第七章① ???
気づいたとき、そこに地面はなかった。
足を置いているはずなのに、踏みしめている感触がない。それでも落ちない。視界の果てまで、白とも黄金ともつかない雲が広がっていた。光を孕んだ雲はただの雲ではなく、どこか形を持っている。遠くには、空から零れ落ちるような滝。さらにその先、青々とした芝生が広がる丘のようなもの。空と地面の境界が曖昧で上下の感覚が曇る。
——ここは、どこだ。
そう思った瞬間に景色が揺らいで、気づけば霧の中にいた。白い、濃い。視界を奪うほどの霧が森を覆っている。木々の輪郭はぼやけ、音は吸い込まれる。自分の足音すらどこか遠い。一歩踏み出す。足が地面に触れた……はずなのに違和感。次の一歩、重心が妙に低い。
——歩いているのは、本当に足か?
視界がぶれる。自分が二足で立っているのか、四つで這っているのか分からない。骨の位置がずれ、背骨の感覚が変わる。歩幅が一定じゃない。進んでいるのに、どこへ向かっているのか分からない。霧はずっと続く、時間の感覚も薄れていく。
——そして、ふいに抜けるとそこは水だった。
一面の水面、空をそのまま映したような青。でも、沈まない。足は水の上に立って、ピチャリと鳴る音と共に波紋がゆっくりと広がっていく。歩けば足跡が水に溶ける。気づけば、隣に誰かがいた。いつからそこにいたのか分からない。顔もはっきりしない、柔らかな気配だけがある。
女性——たぶん、そうだ。二人で並んで歩くも言葉はない。それでも、不思議と満たされていた。胸の奥が静かで温かい。何も知らなくていい。何も思い出さなくていい。ここにいるだけでいい。そんな錯覚。隣の人がふと口を開いた。声は遠く、どこか懐かしい。
「ここでのことも忘れちゃうんだよね。……残念だな」
その人は静かに泣いていた。涙だけを落として。
——なぜ。
そう思う前に、自分の頬を何かが伝った。触れると濡れている。自分も泣いていた。理由は分からない。でも、分かっている気がした。
次に気づいたとき、草の上に座っていた。風が穏やかに吹いていく。視界は澄んで、さっきまでの曖昧さが嘘のように消えていた。隣に誰かがいる。
——自分だ。でも、違う。
傷がない、歪みがない。整った顔立ちに静かな目。穏やかで揺らがない。もう一人の自分はこちらを見ていた。言葉を交わすも内容ははっきりしない。ただ、理解だけが残る。やがて、彼が言った。
「……あそこに、君の身体があるのが見えるかい?」
彼に指し示された先を見る。暗い塊、黒い靄が蠢いている。その中に……何かが倒れている。よく見ると自分だ。地面に伏せて寝息を立てている。間違いなく自分の身体なのに、違和感と強烈な拒否感に思わず声が漏れる。
「うわ……あれ、俺? なんか……気持ち悪い。動物みたいじゃん」
その瞬間、隣の自分がわずかに目を細めた。
「あれはね、君なしだとただ欲望に忠実な“動物”なんだよ。あれは死や苦痛を回避するために、自分の欲望に従うように出来ている」
「……じゃあ、欲望に従うのは悪いことなのか?」
風が草を揺らし、もう一人の自分はゆっくりと首を振った。
「極端、どちらも同じだよ。君には君のやるべきことがある。でも、そればかりに囚われてもいけない。かといって、あの“動物”の欲望にすべてを委ねてもいけない」
もう一人の自分の視線が黒い塊へと向き、再びこちらを見ると言葉が静かに落ちる。
「君は君自身でありながら、あれを従わせなければならない。お互いを理解して、均衡を保つんだ」
胸の奥に何かが沈む。理解している。説明されなくても分かる。それが、自分の在り方だと。その時、もう一人の自分が立ち上がった。
「……そろそろ、行かないと」
いつの間にか、そこに階段があった。下へと続く、長い階段。上は明るいが、下へ行くほど闇に沈んでいる。底は見えず冷たい、暗い。嫌な場所だと直感で分かる。
「……どこに行くんだ?」
自分が問いかけるも、彼は振り返らない。
「やることがあるから」
それだけを言って彼は降りていく。一段、また一段。表情も変わらず淡々と。
