第八章② ルキフェル
エル・イエロ島、集落から少し離れた海辺。白い砂浜は朝の光を受けて淡く輝いている。波は穏やかで規則的に寄せては返す。その先、少し張り出した岩場の上に五人は腰を下ろしていた。やがて、彼らの前に立つヤンが手帳を開いた。乾いた紙の音がやけに大きく響き、ヤンは数ページめくると目を落としたまま口を開く。
「……ラウル。あなたが倒れたあと、アランさんが一人で呆然としていたので声をかけたのですよ。そしたら……珍しく自分から語り始めましたね。——二十一年も前のことです。レオパード家を襲った事件、ノルマンディー地方の別荘地で……母子と屋敷の使用人たちが惨殺された。犯人は未だに不明、未解決のまま。なお、この事件は公には一切知らされていません。わたしも一部の関係者から漏れ出た情報を拾っただけで、詳細までは把握していません。ただ、凄惨な現場だったそうです。」
ヤンは一度目を閉じ、ルキフェルを見つめながら続ける。
「アランさんは人攫いの仕業だと推測していました。自身の記憶とも照合して間違いない、と。ただし、ゼフィランサスがなぜ動向を知っていたのか。なぜ、あの事件当日にあなたを連れ出したのか。その動機と経緯は分からない、と。そもそも、なぜゼフィランサスがダラス家を知っていたのかも闇のままです」
ルキフェルは俯いて自分の掌を見つめると指先で頬に触れ、硬く歪んだ傷跡をなぞった。ひとつ、またひとつと感触が記憶と繋がる。暗い部屋、血の匂い、倒れた人影、叫び。 そして女の声、断片だったものが重なる。
——ラウル! 逃げて!
ルキフェルは顔に触れたまま目を閉じた。
「……俺は、生き残ったのか」
ヤンはページをめくる指先を浮かせて口を噤んだ。ルキフェルは彼の様子が視界に入って思わず顔を上げる。
「……何かあるなら、ちゃんと言ってほしい」
ヤンの黒い目がルキフェルを捉えて揺れた。
「……どうしても? たとえ知りたくなかったとしても」
「いい。もう……後には引けない」
ルキフェルは目を伏せずに言い、ヤンは小さく息を吐いて手帳をパタンと閉じた。
「……わかりました。実は……あなたの正体を知っていたのは……アランさんだけではありません」
「……は?」
ルキフェルの口から声が漏れ、他の四人も肩を震わせるとヤンは続ける。
「フランソワも……あなたの剣の師も。この三人は……ある日、ゼフィランサスから告げられたそうです。『親友の息子だ』と、名前と共に」
風が吹き、ルキフェルの中でじわじわと胸の奥から熱が上がる。
「……なんだよ。最初から……ぜんぶ……知ってたのかよ」
ジャスパーがヤンを見ると微笑を浮かべた。
「……協力、ありがとう。おれたちのこと……今は、そっとしてほしい」
「……承知しました。失礼します」
ヤンは目を細めて一礼すると踵を返してその場を離れた。足音が遠ざかり、風と波の音が混ざる中でルキフェルが顔を上げる。
「……なんで、教えてくれなかったんだ……三人とも」
ジャスパーがルキフェルの横顔を流し目に見て俯く。
「お前を守るためだったんだろ。海賊にとって敵でしかない海軍、そのトップの息子だって知ったら……お前、耐えられないだろ」
ルキフェルの目が揺れてすぐに歪むと息が荒くなって言葉が跳ねる。
「守るため……? 俺はな……ぜんぶ知ったうえでずっと黙ってたことに耐えられないんだよ!」
ルキフェルは勢いよく立ち上がると砂が散り、仲間を振り返って目つきをギラつかせた。
「なんでだよ! なんでみんな、真実を話してくれなかったんだ! 俺なんかのために……ぜんぶ背負いやがって! 俺だけ生き残って……みんな俺を置いていくんだ!」
