。
「いや、要らない。これは俺とあいつらの問題で、ここは俺一人で——」
「あれ? さっき頼むって頭下げてきたの誰だっけ?」
ペネロペがルキフェルに歩み寄って首を傾げ、ルキフェルは喉を詰まらせた。ロザリーが一歩前に出てルキフェルを見上げる。
「坊や、道を照らすのは私たちの役目よ。二人を見つけたら、そこから先は一人で行きなさい。私たちは見守るだけにする。それでいい?」
ロザリーがウィンクして微笑み、ルキフェルは眉間の皺を深くさせるも、胸の奥で何かが解けて掠れた声で告げる。
「……わかった。頼む」
その後、サミュエルたちが残された薪を手に戻ってくると、コリンが火を灯して三つの橙の光がゆらりと揺れた。ルキフェルは歩き出すと三人が彼を過去ってついてくる。海岸沿い、波の音が一定のリズムで打ち寄せる。空は暗いが、星はやけに多い。
「てかさー、今日めっちゃ星見える」
ペネロペが呑気に言うとロザリーが空を見上げる。
「……新月ね」
サミュエルは二人の言葉を受けて顎を上げると明瞭な声で語り出す。
「光なき夜にこそ、真の輝きは際立つ。影があるからこそ、輪郭は美しく——」
美学が延々と続くがルキフェルは聞こえないフリして前を見た。暗闇の奥、探すべき二人のことだけを考えて。松明の光が揺れるたび、四人の影が砂の上で伸び縮みしている。並んでいるのに少しだけ離れている、そんな距離のまま彼らは夜の海岸を進んでいった。ペネロペがルキフェルより二歩先を行くと、くるりと振り返った。
「そういえば、ジャスパーとマテオとなんかあったの? 喧嘩?」
——こいつ、グイグイくるな……。
ルキフェルは一瞬だけ眉を寄せるも淡々と返す。
「端的に言えば、喧嘩だな。……ぜんぶ、俺が悪い」
ロザリーが目を細めて口元を緩めると刺してくる。
「あら。指名手配書の絵より、しおらしいわね」
「……それ意味分かって使ってるか?」
ルキフェルが渋い顔をするとサミュエルが肩をすくめる。
「まあまあ、細かいことは気にするな。眉間の皺が深くなって、もっと老けるぞ」
「老けるって俺、二十六なんだが」
ルキフェルが即座に返すと三人の足がピタリと止まった。風の音が通り過ぎ、次の瞬間には三方向から同時に絶叫が飛ぶ。
「はああああああ!?」
「ちょっと待って!?」
「二十六だと!?」
ペネロペが目を見開き、ロザリーが額に手を当てる。
「うそでしょ!? 絶対もっと上だと思ってた!!」
「……落ち着きと雰囲気が三十代後半なのよ」
サミュエルは一歩引いて、まじまじとルキフェルの顔を眺めた。
「いや、待て……それはそれで美しいが、年齢との乖離が芸術的すぎるだろう」
「芸術にすんな。てか、お前らは?」
ルキフェルがぶっきらぼうに言うと、三人が一瞬顔を見合わせるて間髪入れずに返す。
「三十九だ」
「三十五よ」
「二十四!」
「……一番まともなのペネロペじゃねえか」
「誰がまともだって!?」
ペネロペがギャーギャーと騒ぎ、ルキフェルは片耳を押さえながら舌打ちした。
——マジでうるさっ。アントワーヌ、四六時中こいつらの面倒見てるのかよ。
最初のうち、三人の声は賑やかに続いていた。ペネロペが何かを見つけては指を差し、サミュエルが美の観点で語り、ロザリーが淡々と切り返すが、やがてその声も少しずつ減っていく。足音と波の音が残り、三人は自然と視線を散らしてジャスパーとマテオの影を夜の中に探していった。その中で、ルキフェルは別のものを探していた。——言葉だ。あの二人に会った時、最初に何を言うか頭の中でいくつか並べてみる。
——ごめんなさい。……いや、それで止まるか? そもそも聞く気があるかどうかも分からない。なら、「話がある」。……違う、それじゃ足りない。先に謝罪か。いや、順番じゃない。言い方だ。——言い方?