「待てよ……行くなよ、ずっとここにいればいいじゃん……なんでだよ」
彼の背中が遠ざかる。それでも、分かってしまう。あれを一人で行かせてはいけないこと。あれだけでは、不完全だということ。心配だということ。そして——自分も行かなければならないこと。
「……待って! 一緒に行こう!」
立ち上がって駆け出す。階段へ、闇へ。叫びながら追いつく。隣に立って並んで、視線を合わせた。もう一人の自分は頷き、二人で階段を降り始めた。光は遠ざかる。闇が近づくが、もう足は止まらなかった。
——光。
まぶたの裏に淡い明るさが滲んでいた。ゆっくりと目を開けるも、視界はぼやけて焦点が合わない。瞬きを数度繰り返して、ようやく輪郭が戻ってくる。薄暗いが、完全な闇ではない。テントの布の隙間から柔らかな朝の光が差し込んでいる。夜明け直後の、まだ冷たい色の光。どこか現実感が希薄なまま、ルキフェルはしばらく天井を見つめていた。
——戻ってきた。
そう思うのに実感が遅れる。体が重い、頭の奥が鈍く疼く。遅れて感覚が追いついてくる。呼吸、心臓の鼓動、布の感触。そして——痛み。
「……っ」
こめかみが脈打ち、頭痛がズキズキと遅れてくる。夢の残滓のように何かがまだ頭の奥に引っかかっている。思い出そうとすると指の隙間から零れるように消えていく。ただ、感覚だけが残っている。重さと温もりと、そして何かを決めたような感触。ルキフェルが上半身を持ち上げた瞬間、軽く眩暈がした。視界が揺れるが、倒れるほどではない。横を見ると、すぐ隣でコリンが丸くなって眠っていた。規則的な呼吸、小さく上下する背中が妙に現実的で安心する。ルキフェルは少しだけ手を伸ばし、コリンの肩に触れて軽く揺らす。
「……コリン」
呼びかけた声は思ったより掠れていた。
「んん……」
コリンが小さく唸るとルキふぇうはもう一度軽く揺すった。
「起きろ」
コリンの眉が動いてまぶたが開くと、ぼんやりとしたままルキフェルを数秒見つめ、次の瞬間には跳ねるように起き上がった。
「——ルキフェル!?」
コリンの声が裏返って顔面が崩れた。ルキフェルは口元を緩めて囁く。
「おはよう」
コリンは一瞬ぽかんとして、ルキフェルの顔をじっと食い入るように覗き込んだ。
「……なんだろ。憑き物が取れたみたいな顔してるよ」
ルキフェルは目を細めると息を吐き、コリンはすぐに顔を上げて慌ただしく立ち上がる。
「待ってて、レオン呼んでくる!」
そう言い残して、コリンは颯爽とテントの外へ飛び出していった。布が揺れ、朝の光が一瞬だけ強く差し込んですぐに元に戻る。静寂、誰もいなくなった空間に呼吸の音だけが残る。ルキフェルは片手で頭を押さえた。
「……っ」
やはり痛む。深く響くような鈍痛だが、それ以上に残っているものがあった。視界の奥に微かにチラつく光景。白い雲、水面、そして階段。暗く沈む、あの感覚。思い出そうとするとボヤけるが、自分はあそこにいて何かを選んだ。そこまでは分かる。言葉にはならないが、胸の奥に重さが残っている。軽くなったわけじゃない、むしろ抱えたものがはっきりしただけだ。ルキフェルは目を閉じた。朝の光がまぶた越しに滲む。一瞬だけ息を整え、再び目を開けた。もう、さっきまでの揺らぎはない。やがて足音が近づいてきてテントの布が揺れ、レオンが顔を覗かせる。
「……目が覚めたか」
いつも通りの落ち着いた声だが視線は鋭い。一目で状態を測ろうとする、医者の目。ルキフェルは軽く頷いた。
「……ああ」
レオンは距離を詰めてルキフェルの額に手を当てた。次に手首を取り、脈を測る。
「どうだ、気分は」
「……熱っぽいのと、だるさが少し。あと、頭が痛む」
ルキフィルが言葉を選びながら答えると、レオンは一度だけ頷いた。
「想定内だな。無理に起きる必要はない、もう少し休んでいなさい」
レオンが静かに告げると立ち上がって外へ出ていった。
「胃に優しいものを持ってくる」
布が揺れ、また静寂が戻る。ほどなくして、コリンが戻ってきた。彼の背後からもう一人、ジャスパーが入口で一瞬だけ足を止め、ルキフェルの様子をじっと見る。
「……起きたか」