空気が凍った瞬間、マテオが距離を詰めてルキフェルの襟を掴むと、強く引き寄せて至近距離で怒鳴る。
「ふざけんな! お前のために命張った奴らに……そんな言葉を口にするな!」
ルキフェルの目が細くなって睨み返すと、襟を掴むマテオの手を捉えて冷めた声で告げる。
「……はあ? お前こそ、何言ってんだ。勝手に暴れて……全部めちゃくちゃにしやがって、お前のせいでアランが死んだ」
マテオの手に力が入って布が軋み、彼の口から震えた声が落ちる。
「……もう一回言ってみろ」
「何度でも言ってやる。お前のせいだって言ってんだよ」
風が二人の間を抜け、周囲の空気が張り詰める。睨み合いは途切れず、マテオが舌打ちすると掴んでいた襟から手を離す。
「……お互い、譲らねえみたいだな」
「ああ、そうらしい」
ルキフェルが顎を引くと、マテオが一歩距離を取る。
「……やんのか」
「ここで引くわけにいかない」
風が強く吹いて砂が舞う中で、マテオがコリンを見る。
「おい。銃を二挺持ってこい。弾も……何発か」
コリンの肩がびくりと跳ねるが、二人の視線が突き刺さって踵を返して砂を蹴っていった。ニールが肩に掛けていた毛布をかけ直して立ち上がる。
「ちょっと、考え直して——」
「無駄だ。あいつら、止まんねえ」
ジャスパーが押し殺した声で遮った。やがて、コリンが戻ってきた。彼は肩で息をし、腕の中には銃が二挺、革袋に詰められた弾丸が揺れていた。ジャスパーが受け取り、重さを確かめるように一度だけ持ち替えると銃身に視線を落とす。
——問題はない。
ジャスパーは二人の間に割った入り、まずルキフェルに銃を差し出し、次にマテオへ差し出す。二人とも無言で受け取り、革袋を渡されると中から弾薬を取り出し、手の中で転がす。金属の感触が冷たい。それぞれ装填を始め、銃口が一度空を向いてすぐに砂浜へ下げられる。ジャスパーが一歩、後ろへ下がると厳かに告げる。
「背を向けて、十歩歩け。おれの合図があるまで撃つな。合図が出たら……振り向きざまに撃て」
ルキフェルとマテオは同時に動いて背中合わせになった。互いの体温が伝わる距離が、すぐに離れる。一歩、砂を踏む音。二歩、風の音。三歩で波が砕け、四歩で呼吸が揃う。五、六、七、八、九、十で足を止める。波が岩場を叩き付ける音が鳴り、ジャスパーの叫びが空気を裂く。
「始め!」
二人の身体が反転して引き金が引かれる。——発砲、乾いた音が二つ同時に鳴り響いた。衝撃で近くの茂みから鳥が飛び立って羽音が散る。が、誰も倒れない。ルキフェルが銃を下ろしてマテオを冷たい目で見る。理解が追いつかない。自分が外すのはまだ分かるが、一度も外したことのない男が外した。マテオの銃を下ろす手が震え、ルキフェルを射抜いている。ジャスパーが一瞬黙るも決断を測るように口を開く。
「両者、こっちへ。弾を詰めろ。次は五歩だ、あとは同じ」
二人は苛立ちを隠さない足取りでジャスパーの前に戻ると再び装填に入る。今度は少しだけ荒い、指先に力が入りすぎている。弾が滑りかけ、押し込むと閉じる。再び背中合わせ、今度は一歩、二歩、三歩、四歩、五歩で止まって距離が詰まる。
「始め!」
ジャスパーが叫ぶと同時に振り向いて銃口が上がり、引き金が引かれる。——発砲。今度はルキフェルの足元で乾いた粒が舞い上がる。マテオの銃口がブレまくっている。ルキフェルは銃口を下ろした。息が荒い、胸の奥で渦巻いているものが行き場を失っている。理解してしまったからだ。
外したのではない。——当てなかった。