ルキフェルの思考が空回りし、眉間に力が入る。
……なんだこれ。人と話すの前より下手になってないか……。
ルキフェルは後ろ髪を引かれる思いで、靴底で線を描くように砂を引き摺った。遠くで波が砕け、ペネロペがふいに足を止めて声を漏らす。
「……お」
ペネロペは松明を掲げたまま小走りに前へ出て、砂の上にしゃがみ込んだ。サミュエルとロザリー、ルキフェルもすぐに追いつくと松明の光が足元を照らす。浮かび上がったのは靴跡だった。二つ分、それもくっきりと残っててまだ新しい。足跡は波打ち際から離れ、砂浜を横切り、密林へと続いていた。ペネロペが振り返るとルキフェルは一度だけ頷く。
「行こう」
四人は砂浜を離れ、靴跡の先を追って闇の濃い密林へと足を踏み入れる。松明の火が風に揺れ、密林の中は獣の声も虫の声も遠い。あるのは枝を踏む乾いた音、ぬかるみを踏む鈍い音、四人は松明を低く掲げて慎重に進む。光の外はすぐ闇だ。視界の端が揺れるたび、何かが潜んでいる気がした。
……このまま、戻れなくなったら。
ルキフェルの頭の中で不安がよぎった時、ロザリーが囁くと同時に指先で前方を示す。
「……見て」
闇の先で木々が途切れ、ぽっかりと開いた空間が広がっている。岬だ、その縁に一つの人影。四人は同時に散って、近くの木陰へ音を殺して滑り込む。ルキフェルは幹に背を預けて顔を出すと目を凝らした。風に揺れる輪郭の中に赤、——ジャスパーだ。ルキフェルは三人を振り返らず囁く。
「ここで待ってろ。松明が燃え尽きる前には戻る」
ルキフェルは胸に息を溜めて吐くと木陰から飛び出した。心臓がうるさい、鼓動が喉までせり上がって視界が狭まるが、それでも進む。木々が切れ、風が変わって岬に出ると空が開けた。岬の先でジャスパーの背中が聳え立っている。ジャスパーは空を見上げていたらしい。ルキフェルは一瞬足を止めるも、一歩ずつ距離を詰めていった。足が砂を踏む音で、ジャスパーの肩がピクリと動いて振り返るとルキフェルと視線が合った。風が二人の間を抜け、岬をなぞる。星々がやけに近い。ルキフェルはあの琥珀色の眼を見つめるとため息と共に内に湧いた言葉を溢す。
「……会いたかった」
ジャスパーは一瞬目を瞬かせるもすぐ空を仰いだ。
「今日は、星がよく見えるな。……どうした。こんな暗い中、一人で来たのか」
ジャスパーが独り言のように零すとルキフェルは言葉に詰まった。
「いや……頼れる人たちがいて」
喉が乾いてうまく繋がらず、言葉が形を持たない。ジャスパーはルキフェルの背後へ視線を滑らせると、木々の隙間から橙の灯りが目に入り、風に乗ってくる焦げた匂いに思わず鼻を啜った。
「……そうか。じゃあ、おれたちは用済みってわけね」
「っ、違う! 話が……したくて」
ルキフェルが間髪入れず声を張り上げると、ジャスパーは腕を組んで続きを待った。ルキフェルは一度目を閉じると喉が軋んだ。
「……ジャスパー。マクシミリアンは、俺の幼馴染だった」
風の音が一瞬遠のき、ジャスパーの目が見開く。ルキフェルは視線を逸らさない。逸らせば終わる気がした。
「そいつ、何年も……俺の父かもしれない男に復讐しようとしてたんだ。そ気づいたら……耐えられなくて。正直に言うと……死のうとした」
喉が乾く、言葉が重い。一歩、足がずれるが踏みとどまる。逃げない。——ここで逃げたら、もう二度と来れない。風が強く吹く音に紛れて、ルキフェルの呼吸が乱れる。
「でも、できなかった。みんなの顔が浮かんで……ニールとコリンがいたから、引き返せた。二人と話して……やっと自分の道を見つけられた。これ以上、誰かが悲しむのは嫌だ」