「ああ」
ルキフェルは軽く応じると間を置けて訊ねる。
「……あのあと、どうなった」
ジャスパーは一度だけコリンと視線を交わして肩を竦めた。
「覚えてねえか」
「……断片だけだ」
ジャスパーは淡々と話し始める。暴走、錯乱、刃を振り回していたこと。止められなかったこと。最後は倒れたこと。必要なことだけを感情を挟まずに語る。話が終わる頃には、テントの中の空気が少しだけ沈んでいた。ルキフェルは目を伏せて口を開く。
「……悪かった」
コリンが一瞬だけ息を呑むもジャスパーは少しだけ目を細めた。
「……別に。戻ってこれたんだから。もう少し寝てろ、マテオが夜のうちに偵察に出てる」
「……マテオが? 平気なのか」
ルキフェルは顔を上げ、コリンがすぐに口を挟む。
「一人で行けるって言ってたよ。むしろその方が動きやすいって」
「……そうか」
再び足音、今度はレオンが戻ってきた。彼の手には木製の器、中から湯気が立ち上っている。
「食べられるか」
レオンから穀物を煮た柔らかな粥を差し出され、ルキフェルは器を受け取った。
「……ああ」
ルキフェルはスプーンを取って一口運んだ。優しい味、胃に落ちていく感覚が内側からはっきりと分かる。身体がようやく戻ってきたと認識し始める。静かな時間が流れる中、ジャスパーが思い出したように口を開く。
「……そういや。カルロータさんとディッキーも来てる。アランさんと一緒に船に乗ってた。……みんな、いる」
ルキフェルの手が一瞬止まるも粥を口に運び、器の底に残っていた粥を最後の一口で飲み下し、器を膝の上に置いたまま息を吐く。その時、外から足音が近づいてきた。砂を踏む軽い音と共にテントの入口が揺れ、布を押し上げるようにしてマテオが入ってくる。顔には土や煤がうっすらと付き、肌の色と混ざり合っていた。マテオがルキフェルに近寄ると、ルキフェルも彼に視線を返して先に口を開く。
「……とりあえず、顔拭けよ」
マテオは一瞬だけ眉を動かして鼻で笑う。
「ちゃんと寝たら、な」
ルキフェルは器を脇に置いた。
「そうはいかない。ニール、見つかってないんだろ。……探さないと」
「……そう言うと思った」
マテオが肩をすくめ、少しだけ姿勢を正した。
「結論から言う。ダラス家の船を見つけた。あの妙な砂浜、沖合に停めてある」
あの場所、全員が同じ景色を思い浮かべて沈黙が落ちる。ルキフェルはゆっくりと息を吸って吐いた。身体はまだ重いが、止まる理由にはならない。
「……ちょっと外に出たい」
マテオはルキフェルを見て息を抜き、ぶっきらぼうに付け加える。
「分かったよ、無理はすんな」
ルキフェルは肩に薄手の布を引き寄せた。朝の空気はまだ冷たく、肌に触れる風がわずかに刺さる。ルキフェルは一度息を整えて立ち上がろうとすると身体が軋んだ。
「……っ」
力が入らず遅れて重さが戻ってくる瞬間、彼の隣からマテオの腕が伸びて肩を貸し、ルキフェルも彼に体重を預けて慎重に立ち上がる。
「……行けるか」
「ああ」
ルキフェルはマテオに支えられるようにしてテントを出た。外の光がわずかに強く、思わず目を細める。ジャスパーとコリンも二人の後ろをついて行き、レオンは器を片しながら彼らを見送った。
集落の中央、焚き火の跡がまだ薄く燻っている前に、アランは立ち尽くしていた。ルキフェルが倒れる寸前、彼が発した言葉が脳裏に刻まれている。
——ラウル。
その時、砂を蹴る音が規則的に響いてアランが振り向くと、少々やつれた様子のヤンが足を止めた。
「眠れなかったんですか」
「……少し」
アランはヤンから目を背けて焚き火跡を見下ろすと、ヤンは彼と肩を並べて伺う。
「今にも吐き出しそうな顔してますけど」
ヤンが平坦な口調で尋ねると、アランは深いため息を吐いて彼を流し目で見る。
「……昔話に付き合ってくれるか。記録必須かもだが」
「ええ、わたしで良ければ」