次の瞬間、ルキフェルは銃を振りかぶってマテオへ投げつけた。空気を裂いて銃が飛び、マテオは反射的に義手で顔を覆うと金属が鈍く鳴って銃が弾かれ、砂浜に転がった。
「何す——」
マテオが言いかけた瞬間、ルキフェルが一気に踏み込んで彼の襟を掴むと力任せに引き寄せる。
「お前……! なんでこういう時に外すんだよ! 殺す気ないなら……こんなことさせんな!!」
ルキフェルの拳が上がって振り抜くと、鈍い音と同時にマテオの顔が横に弾かれる。マテオが目を見開くもすぐ歯を食いしばって、拳を返してルキフェルの腹にめり込ませる。ルキフェルの身体が一瞬折れるも、ルキフェルはマテオを押し返した。二人の身体がもつれて倒れ込むと絡み合った。どちらが上かも分からない。拳が飛んで腕で受けて肘が入る。歯を食いしばって蹴りが入って砂が舞う。形も技もない、ただの殴り合い。ただの喧嘩だが止まらない。
「ふざけんなよ!」
「黙れ!!」
ルキフェルがマテオに跨ると息を荒く拳を振り上げる。
「お前……さっき、命張った奴らがどうとか言ったよな? 死んだら意味ないんだよ! 俺は……生きていてほしかっただけなのに……!」
ルキフェルの喉と拳が震え、振り抜く寸前で揺れると歯を食いしばった。
「隣に居てくれるだけでよかった……!」
ルキフェルが拳を振り下ろすもマテオの手が受け止めていた。
「オレがいるだろ!」
「お前は、ただ隣に立ってただけ!!」
マテオの腕に力が入って押し返すと体を起こした。
「オレだけじゃねえ。ここにいる奴ら、みんなだ! お前が……! 我慢して、ぜんぶ背負って、オレたちに頼らなかっただけだろ! トルチュ島での約束……忘れたのか!」
ルキフェルの目が一瞬逸れかけるもマテオを睨みつけて口元を歪ませた。
「……海軍の息子って知っても、お前は平然としてるのか。ほら、秩序側の人間に見下されて……今どんな気分だ?」
「……血筋とか、関係ねえ」
ルキフェルの目が見開かれるもすぐに拳が振り抜かれてマテオの頬に衝撃が入ったが、マテオはルキフェルの襟を掴んで砂に叩きつけて拳を落とした。
「——いい加減にしろ!」
ジャスパーが怒声と共に割って入り、絡み合っていた二人の身体を強引に引き剥がした。ルキフェルとマテオの身体が反対側へ弾かれ、ジャスパーは冷めた目つきで二人を見下ろす。
「しばらく顔合わせんな。お互いのためだ。こんなことしても意味ねえ。……おれも、暫く集落を離れる」
「……は? ジャスパー、待て——」
ルキフェルが言いかけた瞬間、ジャスパーのアンバーの瞳がルキフェルを射抜く。
「悪いけど。……今、一緒にいる理由が見つからねえんだ」
ジャスパーは踵を返して、集落とは反対方向へ砂浜を歩き出した。やがて、マテオがゆっくりと立ち上がる。体のあちこちが軋むが、顔には出さない。ルキフェルの方を一瞥もせずジャスパーと同じ方向へ去った。二人の背中が遠ざかり、ニールとコリンが顔を見合わせる。ルキフェルは砂の上に座り込んだまま拳を握り、視線を上げるとさっきまでいたはずのものが消えていた。ルキフェルは砂を払うこともせず立ち上がると集落の方へ歩き出す。彼の後ろをコリンとニールがついてくる。
ルキフェルが集落の端に差しかかったところで、三つの影が目に入る。サミュエルとロザリーとペネロペ。彼らがこちらに気づくと、ルキフェル、少しだけ足を緩める。
「……おう」
サミュエルが頷き、ロザリーは腕を組んだまま微笑む。ペネロペはいつも通りの軽い調子で手を振った。いくつか言葉を交わす。当たり障りのないやり取りのなかで、ルキフェルが思い出したように訊ねる。
