第七章② ニール
ダラス家の船。甲板の喧騒とは隔絶された奥まった廊下は、湿った木材の匂いと閉ざされた空気が淀んでいる。ニールは後ろ手に縛られたまま歩かされていた。縄が食い込む腕の感覚は、もう半分ほど鈍い。すぐ傍にピエールの気配がある。ニールが視線を動かすと、ピエールの首元、シトリンの指輪をチェーンでぶら下げている。簡素な造りだが、これが双子の識別方法らしい。ニールの思考が揺れる瞬間、ピエールが彼の肩を乱暴に押した。
「前見て歩け」
やがて廊下の奥にたどり着き、一枚の扉の前で二人の足が止まる。ピエールが扉を開けてニールを中へ押し込んだ。ニールがよろめき、足を踏ん張る間もなく背後で扉が閉まる音がする。静寂、音が消える。ニールが正面を向くとドミニクが机に腰掛け、足を組んで片肘を掛けてじっとりと絡みつくように見つめていた。ニールは反射的に顔を逸らす。見たくない、目を合わせたくない。だが、視線は背中にまとわりつくように感じる。沈黙が数秒続き、くすりと甘い笑い声が落ちる。
「あの戦争でのこと、ピエールとダミアンから聞いたよ。ずいぶんと滅茶苦茶にしてくれたね」
ドミニクが立ち上がると一歩、また一歩と距離を詰めてきて、ニールは思わず喉を鳴らした。ドミニクが手の届く距離で足を止め、ニールを見下ろす形で影が覆いかぶさる。
「ねえ、君はどこまで理解してるの?」
ニールは歯を食いしばり、喉の奥で言葉が渦巻くのを必死に押し込める。
——喋るな。
ドミニクはニールの様子をしばらく眺め、ゆっくりと手を伸ばしてニールの頬に触れた。
「……っ」
ニールの身体にゾワゾワと緊張が走り、ドミニクの指が滑って頬からフェイスラインへ、ニールの輪郭を優しくなぞるたび、ニールの背筋が冷たくなる。ドミニクは彼の反応を愉しむように口元を緩め、手を離すと腰からナイフを抜いてニールの背後へ回った。ナイフの金属音が微かに鳴り、ニールは思わず目をぎゅっと閉じる。来る、と思ったが痛みは来なかった。代わりに手首がふっと軽くなってニールが目を開けると、ドミニクはすでに数歩離れて切り落とされた縄を軽く振り回している。
「君を一目見た時、僕と同じなのかと思っていた」
ドミニクが縄を机の上に放り、ナイフも隣に置くとカランと軽い音が鳴った。ドミニクは机の縁に寄りかかる。
「アホの子じゃないとは思っていたけどね。……想像以上に賢い。余計、唆られる」
ニールは喉を鳴らして絞り出すように言う。
「……用は、なに」
ドミニクは口元を緩ませて机へと手を伸ばす。
「賭けをしようよ。僕と、君で」
ドミニクが指先で一つの小瓶を摘まみ上げ、光を受けて淡く揺れる青い液体をながめる。彼は立ち上がって歩むと躊躇なくニールの手に握らせた。冷たいガラスの感触に、ニールが顔を顰めて呟く。
「……何、これ」
「安心して、殺さないよ。ただ、少し遊ぶだけ」
ニールの指先に力が入り、小瓶の中の液体が揺れる。ドミニクはニールの顔を覗き込むながら続ける。
「飲めば君の仲間には手を出さない。飲まなければ、ここで終わりだ」
ニールの喉がひくりと動き、ドミニクがくすりと笑う。
「綺麗だろう? それは夢蛇。東洋の幻覚剤さ」
「……これが」
ニールの声が震え、頭の中に幾つもの断片が浮かんだ。リー・ウェンの言葉。——危険と言われたものが、今自分の手の中にある。ドミニクがニールの背後で肩に手を回し、彼の耳元に唇を近づけて息をかける。
「いいよ。嫌なら、やめても」
ニールの手が震えて呼吸が浅くなり、指が小瓶の蓋にかかった。冷たい指先が目に見えて震える。
——分かっている。こんなもの、信用できるはずがない。
頭では理解しているが、ルキフェルとマテオ、コリン、ジャスパーの顔が浮かんでくる。ここで止まったら、全部終わる。これまでの自分の行動。無茶も失敗も偶然も。それでも、ここまで繋がってきた。なら——。
「……それでも、可能性があるなら選ぶ」