アランが立ったまま話し、ヤンが手早く何かを書き留めていく。低く途切れない声、報告というより整理に近い。やがて、アランが言葉を切ってヤンも手を止めると、背後から数人分の足音がして二人は同時に振り返った。ルキフェルがマテオに支えらえて近づいてくる。アランの目がルキフェルを捉えた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。ルキフェルはマテオに支えられたまま数歩進むと、アランをじっと見つめる。
「……俺、思い出したよ。本当の名前」
アランが眉を顰めて何か言いかけたが、ルキフェルは即座に首を横に振った。
「でも、後でいい。まずはニールを取り戻したい」
アランは一瞬面食らうも目を細めて頷いた。焚き火の残り火を囲むように、全員が腰を下ろすとマテオが口を開く。
「見てきた。浜には誰もいない、気配もなかった。沖合には一隻の船。……つまり、ニールがいるとしたそこだ」
アランが唸りながら腕を組んだ。
「……取り戻すには人質交渉しかない」
「じゃあ、おれが——」
ジャスパーが言いかけた瞬間、ルキフェルが被せるように言う。
「ダメだ、俺が許さない」
全員の視線が集まり、ルキフェルは息を詰めて言葉を絞り出す。
「五人じゃないと耐えられない。お前らがいないと……俺は、何もできないんだ」
ジャスパーが目を見開き、それから困ったように笑う。
「……そんな顔で言われたら参るよ」
マテオが間を切るように口を開く。
「じゃあ、餌が必要だな。あいつら、夢蛇を狙ってるんだろ。夢蛇の一部を差し出すしかない」
「……組織としては、どうなの」
コリンがヤンの方を見ると、ヤンは一瞬だけ考えて口を開く。
「あなた方は、特にニールさんは戦争の裏で力になってくださいました。組織としても、彼が犠牲になるのは耐え難いでしょう。この件は同僚と話し合ってきます」
ヤンの視線がルキフェルたちをなぞり、ルキフェルは重々しく頷いた。
「頼む。一刻も早く救わないと」
その後、ヤンはアランの帆船へと向かった。甲板にはすでに東洋の面々が集まっている。ワン、ポーラン、そして数名の同僚たち皆、状況の重さを理解している顔だった。簡潔に状況が共有される。
「人命が優先だ。犠牲は出せない」
ワンが低く言うとポーランも力強く頷いた。夢蛇の一部を差し出す、これが最も現実的で、最も守れる選択。意見はすぐに一致し、協議は思いのほか早く終わったが、解散しかけた時にチャンの声が空気を止める。
「……今じゃないってのは承知の上で。あの五人組、あの中に、予言の星に当たる人間がいると思いますか」
誰もが視線を交錯させ、ヤンが厳かに口を開く。
「……いるとは思います。ですが、条件に当てはまる者は多い。現段階で特定はできません」
チャンは頷き、話題はそこで切れた。貨物の準備、搬出の段取り、人員配置と東洋の者たちはそれぞれの役割へと散っていった。予言は、今は脇に置かれる。優先すべきは命だ。
一方、集落の外れでルキフェルはあの三人の姿を見つけた。サミュエルとロザリーペネロペ、互いに距離を保ったまま向かい合う。ルキフェルが一歩前に出ると頭を下げた。
「……すまなかった」
潮風が彼の言葉を運び、三人は思わず目を見開いた。
「そんな……謝られても、困っちゃうなあ」
「私たちも早まったわ。謝るべきはこちらよ」
ペネロペが困ったように笑い、ロザリーは苦笑して息を吐いた。ルキフェルは、ゆっくりと頭を上げ、三人を真っ直ぐに見つめる。
「……仲間を助けたい。共に戦ってくれないか」
サミュエルがルキフェルを見つめ、翡翠の瞳を観察すると口元を緩める。
「……今の君の瞳を見るに覚悟と矜持がある。実に美しい」
ロザリーとペネロペが一瞬だけ目を丸くするが、サミュエルは構わず続ける。
「今は立場など関係ない。手を取り合おう」
ルキフェルは顔を強張らせたが緩やかに笑って息を吐く。
「……ありがとう」
三人は視線を逸らし、そわそわと微妙に距離を取り直した。かつて怪物のように見えていた海賊が今、自分たちに頭を下げて礼を言っている変化をどう受け止めればいいのか。
「……なんか、調子狂うね」
「ええ……」
ペネロペがぼそりと呟き、ロザリーも同意するように肩をすくめるが、二人の表情は少しだけ柔らいでいた。