「……そういえば。そもそも、お前らなんでこの島に来た」
サミュエルが落ち着いた声で答える。
「隊長からの任務があってね。計画がいよいよ動き出す。島の人たちに伝えてほしいと頼まれたんだ」
「でもさー、さっきレオンに聞いても『マクシミリアン・ブーケ』って男のこと知らないって言うんだよ。マジで。あんな有名そうな名前なのに」
サミュエルの横でペネロペが肩をすくめ、ロザリーがため息をつく。
「だから、今は休憩中ってとこ」
ルキフェルは頭の奥で別のものが動き出し、マクシムの声が蘇る。
——ゼフィランサスと島の民のために、エリオットに復讐する。
マクシムの言葉と同時に別の事実が重なる。エリオット、フランス海軍のトップ。そして、自分の父親。
「……ああ、そうか」
自分の父親は命を狙われている。しかも、その理由は自分が関わっている場所にある。目の前の景色が少しだけ遠くなって足元の感覚が曖昧になるが、それでも崩れない。崩れられない。ルキフェルはぼんやりと呟く。
「……俺、これから何したらいいんだろう」
集落を離れ、三人は海辺へ向かった。人の気配が薄れ、波の音が残る場所まで来てようやく足を止める。ニールがルキフェルの隣に立つと少し間を置いてから横目で見る。
「……真実を知って後悔してる?」
ルキフェルは海を見つめたまま、波が砕ける音に紛れるように囁く。
「後悔……してんのかな。ぜんぶ俺が選んだ道だから、知らなければよかったは……通用しない。けど、犠牲にしたものを思うと……どう受け止めればいいのか」
コリンがしゃがみ、枝で砂をなぞっている。線が引かれ、また消される。何かを描いているようで、すぐに崩してしまう。コリンの手が止まると遠慮がちにルキフェルを見上げた。
「ちょっと思ったんだけどさ。ルキフェルの父……かもしれない人って、息子はもう死んでると思ってるんだよね」
ルキフェルの瞳が揺れるも海から逸らさない。
「……二十一年も前のことだ。そう思ってる方が自然だろ。それに……その男も、もうすぐで死ぬ運命なんだ」
コリンの描いた線が風で崩れていく。砂を踏む音が後ろから近づいてきて、三人は同時に振り返るとレオンが立っていた。レオンはいつものように穏やかな表情を浮かべているが、目の下の影が隠しきれない疲労を物語っている。
「探していたよ。ご飯にしようかと思ってね。……他の二人は?」
「あー……二人とも、ちょっと一人でいたいらしくて」
ニールが努めて明るく言いながら視線を逸らし、レオンは頷くと踵を返して集落の方を歩き出した。
「そっか。……少しでも何か入れておかないとね。前に進めるように」
三人はレオンの背中を追って砂浜を離れた。波の音が少しずつ遠ざかる代わりに人の気配が近づいてくる。レオンのテントの中では火にかけられた鍋が音を立てている。三人は黙々と食事にありつけた。木の器に盛られた簡素な食事、味は分からない、ただ手は止まらず口に運んで噛んでは飲み込むを繰り返す。時折布の入口が揺れてレオンが顔を出してくる。
「ニール、具合はどうだい」
「あー……まあ、さっきよりは」
ニールが軽く笑うが、レオンは微笑みを崩さずに「無理はしないように」と言うとまた外へ出る。この繰り返しで時間がゆっくりと流れて、ルキフェルはレオンがちょうど戻ってきたところで器から顔を上げた。
「そういや、海軍の三人から聞いたけど。マクシミリアン・ブーケって男、本当に知らないのか?」
レオンは一瞬だけ考えてすぐに首を横に振る。
「さあな、聞いたことない。そんな小洒落た名前なら真っ先に記憶してるさ。これまでの仲間の名前は全部把握してる。島に残ったやつも、出ていったやつも」