ニールが指先に力を込めると、カチッと音がして蓋が開いた瞬間、視界が揺れて手の中から小瓶が消えた。ニールが反射的に顔を上げると、小瓶はドミニクの手の中にあった。ドミニクは小瓶の先を自分の口へと運んで含ませ、青い液体を口内に留めてじっとニールを見る。ニールの中で理解が最悪の形で遅れて追いつく。
——そういうことか。
ニールの喉の奥が引き攣って吐き気に似た嫌悪が込み上げるが、ドミニクは彼から離れると机の上に空の小瓶をコトンと置いた。数秒、あるいはもっと長い時間の沈黙が続く。ニールは目を逸らさず距離を詰め、ドミニクの胸ぐらを掴んで見上げた瞬間、ドミニクにガシッと顎を掴まれた。
「——っ」
ドミニクに無理やり上を向かされ、ニールの背中が壁にぶつかって互いの距離が潰れる。近い、息がかかる、拒絶したいが顎を固定されている。ドミニクの指がニールの頬に食い込み、口を開かせた瞬間に流し込んだ。液体が温度を持って異物としてニールの喉へ押し込まれ、生々しい感触にニールの身体が反射的に跳ねる。
「……っ!」
吐き出せると一瞬思った。喉が拒絶して押し返そうとするが、脳裏に仲間たちの顔が浮かぶ。ここで吐けば全部、無駄になる。ニールは歯を食いしばって喉を動かし、飲み込んだ。自分の意思で、押し込まれたものを選び直すように飲み下す。ドミニクの目が細くなる。
……やっぱり飲むんだ、いいね。
ドミニクはニールの腰に手が回して引き寄せ、もう片方の手でニールの首筋を撫でて、飲み込む動作を堪能した。彼の指の圧にニールの呼吸が乱れ、喉が焼けるように熱くなる。
「……っ、げほっ——!」
ニールが飲み切る前に咽せ、青い液体が唇から溢れ、顎を伝って首筋へと流れ落ち、布を濡らして青く染み込んでいく。ドミニクの手がニールの髪に触れ、指先を絡めた瞬間に髪紐をするりと外した。ニールのほどけた金髪が肩に落ち、髪紐がひらひらと舞って床に落ちていく。
「……っ」
ニールの視界が揺れて思わず息が詰まった。異物感、まだ喉の奥に残る感触が消えない、離れない。ドミニクは執拗に彼の口内に残るものを探った。摂取したものが残っているか、飲み込まれたかを確かめるための行為でしかない。ニールが無理やり顔を背けてドミニクの胸を押し返す。
「……そんなの、聞いてない——」
ニールは腕に力を込めるが、ドミニクはびくともせず再びニールの口内を堪能する。その間にもニールの身体の内側が熱を帯びていき、急激に血が上がってこめかみが脈打ち、ぞわっと背筋を冷たいものが走った瞬間、吐き気と共に視界がぐらりと揺れた。
「……っ、は……」
ニールの呼吸が浅くなって手が震え、押し返していたはずの腕に力が入らず指先から抜けていき、視界の端が歪んで色が滲む。ドミニクはニールの抵抗が弱まっていくと口元を歪ませた。
——来た。
ドミニクが名残をなぞるように唇を離し、ニールの首筋へと軽く印を付けるように落とす。ドミニクがようやく身を引いた途端、ニールの背が壁にぶつかって支えきれず、膝が崩れてズルズルと床へ落ちていく。ドミニクは舌で唇を湿らせて机の縁に腰を下ろし、脚を軽く組んで頬杖をつき、崩れていくニールに視線を注いだ。
「……っ、は……」
ニールの中で胃がひっくり返るような不快感と寒気がし、視界が揺れて輪郭が歪み、色がさらに滲んだ。呼吸が追いつかず胸が苦しいが、その苦しささえふっと遠のいて音が消え、光が満ちる。気づけば、別の場所に立っていた。辺りはあまりにも白い、光が満ちている。どこまでも続くような柔らかな輝き、重さも痛みも匂いもない。ただ穏やかで満たされている。
「……天国、みたい」
ニールの口から思わず囁きが零れた。光の奥で何かが揺れ、人影がこちらへ歩いてくる。輪郭がはっきりすると、ニールの呼吸が止まった。
——知っている、忘れるはずがない。
あの姿、あの歩き方、あの微笑み。メイド服の白と黒のコントラスト。そして変わらない、あの顔。時間に置き去りにされたように、何一つ変わらずそこに立っている。少女は無邪気に笑いかけた。それがあまりにもそのままで、ニールの中で何かが崩れて涙が溢れる。止まらない、ただ溢れて頬を伝う感覚すらどこか遠い。
「……ミア」