ルキフェルは一歩踏み出してジャスパーとの距離を詰めた。逃げないために。一瞬息が詰まる、頼ることを恐れる癖がまだ残っている。
「ジャスパー。……俺、マクシミリアンを止めたい。そのために、ジャスパーとマテオも……一緒に来てほしい。俺……お前たちがいないと、何もできない」
言い終えたあと、ルキフェルは掌がひどく汗ばんでいることに気づいた。心臓がまだうるさい。ジャスパーは顔を伏せて深呼吸すると、ふいに背を向けて天を仰いだ。星が視界いっぱいに広がっている。その下で、ジャスパーの声が低く落ちた。
「……お前とマテオが壊れるところ、見たくなかった。……全部、自分に向けた言葉だ。おれは、自分が大っ嫌いだ。過去にろくに向き合わない、だから忘れていく。感覚でしか生きられない。お前は中心で、マテオは理屈、コリンは技術、ニールは頭脳。……じゃあ、おれは? 大して何もできない、心底嫌いだ。今だって、何をしたいのか分からない」
夜の空気が少し冷え、ジャスパーは星空から目を背けると両の手を見つめた。
「でも……それより自分に流れてる血が嫌だ」
ルキフェルの肩が強張り、ジャスパーは苦渋の顔で続ける。
「ゼフィランサスの血。顔も見たことねえやつが父親。それも大海賊。……お前の人生、めちゃくちゃにしたやつだ」
ジャスパーがさらに顔を伏せると影が濃くなった。
「……ルキフェル。考えたことないか。ゼフィランサスが……お前の顔を斬って、母ちゃんを殺したんじゃないかって」
空気が凍り、ルキフェルの脳裏にあの夜が蘇る。暗い廊下、湿った匂い、闇に溶けた黒い影。輪郭だけの誰かに思わず喉が詰まる。
「っ、それは……暗くて、何も見えなかったから……分からない」
ジャスパーは少しだけ目を細めて歯を食いしばった。
「そっか、分かんないか。だとしても、おれはゼフィランサスを赦せねえ。お前、あいつに巻き込まれたようなもんだろ。だから……あいつの血を引いた自分が——大っ嫌いなんだ」
風がまた通り過ぎ、風がジャスパーの背中を撫でていく。ルキフェルは彼の背を見つめながら弱々しい声で言う。
「……ジャスパー。たぶんお前が本当に言いたいことって……自分の力が、親の血で片付けられるのが嫌なんじゃないのか」
風が止んでジャスパーが振り返るとルキフェルと視線がぶつかって苦笑する。
「……そう?」
ルキフェルはシャスパーの視線を受け止めたまま口元を緩ませる。
「お前、昔から言ってただろ。直感で生きるのが取り柄だって。外したこと、ほとんどなかった。お前の勘も操舵も、親の血で片付けるには勿体なさすぎる。お前が生きてきた中で磨いてきたものだ。これから先も、お前の力は頼りになる。だから、一緒に来てほしい。お前の力を信じてるんだ」
ジャスパーは顔を伏せると息を吐いて真っ直ぐにルキフェルを見据え、柔らかく笑う。
「……お前に頼られちゃ、断れねえよ」
ジャスパーはルキフェルに近寄ると笑いを交えながら言う。
「ちょっと考えたんだ。おれ、母ちゃんの顔も朧げでさ。父親なんて会ったこともねえ。てか、いまだにゼフィランサスが父親とか信じてねえし」
ルキフェルが思わず眉を顰めると、ジャスパーはあっけらかんと続ける。
「だって、おれを育ててくれたのは貴族だぞ。母ちゃんが死んだ後、おれの手を引いてくれた人たち」
「……貴族?」
ルキフェルが首を傾げるとジャスパーは腕を組んだ。