レオンは言いながらテントの隅に目を向けた。薄暗い場所に一つだけ置かれているもの、古びて埃をかぶっている木剣。使われていない時間の長さがそのまま残っている。レオンの目が木剣に止まるとルキフェルを振り返って口を開く。
「そうだ、ルキフェル。出ていったやつといえば、彼のこと覚えてるか?」
ルキフェルが思わず顔を上げると、レオンは穏やかな声で続ける。
「ほら。君と同じ夜に、ゼフィランサスに連れられてきた子。君が船を降りるまでずっと一緒にいたろ」
レオンは小振りの木剣を手に取って埃を払い、ルキフェルに差し出すと微笑する。
「覚えてないか。二人でよく振ってたじゃないか」
ルキフェルは木目と擦り減った柄をじっと見つめた。
「……同じ夜、同じ船……」
その瞬間、ルキフェルの視界が揺れた。
——暗い、何も見えない。遠くで誰かの叫び声が聞こえる。
自分の呼吸だけがやけに大きい。身体が重い、痛みが遅れて全身に広がる。
「……目が覚めたか」
目を向けると船医室だった。そして別の寝台、自分より少し大きい影が横たわっている。
「ねえ、フランソワ。ルキフェルってどう書くの?」
自分の声、無邪気で軽い。机の向こうでフランソワが顔を顰めている。
「……もし、その名前が“あれ”由来なら……」
フランソワがぶつぶつと呟くも意味は分からない。ただ、気になる。彼の横でもう一人が動く。引き出しを開ける音、重い本が置かれる。聖書を開こうとして止まる。
「……今は知らない方がいい」
静かな声、落ち着いている。でも、どこか距離がある。自分は彼を見上げた。黒髪、整った横顔、感情が読みにくい目。それでも、自分の目をちゃんと見てくれた。それから港、潮の匂いと嘲る声、胸の奥がちくりと痛む。
「……そろそろ、頭きた」
自分の声が低くくぐもっている。自分の横、すぐ近くで囁く声。
「おれも加勢していい?」
視線を向けると同じ高さ、同じ目線で黒髪の少年がそこにいた。彼は口元を上げている。自分と同じように燃えている。
「もちろんさ」
言葉が重なって二人で踏み出す。動きは違う、でも噛み合う。相手の動きが分かって呼吸が合う。言葉はいらない。ただ、並んでいた。当たり前のように。
不意に音が消えて視界が戻る。テントの中、木剣がレオンの手の中にある。ルキフェルの手が思わず震え、喉が乾いてぽつりと言葉がこぼれる。
「……いた。……よく、一緒にいた」
記憶は断片的だ。顔もはっきりとは思い出せない。でも、隣にいた。並んで戦って、笑っていた。ルキフェルは顔を上げてレオンを見つめる。
「……アントワーヌ?」
ルキフェルが声を震わせて名を口にすると、レオンはこくりと頷いた。ルキフェルは顔を綻ばせて訊ねる。
「……アントワーヌ。今、どうしてる。この島にいるのか」
レオンは俯いて首を横に振る。
「残念だけど……十年くらい前に島を出ていった。今、どうしてるかは……まったく分からない」
レオンが手にしていた木剣を元の場所へ戻すと埃が舞った。
「……そうだ。ゼフィランサスの片割れのイヤリングの話、あっただろ。あれは、アントワーヌが持ち出していった」
しばしの沈黙、その直後にコリンとニールの声が重なる。
「……え」
「はい?」
ルキフェルは目を見開いて掠れた声で問う。
「……遺品だろ。どうして」
レオンは少しだけ目を伏せて言う。
「……復讐のためだって。海軍のトップを討つ、と」
——レオンの言葉が落ちた瞬間、ルキフェルの中で何かが繋がった。
あの夕映えに紡がれた真実を語る男、あの視線、あの時の真っ直ぐで迷いのない目。