ニールの声が震え、泣きながら笑っていた。胸の奥が満たされる、痛みが消える。恐怖も消える。温かい、優しい。ここにいればいい。ここにいれば、何も失わない。——彼の表情をドミニクは瞬きもせずじっと観察して……表情が消えた。笑みも興味も色もすっと抜け落ち、空白だけになる。
「……なんだ、それは。違うだろ。もっと崩れるはずだった」
ドミニクの眉間に皺が寄る。苛立ちとも困惑ともつかない歪み。期待していた反応、壊れ方、露出するはずのものがない。代わりにあるのは安らぎ、充足、そして満たされている顔。
「……お前は、そんな人間じゃないはずだ。僕が見たかったのは、それじゃない」
言葉に温度が混じるが、怒りではない。違和、否定。そして拒絶に近いもの。ドミニクは机から降りて立ち上がり、ニールへ近づいて見下ろす。泣き笑いしている顔を、満たされている顔をじっと見つめて首を傾ける。
「……ああ、そうか。お前、壊れてないんじゃない。最初から空っぽでもない。 ——満たされてる側か」
試したくなる。確かめたくなる。壊れるのかどうか、外からならどうすれば崩れるのか。ドミニクの唇が冷たく歪む。
「……じゃあ、壊してみるか」
ドミニクの濁った青灰色の瞳が細くなった。ニールの視界で意識を引きずり出そうとするように光が剥がれていく。白が滲んで輪郭が崩れ、温もりが急速に遠のく。
「……っ、は……」
ニールが息を吸うも胸が軋む。床、壁、木の匂い。そして目の前に立つドミニク。焦点が合わずまだ揺れている中で、ニールはドミニクを見上げた。
「……これで、どう」
ニールの声は掠れて呼吸も整っていない、それでも言葉にする。選んだ結果を突きつけるように。ドミニクは更に目を細めて呟いた。
「……仲間には、手は出さない」
「……じゃあ——」
ニールが言いかけた瞬間、視界が反転して背中に衝撃が走った。
「——っ!」
ニールの息が詰まり、ドミニクが彼を上から押さえつけていた。手首を固定さてれて距離が潰れ、視線がぶつかる。
「君の仲間が来るまでの間、もう少し付き合ってくれる?」
ニールは息を荒くして身じろいだ拍子に、ドミニクの衣服が乱れて胸元が開いた。布の隙間から覗いた鱗の肌が鈍く反射して、ニールの目が見開かれる。
「……っ」
ニールの中で声にならない音が喉で詰まる。ドミニクは自分の胸元に目をやり、再びニールに向けると冷ややかに笑った。
——数刻後、ピエールが扉をノックするとドミニクの呑気な声が扉越しに聞こえて即座に開けた。室内ではドミニクが衣服を整えて突っ立っている。ドミニクはシャツの襟元を正しながら振り返った。
「何かあったの?」
「部下から報告です。陸地に異変あり、あの浜で海賊たちが積荷を運んで待機しているとのことです」
ピエールが淡々と報告する背後で、ダミアンは彼の背から恐る恐る顔を覗かせると、室内の熱気に違和感を覚えた。ドミニクは机の上から上着を引ったくって袖を通す。
「交渉のつもりかな」
「恐らく。東洋人も見受けられるそうです」
「ふーん、なるほど」
ドミニクが上着の袖を整えると手の甲で額を拭って歩き出す。
「わかった、今そっちに向かうよ。——あ、水やっといて」
ピエールが即座に道を開け、ダミアンも慌てて脇へ退いた。ドミニクが足を引き摺るように部屋から出ていき、廊下の向こうへ消えていく。ピエールは室内を一瞥すると彼の後を追って廊下の影に紛れた。
ダミアンは一歩踏み出しかけ、室内から微かに漏れる呼吸音が耳に届いた。彼が思わず振り返ると目を見開いて思わず息を止めた。室内で、ニールが床に蹲って喋るのが苦しいほど息を弾ませている。ダミアンは急ぎ振り返って廊下の先を見つめ、歯を食いしばると肩にかけた外套を外して腕で包み、そっと室内へと踏み入れた。ニールの断続的な呼吸音だけが響く中、ダミアンはニールの側に跪いて手を伸ばすと、ニールの肩がビクリと震えて思わず手を引っ込めた。ダミアンは彼の乱れた衣服に視線を泳がせると、五寸釘を打たれたように胸が痛くなって、外套を広げてニールの身体をそっと覆った。