「そう。おれを使用人として雇ってくれたとこ。でも……おれが十四の時、突然追い出されちった。理由は知らん、聞いても『出ていけ、逃げろ』の一点張り。これまで親切だったのに、裏切られたと思って出てやった。それ以来、あんな家知らんって忘れようとしたけど……おれを守ってくれたのかも、逃げた先で聞いたんだ。——その家、滅んじゃった」
ジャスパーは左耳のイヤリングに触れた。トルコ石を指先でそっとなぞる仕草が少しだけ重い。
「マテオがお前に言った通りだ。誰かが、自分の命を投げ捨ててでも……おれのこと守ってくれた。無駄にはできねえ。母ちゃんも、あの家も」
ジャスパーは目頭を熱くさせてルキフェルを見下ろす。
「母ちゃん達のように、おれだって守りたい。守りたいけどさ、人数多すぎてうろちょろしちまう」
ルキフェルが思わず失笑するとジャスパーは口をへの字に曲げた。
「笑うなよ。おれ、本気だぞ? てか、お前らのこと目が離せねえんだよ。少しは、おれの気苦労を知れ」
ジャスパーは盛大なため息を吐くと、岬の向こうに広がる暗い海を振り返って見つめた。
「……一人一人の盾になってたら、誰かがまた別のところで傷つくよな」
星を映して揺れる黒い水面は何かを語りかけているようでいて、同時にすべてを飲み込んでしまうような沈黙を湛えている。その前に立つ彼の背中は、さっきまでの揺らぎをまだ残しながらも、どこか遠くへ意識を預けているようだった。やがて、ジャスパーの口から独り言のような声が落ちる。
「……見つけたかも」
ジャスパーは目を閉じて胸一杯に夜気を吸って吐いた。呼吸は次第に深く長くなり、風の流れと波の間隔、木々の騒めきといった周囲の気配と溶け合っていく。音を聞くというより、世界そのものを受け入れていくような感覚。
「……見つけた」
ジャスパーは不意に瞼を上げると、ルキフェルを振り返って自分の真横を指さす。
「ルキフェル。そこ、見てみろ」
ジャスパーに示された先をルキフェルは凝視した。闇に沈んでいた地形の輪郭が、松明の残光と星明かりの中で浮かび上がる。見逃していた隙間に細い下り坂が口を開けていた。
「そこを下れば入江に繋がる。……マテオがいるよ」
「マテオ……?」
ルキフェルが掠れた声を漏らすと、ジャスパーは肩をすくめる。
「あいつもさ、なんか抱えてる顔してた」
「でも、どうして——」
ルキフェルがジャスパーに向き直ると、思わず息を呑んだ。闇の中、ジャスパーの琥珀色の瞳が鋭く煌めいている。
「おれが守るのは繋がりだ。人と人を繋ぐもの。信頼とか絆って呼ばれるやつ。仲を繋いで、切れたら繋ぎ直す。おれが守るのは——そういうものだ」
その時、夜空の一角が突如として赤く煌めいた。裂けたわけではない、落ちたわけでもない。紅い光が一つ、最初から在ったかのように瞬いて、呼吸するように明滅している。ルキフェルが一瞬視線を上げるが、紅い光を追いきる前に意識は引き戻された。目の前にいるジャスパーから目を逸らすことができない。ジャスパーの赤い髪が風に靡いて夜空の紅と重り、ルキフェルは思わず身体が硬直させた。ジャスパーはそんな彼を見てため息を吐くと、眉間の皺を解いて柔らかい笑みを浮かべる。
「行けよ、ルキフェル。——マテオと仲直りしてこい」
ジャスパーのアンバーの瞳に見つめられた瞬間、ルキフェルの背筋に電流が走った。
「っ、ジャスパー……ありがとう!」
ルキフェルは脇道へと駆け出して闇に飛び込んだ。足音が遠ざかり、やがて消えていく。ジャスパーはルキフェルの背を見送るとゆっくりと息を吐いて天を仰いだ。
紅い星が、二つの蒼い星を繋ぐように瞬いている。