「僕が海軍に来た理由。それは……迫害されている多民族集団の代わりに、ゼフィランサスを——彼を殺された恨みを晴らすためです」
マクシムの声が蘇る。あの場の空気、血と塩の匂い、夕焼けの色。全部、鮮明に。そして、あの嵐の日だ。雷鳴が二人の間に落ちて雨が強まり、視界が滲む。マクシムが一歩踏み出して問いかけてきた。
「あなたは……僕を知っているはず」
雨音の向こうで言われた瞬間、ルキフェルの胸の奥がざらりとする。理由の分からない不快感。苛立ちに近いものが喉元までせり上がってすぐさま思考は切り捨てられた。
「知らない」
「……本当に?」
マクシムの声がわずかに揺れた。
「本当に、僕が分からない? ……ラウル」
濡れた髪、剣を握る指の癖、呼吸の取り方。立ち方も視線も。
——全部、見ていた。なのに、自分は「知らない」と言って切り捨てた。
「……まさか」
ルキフェルの喉の奥から掠れた声が漏れた。レオンが何か言っているが聞こえない。音が遠い。
「……アントワーヌ……?」
否定するように呟くが、夕映えの記憶が止まらない。
「あなたと、こうして別れるとは思いませんでした」
あのときの微笑み、どこか幼い色を残した表情。
「また会うまでの、約束だな」
——約束。
思い出す、いや突きつけられる。ずっと前に、交わしていたものを。
「……マクシミリアン・ブーケ……あいつが……アントワーヌ……なのか」
ルキフェルは眩暈がして頭を抑えるも足元がふらついた。
「ルキフェル、どうした」
レオンが思わず手を伸ばした瞬間、ルキフェルはレオンとの距離を詰めて両肩を強く掴んだ。
「レオン——! あいつ、生きてるんだ! アントワーヌは……生きてる! フランス海軍にいる。マクシミリアンって偽名で……さっきの三人、あいつの部下だ。全部、繋がってる! あいつ、本気でやる気だ……! 海軍に復讐する計画が、もう動いてる——!」
ルキフェルが言い切った瞬間、テントの入口が揺れて布がめくれる。ヤンがちょうど入ってきたところで言葉を失い、コリンとニールが同時に振り返る。レオンはしばらくルキフェルを見つめると、やがて彼の手に自分の手を重ねてそっと剥がした。
「……ルキフェル。お父さんが殺されるんだよ。君は、それでいいの?」
ルキフェルの胸の奥で何かが軋んで呼吸が乱れる。何をどうすればいいのか、どこに立てばいいのか分からない。分からないまま揺れている。崩れそうで、崩れきらない場所で立たされていた。次の瞬間、ルキフェルは振り切るように踵を返し、テントの布を荒々しく押しのけて外へ飛び出した。
「……っ、ルキフェル!」
コリンは反射的に立ち上がるが、彼の腕をニールが掴んだ。
「待って。……そっとしとこう」
コリンは数秒入口を見つめ、唇を噛むとニールの手を振り解いてテントを飛び出した。
「ちょ、コリン——!」
ニールが思わず声を上げるが、すぐに舌打ちに変わる。
「……ったく」
彼は肩にかけていた毛布を乱雑に外し、近くに放ると外へ出ていった。二人分の足音が遠くへ消えていき、レオンが視線を上げてヤンを見る。
「君。たしか……十年くらい前に、この島に来たよね」
ヤンはわずかに目を伏せて頷く。
「……いかにも」
「東洋の集団がこの島に来たのは……あれが初めてだった。よく覚えてるよ」
レオンの言葉を受け、ヤンは深く頭を下げた。
「わたしは、この島でマクシムさん……いえ、アントワーヌさんと出会いました。彼はついて行きたいと言った。わたしは止めませんでした。……あの時は、申し訳ありません。ただの、冒険心のある少年だと思っていました。まさか復讐が目的だったとは」
ヤンの言葉はそこで途切れ、テントの中に再び沈黙が落ちた。レオンはテントの入り口に目を向けると深いため息をついた。
飛び出した勢いのまま、ルキフェルは集落を突っ切った。誰かの声がした気がする。サミュエルかロザリーかペネロペか視界に映るものはすべて輪郭の曖昧な影だった。色も音も遠い、足だけが動いている。どこへ向かうのかも分からない、気づけば目の前は白い砂浜だ。肺が焼けて喉が裂け、足がもつれるように止まって呼吸が乱れ、ルキフェルは近くの岩場に腰を落とすと荒い息のままブーツを脱いで砂に投げるように置き、立ち上がって海へ向かうと波打ち際に一歩踏み込んだ。冷たい水が足を包み、も膝下まで浸かると後ろ髪を引かれる思いで歩みを緩めてしまった。波が当たって引き、また当たる。ルキフェルが白い泡沫を見つめていると、背後から声がかかった。
「セイレーンにでも呼ばれた?」
ルキフェルが振り返ると、コリンが肩で息をして立っていた。少し遅れてニールも姿を見せ、荒い呼吸を繰り返して二人の間に立つ。ルキフェルは水平線を流し目に見ると踵を返して水を蹴って浜へ戻り、コリンの脇を通り過ぎる際に彼の肩に手を置いた。
「悪い、何もかも捨てる気でいた」
ルキフェルはコリンから手を離すと岩場に腰を下ろした。濡れた足に風が当たって冷える。ルキフェルは自嘲気味な微笑みを二人に向けた。
「俺、どうかしてるな。守ってくれた奴らに対して、無礼働くとこだった。今さら気づくなんて……そりゃ、マテオもジャスパーも……俺から離れるわけだ」
コリンがルキフェルの前まで歩み寄ると首を傾げた。
「でも、あれ以上進まなかった。……どうして?」
ルキフェルは海に目を向け、波が寄せては返す繰り返しを見つめた。
「——フランソワを思い出した。俺が海軍の息子と知った上で育てたと思うと……足が止まった」
ルキフェルは首を横に振ってコリンとニールを見据える。
「けど、それだけじゃない。海賊は海に生きて、海に死ぬ。フランソワはそれをやって……俺はまた置いていかれた。嫌でずっと引っかかってたのに……笑えるだろ。同じ過ちを繰り返すところだった」
海からの風が吹き、ルキフェルの濡れた足を撫でていく。ニールが髪をかき上げながら乾いた目で海を見る。
「繰り返し、か。復讐は繰り返されるけどね」
コリンが眉を顰めてニールを見上げる。
「……何それ」
「だって、事実じゃないか。ほんと鎖だよ、血の鎖」
ニールの言葉が波の音の中に落ち、ルキフェルはニールに問いかける。
「……なんで次から次へと復讐が続くんだろう」
ニールは視線を泳がせて顎に手を当てた。
「うーん……構造の問題、だと思う。復讐って、命を奪われた者の“代理人”が命を奪って返すことでしょ。それ自体が次の復讐の理由になる。この構造が止まらない限り、加害者本人か子供かって理由だけで殺され続ける。……古来からだよ」
ルキフェルは息を吐いて俯き、喉の奥で何かを噛み潰すように言う。
「……俺も、その中の一人か。ラウルはあの夜で終わったけど、俺はその先を生きた。血で傷で怒りで、それがルキフェルの生き方だ。ルキフェルは、海で生まれた」
ルキフェルは手を上げて自分の掌を太陽に翳した。傷跡、重なった線、消えない痕。そして、光に透けて見える青と紫の包囲網。
「けど……この身体にレオパードの血が流れてるなら、海の向こうに置いていくことも、流すこともできない」
ルキフェルは手を下ろして膝の上に置き、諦めに似た苦笑を浮かべる。
「血筋って呪いだ。ほんとに厄介」
ニールは波の先を追うように視線を遠くへ投げ、やがて息を吐いてルキフェルの隣に腰を下ろす。
「……少し昔話でもしようか」
コリンが小さく首を傾げ、ルキフェルはニールの横顔をチラリと見た。ニールはルキフェルに笑いかけながら語り出す。
「ニール・セイルハートって名前、薄々気づいてたと思うけど偽名なんだ。本当の名前は……エドモンド・グリフィス。上流の家の長男で……まあ、退屈だったよ。父は酒に溺れてたし、家の中は最悪だった。で、そんな時にメイドの子に惚れた」
コリンが少しだけ目を見開き、ニールは苦笑する。
「ミアって言うんだけど……馬鹿みたいに好きだった。一緒にいる時間だけがまともで、結婚しようって話もしてた。……で、壊れた。父に縁談を押し付けられて、ミアは病気で倒れて、暴言も暴力も増えて……耐えきれなくなってさ。弟と妹だけ逃がして、僕は残った。……結局、ミアは死んだよ。葬式のあと父に『修道士になる』って言ったら、案の定キレて襲ってきて……刺した」
浦風がニールの髪を靡かせ、髪一本一本が陽を受けて金糸のように煌めいた。ニールは風の心地よさに思わず目を瞑る。
「逃げ惑って、港に出たら徴募隊に捕まって……もう終わりだって思った時に君たちが来た。あの時、英雄にしてはずいぶん荒っぽいなあって思ったよ。……でも、助かった」
その時、白浜波が貝殻を運んできて返っていった。ニールが目を落とすと、ポツンと残された貝殻に手を伸ばして拾い、桃色がかった滑らかな表面を指の腹で撫でながら囁く。
「過去って一度海に流したつもりだったんだけど、結局また拾われるんだ。……昨日も、夢の中でミアの姿を見たし。人はどうしたって過去から逃げられないみたい。丸ごと抱えて生きるしかないのかな」
言葉を結び終えると、ニールは空と同じ色を宿した瞳をルキフェルに向けて、はにかんだような笑顔を浮かべた。ルキフェルはニールから顔を背けて呟く。
「……生きる意味、か。こうして生かされてる意味と、今生きてる意味。俺は……誰を生きればいい」
ニールは少しだけ考えて俯くと、コリンが声を上げた。
「見つけるしかない。今のルキフェルにできることを探そうよ」
「……今の俺に、できること」
ルキフェルが呟いた瞬間、ニールの言葉が脳裏で反響する。血の鎖、復讐の構造。ルキフェルは思わず目を細めて顔を上げた。
「なあ、二人とも。復讐して最後に残るものは何か、もう知ってるよな。……悲しみだ。俺は悲しみに向き合えないまま、怒りと憎悪に呑まれて堕ちた。……獣として、血を流したまま喰らい尽くしていく。けど、復讐の連鎖の先にあるのは血だけじゃない。……悲しみの連鎖だ」
コリンとニールが固唾を飲んで見守る中、ルキフェルは意を結したような声で言葉を紡いでいく。
「アントワーヌも心はズタズタなはずだ。俺のできること……ルキフェルとして、ラウルとして、アントワーヌに会う。あいつに復讐はさせない。俺は約束を破ってでも……あいつを止める」
ルキフェルは砂浜に放り出しっぱのブーツに目を留め、無造作に手を伸ばして引き寄せると砂を払い、片方ずつ足を入れた。彼の紐を締める手つきを見ながら、ニールが肩をすくめる。
「……やれやれ」
「やっとだね」
コリンが胸を撫で下ろすと、ルキフェルは砂を踏み締めて立ち上がった。
「あいつは俺を一度だけラウルと呼んだ。昔のことも聞きたい。一度、集落に戻ろう」
コリンとニールが頷き、ルキフェルは一瞬海を振り返るもすぐに視線を外した。砂浜に三人分の足跡が連続で残っていく。貝殻が岩場の上で陽光を受けてツルリと煌めき、白波が岩場にぶつかって濤声と共に舞い上がった。




